第8話 あなたの顔を見ることができてよかった
フェイフューが、宮殿の北、王族のための居住空間に当たる棟の一階玄関に辿り着いた時、事はすでに終わろうとしていた。
外から玄関すぐの空間まで、大理石の床に、這いずった痕跡が残っている。紅い道が、べっとりと、描かれている。
広い空間いっぱいに血の臭いが広がる。
大勢の白軍兵士がいる。彼らは輪を描くように並んで立っていて、中央にいる二人を見下ろしていた。全員無言だった。いずれも苦痛を堪えていることを想像させられる悲しげな面持ちだ。
兵士たちを掻き分けた。
狭間から、力なく床に投げ出された長い脚が見えた。白い筒袴は白軍の人間の証だ。それが、紅く、汚れている。
「フェイフュー殿下」
フェイフューが近づいてきたことに気づくと、兵士たちは率先して道を開けた。
視界が開けた。
フェイフューも、血の気が引くのを感じた。
輪の中央にいたのは、ソウェイルとテイムルだった。
床に横たわって血の海に沈んでいるのはテイムルだったのだ。
「テイムル、テイムル」
テイムルの上半身を抱きかかえて、ソウェイルが恐慌状態で名を呼ぶ。
テイムルはうっすら微笑んでいたが――胸からも背中からも激しく出血していて、赤い軍服を着ているかのようだった。
床に白銀の神剣が転がっている。その白い鞘にはべっとりと紅い手形がついている。
二人の傍で膝をついている兵士たちの軍服にも、紅い染みがついていた。彼らがテイムルをここまで運んできたに違いない、ソウェイルの腕力では筋肉質のテイムルを持ち上げることはできない。
フェイフューはすぐ傍にいた兵士に「どういうことですか」と訊ねた。
「何があったのですか」
兵士が答えた。
「ショマール門外で十九人の兵士に襲われた模様です」
「兵士に?」
「はい、白軍の造反分子です。テイムル将軍の多数決での振る舞いに反発した者たちが――」
別の兵士が「おい、やめろ」と言った。
フェイフューは彼がどうしてここで止めたのか分からなかったが、言われた側の兵士はすぐに察したようだ。言い直した。
「フェイフュー殿下にお味方したいという者たちが、ソウェイル殿下にお味方したテイムル将軍を許せなかったようで」
衝撃を受けた。
つまり、白軍の一部では、フェイフューに味方することは造反という扱いなのだ。
このありさまを見ていると否定できなかった。
フェイフューの意向を無視して、テイムルの暗殺を狙って行動した人間がいる。それも、十九人も、だ。
これでは内乱だ。
「その者たちはどうしましたか」
「全員将軍が斬りました。遺体はまだショマール門外に野ざらしです」
アルヤ王国が誇る精鋭たち十九人を、テイムルは一人で片づけたのか。
その代償がこれだ。
フェイフューがいるのとは反対側、ソウェイルの背後の兵士を掻き分け、一人の少年と二人の兵士が顔を出した。
少年はオルティだ。彼も蒼い顔をしてソウェイルのすぐ傍にしゃがみ込んだ。
「医者を呼びました、すぐ来ます。あともう少し持ちこたえてください」
「構わないよ。きっともう間に合わない」
テイムルははっきりと答えた。それでもまだ、彼は明瞭な意識をもっていた。
「最期に、ソウェイル殿下のお顔を見ることができてよかった。もう満足だよ」
「将軍……っ」
「ああ、でも、少し申し訳ない――まだ次の白将軍がはっきり決まったわけではないのに。僕の後が、しばらく、空位になってしまう――息子が大きくなって白将軍を継げるようになるまでの間、誰が僕の殿下を守ってくれるんだろう」
ソウェイルが「バカなことを言うな」と怒鳴った。その声は悲鳴にも似ている。
「お前が守れ、テイムル。俺が王になってもずっと俺の傍にいろ。お前の息子の代は俺の息子の代だ」
それを聞いて、テイムルは「ありがとうございます」と微笑んだ。
「ですが、もう、お別れです。申し訳ございません。最後までお供したかった」
「もうすぐ医者が来るって言ってるだろう!?」
テイムルの体を激しく揺さぶる。オルティがソウェイルの腕を握って「バカ、やめろ」と止める。
「だって――」
「もうやめろ……っ」
オルティが膝を詰めてテイムルに近づく。
「俺が代わります。俺がテイムル将軍に代わってソウェイルを守りますのでご安心ください」
テイムルがまた「ありがとう」と言う。
「オルティ、立派な兵士になってね。僕の殿下をよろしくね」
「はい」
ソウェイルが「俺を無視して勝手に進めるな」と叫んだ。その声には激しい怒りと悲しみがあった。ソウェイルがこんなに掻き乱されているところなど初めて見た。
「許さないからなテイムル。ここで死んだら俺一生お前のことを許さないからな」
「望むところですよ」
テイムルは微笑んでいた。
「一生、一生、テイムルがいたことを忘れないでください」
「テイムル……っ」
「テイムルは。最期の最期まで。殿下が王になられる日を。楽しみにしておりました。それを、忘れ――ないで――」
言葉が、途切れていく。
まぶたが、下りていく。
血にまみれた手を、持ち上げた。
ソウェイルの白い頬に触れた。
頬に指が触れ、紅い線を描いた。
「玉座に座るところを、見たかった、なあ」
それが最期の言葉になった。
手が、床に落ちた。
まぶたが完全に閉ざされた。
「うあ、あ」
ソウェイルが声を震わせる。大きな蒼い瞳から大粒の透明な雫がこぼれ落ちてテイムルの頬にしたたる。
「ずっと俺のことを守ってくれるって言ったじゃないか……!」
フェイフューは、その一連の流れを、呆然と見ていることしかできなかった。
テイムルとの思い出が脳裏をよぎっていく。
小さい頃から遊び相手になってくれた。学校に行くようになると父親代わりとしていろんな手続きをしてくれた。ソウェイルと喧嘩をすると仲裁してくれた。
フェイフューを真面目に諭してくれるのは彼だけだった。
彼のできる範囲で大事にしてくれたと思う。たとえソウェイルのおまけであっても気にかけて話し掛けてくれたことに変わりはない。
フェイフューはテイムルにとって自分が二番目であることを知っていた。どんなことがあっても彼の中でソウェイルより上に立つことはないと、今回も絶対に自分ではなくソウェイルを選ぶだろうと察していた。
でも、だからこそ、信頼していた。
フェイフューにとって、絶対ソウェイルを裏切らないテイムルは、信頼できる存在だったのだ。
テイムルだけは、何があっても変わらず、一本筋が通っていた。
こんな形で別れの日が来るとは思っていなかった。彼は永遠にソウェイルの傍に控えているものだとばかり思っていた。
そうであってほしかった。
フェイフューも込み上げてくるものがあって、奥歯を噛み締めながら、一歩前に出た。
ところが、だった。
ソウェイルが顔を上げた。
彼の視界にフェイフューの足が入ったらしかった。フェイフューの存在を認識して、フェイフューの方を見た。
彼は、テイムルの体を、床に下ろした。
そして、フェイフューの方へ腕を伸ばした。
胸倉をつかんだ。
その目からほとばしるのは殺意だ。
「お前が手段を選ばないということはよく分かった。このクソ野郎が」
口汚く罵る。
「まさか人一人殺すような真似までするとは思ってなかった。お前にも人の心があってこういうことはしないと思っていたんだ」
逡巡した。何と声を掛けたらいいのか分からなかった。
ソウェイルの中では、フェイフューがテイムルを殺したことになっている。
フェイフューは何も言っていない。誰にもこんなことは望んでいなかった。フェイフューのため、を騙って勝手な行動を取っている。
「僕が命令したわけではありません!」
叫んでから、硬直した。
ユングヴィの事件を揉み消したあの兵士も、ユングヴィの死を願ったラームテインも、フェイフューのためだと思っているのだろうか。自分が何も言わなかったから、これでいいと、フェイフューは満足していると思っているのだろうか。
フェイフューが止めていたら、こんなことは起こらなかったのだろうか。
「僕の責任ですか……!?」
「他の誰だって言うんだよ」
「よせ」
第三者の声が割って入ってきた。手が伸びてきて、ソウェイルの手首をつかんだ。
手の主はオルティだった。
彼は落ち着いた顔で言った。
「お前がつらくなるだけだ、ソウェイル」
ソウェイルの顔がまた歪んだ。涙の筋がさらに増えた。
フェイフューから手を離してオルティに抱きつく。オルティがソウェイルの後頭部を撫でる。
その立場になりたい、と思った。自分が、ソウェイルをそうして慰める存在でありたかった。
だがソウェイルはフェイフューがテイムルを殺したと思っているのだ。
ソウェイルが声を上げて泣き始めた。オルティは悲痛な顔でその声を聞いていた。
「とりあえず将軍をどこかへ運ぼう、いつまでもこんな硬くて冷たい床に寝かせておけないだろう。ご家族にも連絡しないとな」
「うん、うん……」
フェイフューは無言でその場を立ち去った。
テイムルの葬儀は行なわれなかった。本来なら国葬にすべきだったが、テイムルの妻が拒否した。
彼は生前から――彼女と結婚した当初から、自分が死んでも騒ぎにしないでほしい、と言い続けていたようだ。皆が集まる
数日後、代々の白将軍が祀られている廟の棺に納められた。そこにはテイムルの近親者とソウェイルだけが参列した。従兄のナーヒドは呼ばれなかったという。テイムルの妻がフェイフュー派の人間を拒んだのそうだ。彼女が見せた唯一の弱さだった。
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