第16話 世界で一番愛しています 2
「抜けるのですか」
ソウェイルが鞘を放り出してから神剣を構える。その構えはアルヤ騎士の正統な型ではない。
「『蒼き太陽』は十神剣の上に君臨する」
その切っ先が、フェイフューに向けられている。
「こんなこと何の役にも立たないと思っていたからひとに言う必要はないと思っていたけど。神剣と、『蒼き太陽』は、会話ができるので。俺が出てこいって言ったら、どの剣も鞘から出てくる。俺にも抜けるし、俺が命令した人間にも抜ける。つまり――」
『蒼き太陽』とは、やはり、神だったのだ。
「俺は次の代の将軍を選べる。お前が余計なことをしなくてもアルヤ王国軍と十神剣の関係は俺の代で変わるんだ」
知らなかった
動揺を抑えて問い掛ける。
「なぜ、それを今ご説明なさるのです? それが、今――兄上が王になることとどういう関係が? 王になったら十神剣による支配を強めるのですか?」
「逆だ。アルヤ王国の神権政治は終わる」
いけない、と思った。
「俺がやめると言えば『蒼き太陽』も十神剣も終わりだ。俺は天命なんかじゃなくて、あらかじめさだめられた性別や出自でもなくて、やりたいやつにやらせる仕組みを作るぞ」
『蒼き太陽』の威信が傷ついてしまう。
「アルヤ人の高貴な身分の男性であることを振りかざすお前には絶対できないだろ」
『蒼き太陽』は永遠にアルヤ王国に輝く神でなければならない。何よりも尊い至高の存在でなければならない。
たとえ『蒼き太陽』自身の望みであっても『蒼き太陽』を神の座から引きずり下ろすのは許さない。
ソウェイルが剣を振りかぶった。
その動きは思いのほかためらいがなかった。切っ先にぶれがない。想像以上にできる。ソウェイルは屋内に閉じこもってばかりの貧弱な少年だと思っていたがそこまで弱いわけでもなさそうだ。
勢いよく振り下ろされる。
空気を斬る音がする。
フェイフューは大きく一歩跳ぶように下がった。
「出ていけ」
しかし――脇が甘い。
ソウェイルも弱くないのかもしれないが、フェイフューはただただ強いのだ。
荷物を放り投げた。
一足飛びでソウェイルのふところに跳び込んだ。
ソウェイルの挙動が遅れた。
彼の腕と腕の間に手を突っ込んだ。引くとフェイフューの手首に神剣を握っている左右の拳がぶつかった。
思い切り引く。
左手が柄から離れた。
右手だけで剣を持っている。彼の腕力では片手で重い長剣を扱うことはできないだろう。
肩で胸に体当たりをした。
彼の体は軽く、フェイフューの体重を受け止めきれなかった。
吹っ飛ぶ。
壁に背中を叩きつける。
それでもまだ剣を握ったままの右手に手刀を叩き込んだ。右手が緩んだ。
神剣が消えた。魔法のようだった。
探して床を眺めるとソウェイルが先ほど放り投げた鞘に納まっていた。フェイフューが奪って握るということはできないらしい。
だが素手で制圧するのは簡単だ。
ユングヴィに教わったのだ。
まず右手でソウェイルの左肘をつかんだ。これで左腕の動きを封じた。
左手を回してソウェイルの首を抱え込んだ。これで上半身を固めた。
腹に思い切り膝蹴りを喰らわせた。
ソウェイルが、潰れた、何かを吐き出すようなうめき声を上げた。体を二つ折りにするように、かがむように頭を下げる。
右手を肘から離した。
左手を、首から背中に這わせるようにして、後ろから腰に回した。
今度は、ソウェイルの首を、右腕で、右の脇の下で締め上げた。
これで首を通る血流や呼吸を止められる。
ソウェイルがもがいた。
フェイフューはそのままの体勢で、ソウェイルがどう動こうとも動じることなく、心の中で十数えた。
ソウェイルの動きが、止まった。体から力が抜けていった。
床に、崩れ落ちる。
彼の体から両腕を離した。
膝をついて様子を見た。先ほど苦しげな声を出していたので嘔吐したのではないかと思っていたが、どうやらそこまでではなかったようだ。今が朝食前で胃に何も入っていなかったことも幸いしたかもしれない。
蒼白い顔で床に横たわり、咳き込んでいる。
フェイフューは、先ほど放り投げた荷物、布製のかばんに包まれた道具を手元に持ってきた。
中から小さな紙の包みを取り出した。開くと入っているのは丸薬だ。
水筒も取り出す。
ソウェイルの上半身を抱え起こす。
形の良い唇に、親指を差し入れた。
ソウェイルは朦朧としていて抵抗しなかった。目が開いているので見えてはいるのだろう、「ん」と小さくうめいたが、噛みつくようなことはなかった。
温かく湿った口内に触れた時謎の緊張が走った。
口の奥に丸薬を押し込む。
それから水筒を唇に当てて水を飲ませようとする。
うまくいかなかった。ソウェイルは顔をしかめて吐き出そうとした。
仕方がないので、フェイフューは自分の口に水を含んだ。
そして、ソウェイルに口づけた。
口移しで水を、そして丸薬を飲ませた。
ソウェイルの唇は薄く柔らかく、カノとはまた感触が違って、なかなか趣深いと思った。
ソウェイルの喉が上下した。
飲み込んだ。
口を離した。
「何……して……」
ソウェイルの意識がさらに遠のいていくのが分かる。
「大丈夫ですよ。怖いものではありません。薬草でできた眠くなる薬です。少しの間意識がなくなりますが、ひと晩経てばもとに戻るのでご安心ください」
まぶたが、下りていく。
「ねえ、兄上」
ソウェイルの頬を撫でた。
「世界で一番愛しています」
ソウェイルの手が、床に、落ちた。
その手を取って、手首をつかみ、規則正しい脈があることを確認した。
荷物をその場に置いたまま、左腕をソウェイルの膝の下に入れ、右腕で上半身を支えて、抱き上げた。
意識がない人間のわりには軽かったが、思っていたよりは重い気がする。もっと羽根のように軽いのではないかと思っていた。やはり同い年の男なのだ。だが鍛えられたフェイフューにとっては苦になるほどの重さではない。
部屋の、扉から見て右の衝立の向こうに運んだ。
そこに大きな天蓋付きの寝台があった。
そっと、眠り姫を起こさないように、静かに寝台の布団の上へ寝かせた。体が柔らかく沈んでいく。
先ほどの空間に戻り、かばんの中をまさぐった。
次に出てきたのは、輪になるように束ねた縄だ。
ほどきながら、寝台の方へ戻った。
ソウェイルの両方の手首をつかんで、少し強めに縛り上げていく。跡が残らないようにしたいが無理かもしれない。動かないようにしたいので仕方がない。
手首を縛り上げると、小刀で縄の途中を切った。
余った縄を、今度はソウェイルの右の足首に巻き付けていった。それから寝台の基台、枠に開けられた飾りの穴に通した。何周か巻いて固定する。
これで自力では寝台を下りられない。
「今日一日、ごゆっくりお休みください」
言いながら、掛け布団を掛けた。胸まで覆い、風邪をひかないようにと祈りを捧げた。
衝立の向こう側に出ると、白い神剣が床に転がっているのが目に入った。神剣はフェイフューには何も言わなかった。怨嗟の声も感謝の言葉も聞こえない。フェイフューは『蒼き太陽』ではないのだ。
荷物をすべて抱えて、部屋を、出た。
扉のすぐ傍に先ほどの兵士が立っていた。
「少し大きな声の、まるで揉めているかのような音が聞こえましたが、何かございましたか」
「ちょっとした喧嘩をしました。いつものただの兄弟喧嘩です、兄上も僕も怪我はありません。ただ兄上は怒ってふて寝なさいました」
「さようですか」
「ずいぶんと腹を立てておいでです。話し掛けないようになさい。今日は一日こもられたいとのお言葉です。もしなんでしたら、お食事も無理して召し上がるようには申し上げないようにしてください」
ソウェイルが不機嫌を理由に部屋から出てこなくなることはままある。加えて最近はしょっちゅう食事をおろそかにしている。白軍兵士は皆ソウェイルのそういう癖を知っていた。
今日もそうなのだと解釈したに違いない、兵士はフェイフューの言葉を疑わなかったようだ。ただ「かしこまりました」とだけ答えた。
「では、失礼しますね」
フェイフューは歩き出した。
長い、暗い、廊下だった。
もう戻れない道を歩いているのだ。
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