第10話 日輪の御子と橙の女鹿 2

「何かないの? 誰かに改まって言うほどのことじゃないけど、なんとなく誰かに聞いてほしいこと。別に言わなくてもいい、特に大事な話題じゃないけど、他人と共有できたらちょっとほっこりすること」


 自分の顎に触れつつ考える。


「そうですね……、では、この話。本当につまらない、些細な、特にひとに言うほどのことでもないと思う発見なのですが、ずっと気にかかっていたことがひとつ」

「なになに!?」

「本当に、大した話ではありませんよ?」

「そういうことが聞きたいんだよ!」

「ラームがですね、すごく字が汚いのですよ」


 カノが口を尖らせた。


「とても速く、くしゃくしゃっと書くので、僕には読めないのです。何を書いたのかさっぱり。あまりにもひどいので、一度、もう少し落ち着いて丁寧に書いてはどうですか、と提案したことがあります。すると、自分だけが分かればいいのであって、ひとに見せるものではないから、と言うのですよ。では、自分で読み返して読めるのですか、と訊ねたら、読めませんが書いていた時に何を考えていたかは思い出せます、と」

「ラームが? 見えない。字までめちゃくちゃ綺麗に書きそう」

「僕もそう思っていました。ところが、思考する速度に手が追いついていないようでして、自分に合った速度で書こうとするとそうなるみたいです。頭の回転が速いというのは時として不便なのですね」

「へー」

「あ、彼の名誉のために言っておきますが、実際ひとに見せるために書く手紙などは読めるように時間をかけて書いていますよ。その時は比較的丁寧です、綺麗とは言いがたい特徴的な字ですけれど。一目でラームの手だと分かります」

「見てみたい。ラームと手紙のやり取りなんてそれこそ用事ないし、はあ? って言われそうだけどね」


 そこで言葉が切れた。

 少しの間、水路のせせらぎだけが聞こえていた。


「……えっ、終わり?」

「終わりです」

「それだけ?」

「そうですよ。だから言ったではありませんか、特にひとに言うほどのことでもない些細な発見だと。この情報は誰とも共有する必要のない話です、僕が日頃ラームと関わる中で面白いと思っただけのことです」


 カノの求めたとおりに話したはずなのに、なぜか面白くなさそうな反応をされてしまった。


「カノがオチのない話をしろと言ったのではありませんか」


 そうなじると、彼女は「そうだった、ごめんごめん」と笑みを取り繕った。


「いいんだけど……、いいんだけどさ、なんでこういう時までラームの話題なの?」

「身近だからですよ。深い意味はありません。単純に、一番よくやり取りをする人間だからです」

「うらやましい」


 目を伏せて、「いいなあ」と呟く。


「ラームばっかり。あたしのことはこれっぽちも気にかけてくれないのに」

「いや、そういうわけではありませんが――こういう時カノの話をしてもいいのですか? こんな、不名誉な話を?」

「ううん、そうじゃなくて……カノもフェイフューの身近な人に数えられたい……な……」


 声が次第に小さくなっていく。尻すぼみになって消えていく。


「――いいのですか」


 フェイフューは苦笑した。


「僕と親しい人間だと思われたら、兄上側の人間から攻撃を受けるかもしれませんよ。身内の葬式にも呼ばれないかもしれません」


 カノはためらったようだ。視線をさまよわせた。薄く唇を開いたが、声は出さなかった。


「無理は、しないでください。僕は望みません」


 はっきり伝えた。


「ひとが死ぬところを見るのはやはり嫌です。僕のために傷つかないでください」


 その途端だった。

 カノの手が伸びた。


「傷ついてもいい」


 フェイフューの服の袖、手首辺りをつかんだ。


「攻撃されてもいいよ」


 突然の行動にフェイフューは驚いた。硬直してしまった。


「あたしフェイフューのためだと思ったら我慢できる」


 思わず目を丸くした。


「ずっと考えてたけど」


 カノの瞳から、透明な雫がこぼれ落ちた。


「あたしやっぱりフェイフューにつく」


 彼女が次々と言葉をつなげていく。


「あたし知ってるから。すごく頑張り屋なところ。勉強熱心なところ。正義感が強くて曲がったことが嫌いなところ。真面目なところ。本当は話を聞いてくれる、みんなが言うような怖い人じゃない」


 フェイフューも、胸の奥から何かが込み上げてくる。


「あたしは本当のフェイフューがどんなひとか知ってるから。だからフェイフューに味方する。フェイフューの側につく。次の十神剣会議で冬至にはフェイフューの席に座るって宣言する」

「カノ……」

「その代わり約束して。今後もあたしとはこういうどうでもいい話をする。二人の時間をもつ。フェイフューの話をいっぱい聞きたいしあたしの話も聞いてほしい」


 服の袖をつかむ手が、震えている。


「ずっとフェイフューの傍にいたい」


 そして、言った。


「すき」


 頭が、真っ白になった。


「フェイフューのことが、すきなの」


 彼女の声が、顔が、涙が、フェイフューの中に沁み込んでくる。


「おねがい」


 こんなことを言われるとは思ってもみなかった。何もかも頭から吹っ飛んだ。


「フェイフューの味方をするから、フェイフューが王様になったら、カノを王妃様にして」


 カノの瞳が、まっすぐフェイフューを見つめている。

 その瞳を見つめ返して、フェイフューは、少しずつ、頭の中から出ていったものを取り戻すように考え始めた。


 カノを王妃にする。

 自分と結婚したい、ということだ。


 そうすればずっと一緒にいることになる。どちらかが死ぬまで人生をともにするのだ。カノはそれを望んでいる。


 安直に決めていいのか。王の婚姻は重大な政治的行為だ。外交の手札でもあるし、議会の承認が必要ではないのか。


 とはいえ、妃の一人ぐらい何だと言うのだろう。どうせこれから何人も妻を迎えるはめになる。その中の一人がカノであっても問題はないのではないか。むしろ一人ぐらい幼馴染の古くから親しんだ女がいた方が気楽ではないのか。


 何より――カノが味方になる。

 カノがこちら側につくと、四人になる。

 ソウェイル側は、テイムルを喪って、四人だ。

 対等になる。


 エルナーズとの会話を思い出した。

 自分はカノを懐柔しなければならないのだ。カノをこちら側につけなければならない。

 どんな手段を使ってでも、カノを味方に引き入れる。


 決心した。


 こういう時どうすればいいのか、フェイフューは、知っていた。


 カノはまっすぐこちらを向いている。

 彼女の顔に、顔を、近づけた。

 その唇に、唇を、寄せた。

 彼女から柑橘類の香りがする。


 彼女が、そっと、まぶたを下ろした。


 唇と唇を重ねる。

 柔らかかった。

 女というものは、こういう柔らかさをもった生き物なのだ、と思った。


 一瞬だった気もするし、永遠だった気もする。

 フェイフューは、唇を離しつつ、カノの腕をつかんだ。


「約束します」


 自覚はしていた。もう戻れない道を行こうとしている。しかしいまさらだ。前を見て進む。


「僕が王になったら、あなたを王妃にします。結婚しましょう」


 カノの手が、今度はフェイフューの服の胸をつかんだ。

 フェイフューもカノの腕から手を離して今度は背中に回した。


 カノが、すがりつくように、フェイフューの胸に額を寄せた。

 カノの背中をさするように押さえる。

 温かくて、柔らかい。

 自分は、この、華奢で壊れやすそうな生き物の人生を、めちゃくちゃにしようとしている。


「すき」


 彼女はフェイフューの腕の中でもう一度そう呟いた。

 甘く爽やかな匂いだ。


 その時間は長くは続かなかった。ひとの気配がしたからだ。

 顔を上げると、荷物を持った女官が二人、回廊の向こうからこちらへ向かって歩いてきていた。フェイフューとカノには気づいていないようで顔はこちらを見ていないが、見つかるのは時間の問題だろう。


「ごめん、またね」


 そう言ってカノは立ち上がった。フェイフューは引き留めなかった。


「とりあえず、今日のことはしばらく内緒にしておくね。ベルカナが心配するといけないから」

「そうですね、そうしましょう。また来年の春詳しい話を詰めましょう、申し訳ないですが正式な話はまた年明けにさせてください」

「うん、分かってる。分かってるからね」


 彼女は「ありがとう」と言いながら小走りで回廊の奥に消えた。


 一人残されたフェイフューは、大きく息を吸って、吐いた。

 自分の唇に触れる。

 最低だ。

 まったく気持ちがないのに、口づけて、結婚するなどと言っている。彼女の恋心を利用して自分の目的を遂げようとしている。彼女を大勢の女がいる後宮ハレムに押し込めようとしている。

 自分がこんなに卑怯な男だとは思っていなかった。自己嫌悪でどうにかなりそうだ。

 だがこれが一番手軽な方法だ。


「すみません……」


 世界じゅうに向かって謝罪したくて、そう、呟いた。






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