第17話 譲れるもの、譲れないもの
殺気の主はチュルカ人兵士たちだ。
彼らはナーヒドが自分たちの領域である黒軍の駐屯所に入ってくることをよしとしない。きっと縄張りが荒らされると思っているのだ。視線で帰れ、帰れと訴えている。
とはいえ睨んでいるだけだ。怒号も嘲笑もなく、真正面に立ちふさがっているわけでもない。力尽くで排除しようとまでは思っていないらしい。武力行使に出る者はただの一人もなかった。直接蛮行をはたらく気はないようだ。
顔には出さなかったが、ナーヒドは内心驚いていた。正直なところ、ナーヒドはいざとなれば刃を交える覚悟でここまで来ていた。こうして見ると、黒軍は赤軍よりもずっと行儀が良いように思う。
野蛮人の集団だと思い込んでいた。
しかし――冷静に考える。
本当に理性のない人間の集まりだったら、軍隊として統率された動きを取ることはできない。
ひとりひとりが己の役割を把握し理解している。そしてその上で指示に忠実に従っている。そうでなければ彼らは大陸最強の騎馬隊にはなりえなかったはずだ。
もっと早く気がついていたら、この国は違う結末を迎えていたかもしれない。自分がそれをフェイフューに教えてやれていたら、いろんなことが大きく変わっていたかもしれない。
もう遅い。自分たちには時間がない。
黒軍は指揮命令系統のはっきりしている組織だ。彼らは頂点にひとりの長を戴いていてその命令を待っている。
やがて宮殿の南の棟の一角に出た。
列柱の向こう側に戸のない出入り口が見える。中に数名のチュルカ人兵士が詰めていて、何かを話し合っている。チュルカ語なのでナーヒドには内容までは分からない。ただ緊迫しているのは伝わってくる。
出入り口に立つ少年兵が口を開いた。
「蒼将軍様が何のご用ですか。今取り込んでるんですけど」
ナーヒドは胸の中に苦いものが広がっていくのを感じた。
少年は確かにアルヤ語を話している。ぶっきらぼうで乱暴だが、意味の通る丁寧表現を使って会話をしようとしている。
長い黒髪を細かく編み込み毛皮の帽子をかぶっている。見間違えようもなくチュルカ人だ。
それでも、彼らはナーヒドに分かることばで話している。
本当は、会話ができるはずなのだ。
湧いた感傷を抑え込んで答えた。
「サヴァシュに用事がある。いるか」
「いますけど取り込んでます」
「俺も急ぎの用件だ。申し訳ないが取り次いでくれ」
ナーヒドが比較的丁寧な言い回しで言ったからか、少年はしぶしぶながらも部屋の中に一歩入っていった。そして、その場から大きな声で呼び掛けた。
「隊長!」
部屋の中にいたのは黒軍の幹部たちだった。
中央に置かれた脚の長い卓の向こう側で数人の男女が武装していた。軽騎兵の簡易な革の鎧をまとい、チュルカ人特有の複合弓を手にして、大きな湾刀を腰に下げている。まるで今から馬にまたがってどこかへ戦争に赴くかのようだった。
手前にいる面々は、チュルカ人の民族衣装なのでナーヒドには明確な区別がつかないが、おそらく、平服だ。皆腰に短刀を下げてはいるが奥にいる人々に比べたら丸腰のようなものである。
手前側の真ん中に見慣れた背中があった。黒い鞘に納まった黒い柄の剣を負っている背中だ。
少年兵に呼ばれて、首を回して振り返った。
「隊長、ナーヒド将軍がお呼びです」
サヴァシュが顔をしかめる。
「普段のヒマな時にはお前から話し掛けてくることなんてまったくないってぇのに、俺に余裕がなくてアルヤ人様の相手をしている場合じゃないって時にはわざわざ会いに来るよな。狙ってんのか?」
「そうか。普段の暇な時とやらにもっと話し掛ければよかったな」
「うぜぇな。冷静に考えたらそれはそれで面倒だ」
「そう言うな。貴様がなぜこんなに俺に当たるのか俺には分からなかったのだ」
言葉がすんなりと出てきた。
「すまなかった」
サヴァシュは一拍間を置いた。
「十八年前。俺は貴様をたいへん怒らせてしまった。だがなぜ怒っているのか俺には最近まで分からなかった」
「十八年前? いつだ」
「貴様がアルヤ王国に来た直後のことだ」
サヴァシュが体を完全に後ろに向け、ナーヒドとまっすぐ相対した。
「俺がアルヤ語で手紙を書いたことが気に入らなかったのだな」
サヴァシュの表情が、驚いているように見えた。
「俺が、貴様がアルヤ語の読み書きができるのを前提に振る舞ったのを、貴様は侮辱だと思ったのだな」
何度も何度も聞いた。
――俺は北チュルカのド田舎のだだっ広い草原出身なんでな。
ナーヒドに世界で一番美しいアルヤ語のエスファーナ標準語があるように、サヴァシュにも世界で一番美しいチュルカ語の北方の方言があったのだろう。あの頃の彼にとってはそのことばがすべてだったのだろう。こんなところに連れてこられなかったらそのほかに何のことばもいらなかったのだろう。
アルヤ語を学ぶことは人生を豊かにする。それは疑いようもない。できないよりはできた方がいい。異民族のことばを使えるようになったことでサヴァシュの世界は広がったはずだ。
しかし望んでいなかった方法でむりやり広げられるのはけして幸福なことではない。
「アルヤ語を強制されるということがどんなことなのか俺には分からなかったのだ。今は申し訳なく思っている」
「……なんだよ。もっと早く言えよ」
言う声はかすかに震えていた。
「もう十八年もかかっちまっただろうが。俺はその一言だけでよかったのに」
やっと、通じ合えた。
ナーヒドは胸のつかえが取れた気がして少し息を吐いた。
「ただ……、でもそれ、今言う話か? 今黒軍がちょっとごたついてる、俺の知らないところで武器を買っていた奴がいて処分しないといけない。急ぎだ。今はお前とゆっくり語らうことはできない」
「すまんが、今言わねばもう二度と言う機会は来ないと思ってな」
「もう二度と、だと?」
「フェイフュー殿下がユングヴィに会いに貴様の家へ向かった」
サヴァシュが目を丸くした。
「俺は、殿下がユングヴィをどうにかするまで、貴様をどこかで足止めしろと言われている」
「あのクソガキ、ユングヴィに何をする気だ」
「分からない。とりあえずソウェイル殿下を諦めるようにご説得なさるそうだが、ユングヴィが折れなければそれなりの手段を取るおつもりだ」
「どけ」
その声は先ほどとは打って変わって低く唸るようだ。
「帰る」
「させない」
「殺すぞ」
「それでいい。俺もその気だ」
ナーヒドは落ち着いた声で応じた。
「貴様が帰れないように。そう簡単にはユングヴィに会えないように。――そうするのが、今の俺の仕事だ」
黒軍の兵士たちも、驚いた目で自分たちを見ていた。
「必要ならば、貴様を斬る。それがフェイフュー殿下への最大の御奉公だ」
「やってやろうじゃねーか」
胸の前に回された、神剣を背中に固定している革帯を、外した。そして、神剣を手につかんだ。
「表に出ろ。俺は今すぐお前を殺して家に帰る。で、今度こそあのガキを殺す」
「ああ、俺を倒せたら、そうしろ。俺を倒せたら、な」
ナーヒドは体を横にして、サヴァシュの様子を窺いながら、部屋を出た。サヴァシュはそれにすぐ続いた。
二人揃って、
「言っておくが手加減はしないぞ。貴様は強い、だから最初から全力でいく。はずみで殺すこともあるだろう。残った女房子供は俺が世話をしてやるから安らかに死ね」
「お前こそギゼムにお別れは言ったか? 次に会う時お前はたぶん死体だ」
サヴァシュが黒軍の兵士たちに「お前ら邪魔するなよ」と言った。
「何が何でも俺の手で殺さないと気が済まない」
兵士たちが「了解」と答えた。
「俺の嫁に手ぇ出してタダで済むと思ってんじゃねーぞ」
「過去の俺にどれほどの過ちがあろうとも、現時点で、御国のことより女房子供を優先する貴様の信念と義の心を重んずる俺の信念が相いれないことはゆるぎない事実だ。そこを譲るくらいなら俺は死んでも構わん」
蒼い神剣の柄を握った。蒼い刃が姿を見せた。太陽の光がほとばしった。
サヴァシュも黒い鞘から刃を抜き去った。闇を凝縮した漆黒の剣を構えた。
息を吸う。
向かい合う。
きっとこれが最後だ。
サヴァシュが剣を斜め上から振り下ろした。
ナーヒドの剣が斜め下から受けた。
重い。強弓を引く背筋と握力だ。油断すると腕力で押し負ける。
だが地上での彼はさほど速くはない。
すぐに一歩引いた。
そして彼の右側に踏み込んだ。
彼が振り向こうとする。
顔面を狙って押すように突き刺す。
彼が身をかがめてそれをかわす。
間を置かず手首を返して背中を斬りつけようとした。
かすった。彼の右肩に刃が当たった。
低い姿勢のままナーヒドの腹を狙って剣を横に薙ぐ。ナーヒドも剣をそこに運んで刃で刃を受ける。
金属音が鳴る。
重なったのは一瞬だった。
離れた。距離を置いて向き合った。
サヴァシュの服の右肩に液体が滲み始めた。黒い服なので分かりにくいが先ほどの傷だろう。
勝てる。
戦わなければならないのだ。何があろうとも譲るわけにはいかないのだ。
フェイフューに未来を示さなければならない。フェイフューにはまだ時間が必要だ。ソウェイル王の世が来てフェイフューの未来が断たれるということはあってはならない。
たとえ相討ちになろうとも、絶対に、サヴァシュを宮殿から出さない。
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