第15話 世界で一番愛しています 1





 そしてその日の朝が来た。






 フェイフューは、左手に荷物を持ったまま、右手で扉を小突くように叩いた。

 返事はしばらく返ってこなかった。

 いないということはない。女官たちにいることを確認している。寝ているのか、それとも、居留守を使っているのか。


 扉の外から呼び掛けた。


「兄上」


 扉がとてつもなく分厚く感じられた。実際は女官が一人でも開閉できる重さなのでフェイフューにとってはぶち破ることも不可能ではない。だが、向こう側が神聖不可侵の領域のように思えた。


 幼い日のことを思い出した。まだ手習い所に通っていた時のことだ。

 あの頃フェイフューは学校帰りに必ずこの部屋に立ち寄っていた。しばしば夕飯まで居座ることもあった。しかしあの家からユングヴィが出ていき勉強部屋になって以来は来ることもなくなっていた。

 何年ぶりだろう。


 もっと早く来ればよかった。


 フェイフューにはこの扉を開けることすらできない――ソウェイルが招き入れてくれない限りは、だ。


 何よりも尊く、神聖で、侵しがたい存在だった。神だった。彼のために心身を捧げて死ぬのだと思っていた。自分にとっては世界のすべてで、『蒼き太陽』さえ輝いていれば自分はいつ死んでもいいのだと思っていた。


 それを、今、超越する。


 彼はフェイフューに生きる理由をくれる。

 彼を守るために、自分は存在するのだ。


「兄上。お話しできませんか」


 扉の向こうから、声が返ってきた。


「フェイフューか」


 名前を呼ばれた。

 それだけでこんなにも胸が熱くなる。


「はい」


 扉が、開いた。内側から、開けられた。

 すぐそこにソウェイルが立っていた。


 日に当たっていない肌は白い。蒼白く見えるほどで、彼がなぜ太陽と呼ばれているのか分からなくなる。痩せて顔の輪郭がさらに細くなっていた。蒼い瞳は色を失っている。

 こんなにも弱々しく儚い。

 守らなければならない。


「いまさら何の用だ」


 しかしその声はとげとげしい。

 フェイフューは苦笑した。


「兄上と二人きりで話をしたいです。お時間をいただけませんか」


 ソウェイルはしばらくフェイフューを眺めていた。いぶかしんでいるようだった。そんな目で見られるのは少しつらかった。彼は傷ついてしまったのだ。

 それももうすぐ終わる。


 やがて――頷いた。


「入れ」


 そう言ってきびすを返し、部屋の中へ入っていった。


「ソウェイル殿下」


 扉の前に立っていた白軍兵士が声を掛けてくる。


「自分もお供いたしましょうか」


 フェイフューは苛立った。自分はソウェイルと二人きりにできないような危険人物だと思われているのだろうか。

 フェイフューが口を開く前に、ソウェイルが「いや」と答えた。


「二人きりにしてくれ」


 ほっと息を吐いた。


 扉が、閉ざされた。

 部屋に、二人きりになった。


 ソウェイルが使っている部屋は本来はひとつのとても広い大きな部屋なのだが、狭いところに閉じこもるのが好きな彼は中にいくつか衝立を並べて三つの小部屋に分けていた。向かって左がこもって絵を描いたり手工芸の作業をしたりする空間で、右には寝台が置かれて寝室になっている。


 真ん中、今二人がいる空間は、小さな家の居間のような場所だった。

 奥の壁際に棚がある。何もないのは殺風景だといって職人が自発的に据え付けた飾り棚だ。

 その棚の上に、白銀の神剣が置かれていることに気づいた。


 フェイフューは胸が痛むのを感じた。

 ソウェイルはずっとあの剣とともに生活しているのだ。寂しいのだろう。

 だが今はその話をしに来たのではない。


 部屋の中央にまっすぐ立って、互いに向き合った。

 やはり、ソウェイルの方がまだ背が低い。フェイフューが何かしたら吹き飛んでしまいそうだ。


「何の話だ?」


 ソウェイルが問い掛けてきた。その声はどこか鋭く彼の感情が尖っているのを感じた。

 早く鎮めてあげなければならない。


「兄上に折り入ってご相談があります」

「どんな?」

「王位を諦めてくださいませんか」


 ソウェイルの大きな蒼い瞳が真ん丸になった。

 ソウェイルがどんな顔をしても、フェイフューはよどみなくすらすらと話すことができた。今日までずっと考えを練り込んでまとめてきたのだ。フェイフューの中ではすでに終わっている。あとはソウェイルが頷くだけだ。


「そもそも、兄上は何を思って王になろうとなさっているのですか」


 フェイフューの声はあくまで穏やかだ。


「もし王にならなければならないと思い込んでおいででしたら、もうおやめください。僕がすべて代わりにやらせていただきます」

「お前、何を言ってるんだ」

「僕は一度も兄上の口から兄上の政策や展望をお聞きしたことがないのに気がついてしまって。ずっと考えていたのですが、やはり、『蒼き太陽』としてお生まれになったからですか? 王にならなければならないという重圧を感じておいでなのでは?」


 フェイフューが一歩前に出る。ソウェイルが一歩下がる。


「兄上は、この国を、どうしたいですか。この国がどうなったらいいと思いますか」


 ソウェイルはさらに自主的に一歩下がった。フェイフューと距離を置こうとした。フェイフューはそれを許さなかった。また一歩前に出た。


「教えてください。具体的な理由がないのなら、お引きください」

「何かと思ったら、そんな話か」


 口元を歪めて、不愉快そうな顔をして――


「今まで何も言わずに来た俺が悪かったんだな。これからはもっとはっきり言うようにすることに決めた」


 そんな表情でさえ愛しいのに――


「俺の国はな、フェイフュー」


 ソウェイルは、後ろに手を伸ばした。


「お前みたいな独善的な強者が圧倒的多数の弱者を抑圧することのない国だ……!」


 フェイフューは、目を、丸くした。


「僕が、独善的?」


 ソウェイルの手が、棚の上の神剣を、つかんだ。


「お前の独りよがりの正義とかいうやつにはもううんざりなんだ!」


 何をするのかと思った。

 ソウェイルは神剣の柄を握り締めた。

 引いた。

 するり、と。まるで、当たり前のように。

 白銀の刃が、その姿を見せた。






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