第9話 日輪の御子と橙の女鹿 1

 列柱の並ぶ回廊を歩いていたら、斜め前から名を呼ばれた。


「フェイフュー!」


 顔を上げると、今歩んでいる回廊を直角に曲がった先、フェイフューから見て右奥から正面へ伸びる廊下をひとりの少女が走ってきていた。

 カノだ。

 彼女は珍しく濃い灰一色の服を着ていた。喪に服しているのだろう。アルヤ人の宗教では葬儀のための服装や色合いは特に定めていないが、気持ちの問題だ。いつもの明るく華やかな恰好は控えたらしい。


 フェイフューはその場に立ち止まった。カノの方が駆け寄ってきてフェイフューの目の前まで来た。


「あの……、忙しいところごめんね? ちょっと、ちょっとだけでいいから、お時間貰えたら嬉しいんだけど……」


 服の裳の前部分を握り締め、上目遣いで言う。

 以前だったらカノのそういう様子をかわい子ぶっていると非難したものだが、今のフェイフューはそういう気分にはならなかった。

 フェイフューは感動したのだ。

 カノは、成人する前と変わらず、宮殿の回廊でフェイフューを呼び止めて一対一で話をしようとしている。


 世界は慌ただしく移り変わってしまった。何もかも変わってしまったように思っていた。


 それでも、カノは、まだ、フェイフューの名を呼び捨てにして、敬語表現を使わずに話し掛けてくる。


「構いませんよ。どこかに腰掛けましょうか」


 答えると、カノの顔に笑みが広がった。裏表のない素直な笑みだった。今ばかりはその素直さに救われた。この女は自分が少し甘い顔をしただけで喜ぶ。


 もしかしたら、同じように対応すれば同じように反応する女は他にもいるのかもしれなかった。フェイフューは自分が少し姿を見せるだけで喜ぶ女がたくさんいることを知っていた。けれど誰も話し掛けてはこない。

 主張しない人間はフェイフューにとってこの世に存在しないのと同じだ。黙って察してもらおうとする人間より喋りすぎて余計なことを言う人間の方がいくらかいい。

 いつもへらへらとしていて何を言っても手ごたえがなかったユングヴィより、ああでもないこうでもないと喚くカノの方が、可愛い、ということだ。


 今来た回廊を戻ると、途中に木の板と華奢な鉄の棒でできた西洋趣味の長椅子が置かれている。フェイフューはまっすぐそこに向かって、自分の右側に一人分の空間を作って座った。カノは素直にそこに腰を下ろした。


 中庭を眺める。

 建物の出入り口付近に警備の白軍兵士が立っているのが見えるが、フェイフューとカノからは距離がかなり離れている。中庭の真ん中にある噴水が水を噴き上げる音だけが響いている。まるで二人きりになったかのようだ。


「――で、何です?」


 珍しく、カノはおとなしかった。いつもなら勢いよく喋り出すところだったが、今日は自分の裳を握ったままうつむいていた。


「何か僕に用事だったのでは」


 話すよう促したつもりだった。

 カノは、「ごめんなさい」と呟くように言った。


「うそ。本当は用なんてない。フェイフューと二人きりになりたかっただけ」


 面食らったが、フェイフューはカノを責めなかった。


「そうですか」

「怒ってる?」

「どうしてですか。怒る理由がありません。今日はもう部屋に戻ってひとりでのんびりする予定でしたし……、僕も、テイムルの件以来少し神経質になっていて、ここ数日、利害抜きにひとと話したい気持ちがありました」

「そっか、ならちょうどいいね、よかった。ありがとう」


 真横、カノの方を向いた。

 同世代の女性の中では比較的肉付きがいい方だと思うが、肩はフェイフューより一回り以上華奢だ。目は噴水から出て回廊と平行に流れていく小さな水路を見ており、フェイフューの顔は見ていない。


「……僕は、用事なく話し掛けてきた者に対して怒る人間に見えますか」


 カノは、ぎこちなく、頷いた。フェイフューは苦笑した。


「だから僕に話し掛けてくる人間は限られているのですね。この二、三ヶ月ほど、宮殿ではほとんど誰とも口を利いていません」


 そこまで言うと、カノが弾かれたように顔を上げた。


「あの部屋に来たらいいよ! あたしが話を聞くよ。それに最近シャフラとオルティがいて賑やかになったよ。五人で適当にだらだらして過ごそうよ」

「いえ、僕、シャフルナーズ姫が嫌いなので。オルティ王子とも近くにいたら刺されそうな気がしますし。ますます居心地が悪いです」

「それは……、なんていうか、まあ……、うん」

「それに兄上は今お怒りでしょう。この状況では僕をお許しになりませんよ」


 諦めてしまったようだ。彼女がそれ以上あの部屋について話すことはなかった。


「あたし、フェイフューの話を聞きたいよ……」


 小さな、小さな、聞き取れるかどうかの声で言う。


「それにね、ラームがさ。フェイフューに声を掛けてくれ、って言うから」


 思わずまばたきをしてしまった。


「ラームが、ですか?」


 小さく頷く。


「ラーム、フェイフューに余計なこと言っちゃって気まずくなった、って言ってて。なんか、ユングヴィの件で? 事情がぜんぜん分かんないんだけど、ラーム、うっかり口を滑らせて、このままユングヴィが消えてくれればいいのに、的なことを言っちゃって、フェイフューの機嫌を損ねた、みたいなこと言ってた。ほんと?」


 フェイフューは驚いた。あのラームテインにそんな素直な心があるとは思っていなかったのだ。

 まさしく彼の言うとおりだ。彼が悪いとまでは思っていなかったが、何となく顔を合わせづらくなって部屋に呼ばなくなってしまった。それを彼がカノに打ち明けるほど気に病んでいるとは思っていなかった。


「反省してるって言ってたよ。フェイフューは正義感が強いから、どんな理由があってもフェイフューの前でひとに死ねとか言っちゃいけなかったんだ、って」

「つまり、ラームは僕と彼との仲立ちをあなたに頼んだのです?」

「ううん、違うよ。僕の代わりに殿下のお話を聞いてほしい、って言ってた」


 そして小声で付け足す。


「もうフェイフューの周りで遠慮のない会話ができるのはカノだけだろうから、ってさ」


 フェイフューの方が反省した。ラームテインの真心を疑うべきではなかったのだ。彼はあくまでフェイフューへの忠誠心から発言していて、ユングヴィが憎くて懲らしめてやろうという意図があったわけではないのだろう。

 近々また傍に呼んで話をしようと思った。この溝を埋めなければならない。

 カノを使ったラームテインの作戦勝ちだ。


「にしては、カノは今結構緊張しているように見えますが」


 最初、彼女は「そんなことないよ」と否定した。

 けれどフェイフューの顔を見ることはなかった。

 すぐに「うそ、ごめん」と続けた。


「どの話題を避ければフェイフューの機嫌を損ねないのかめちゃくちゃ考えてる。距離感の取り方が迷子。ごめんね」

「いいえ、いいのですよ」


 脚を組んで、溜息をついた。


「僕は、あなたに対して、そんなに乱暴で冷たい男だったのですねえ。攻撃的な態度を取るのは大人のすることではありません。反省します」


 ようやく、カノが顔を上げた。

 目が合った。

 彼女の大きな褐色の瞳は、真剣にフェイフューを見つめていた。


「もっと話をしよう」


 桜色の厚い唇が震える。


「もっとフェイフューの話を聞きたいよ。あたしはもちろん、きっとみんなもそう思ってるよ」

「そうですか? 僕は普段からはっきり意見を言っていると思いますが」

「そういうんじゃないんだよ。もっとどうでもいいことだよ。たわいのないおしゃべり。建設的じゃない、世間話とか感情論とか、嬉しいとか悲しいとか楽しいとか悔しいとか、そういうことがいい油になってすんなり仲良くなるんだよ」


 それから、彼女は力いっぱいこんなことを言った。


「ソウェイルとシャフラなんて毎日どの店のお菓子がおいしいかから話し始める!」


 フェイフューは思わず声を上げて笑ってしまった。ソウェイルらしかったし、それにほだされるシャフラを可愛い女だと思った。


「確かに、僕はそういう話はほとんどしませんね。無駄だと思っていましたから。それに、男なら秘するべきだと。ナーヒドがそういう感じだったので」

「あー、ナーヒドが、って言われるとわかる。けど堅苦しくない? 息苦しいよ」

「そう思ったことはありませんが、今になってみると、なぜそう思わないのか考えるべきだったのかもしれません。そういう無駄話をしないから、僕は用事がなければ話し掛けてはいけないと思われているのでしょう。毎日議論や討論ばかりでは疲れてしまうかもしれません。どこかで息抜きをしなければ、僕の下につく人間が大変なのかもしれませんね」


 カノの瞳が潤んだ。


「わかってくれて、ありがとう」


 泣くほどのことだろうか。

 それほど威圧的で高圧的な男だったということだ。ラームテインやエルナーズのように気が強い人間でないとついてこられない。


「何か適当に話そう。練習。今」

「今、ですか。かえって難しいですね。どうでもいいこと……、なかなか思いつきません」

「探して。オチがない話。山場も結論もない話」

「はあ」




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