第5話 きれいな世界

 自室に辿り着いて、扉を閉めた。

 その扉にもたれかかるように背をつけた。

 膝から力が抜ける。崩れ落ち、床に尻をつける。

 部屋の内側へ両足を投げ出す形で座り込んだまま、しばらくの間呆然としていた。

 頭の中に種々の事柄が断片的に噴き上がっては消えていく。

 アフサリーがソウェイル側についた。

 テイムルも席についた。

 ソウェイル側が五人になった。

 カノだけが態度を決めていないが彼女はほぼ全面的にソウェイルの指示に従っている。

 ユングヴィが壊れてしまった。

 彼女の赤子は死んだ、自分が殺した。そのせいで彼女とサヴァシュは怒り狂っている。

 サヴァシュに殺されるかと思った。いやいつか殺されるかもしれない。

 この件でユングヴィは自分を脅す気だ。

 ナーヒドが話をしたいと言っていた。フェイフューは話したくない。女に目移りしている彼を受け入れられない。

 何もまとまらない。建設的なことは何ひとつ出てこなかった。

 次に何をしたらいいのか見当もつかない。

 正解が見えない。むしろどんどん正解から遠ざかっている気がする。答えが出ない。

 誰か教えてほしい。

 自分は何をすればいいのか、誰かに言ってほしい。

 自分の髪を掻きむしった。

 思い浮かばない。

 不意に扉が勢いよく叩かれる音がした。誰かが外から乱暴に、それこそ殴るように扉を叩いた。

 急なことで、しかも結構大きな音だったので、フェイフューは一瞬震えた。息が止まった。

「フェイフュー!」

 扉の向こう側から、少年の、ようやく低くなり始めたばかりのまだ若い声がする。

「俺だ」

 「お前の顔が見たい」と言う声はどこか懇願するようだった。

「開けろ」

 端的な、命令形の言葉だった。

 しかしフェイフューは安堵した。

 誰かに次は何をすればいいのか具体的に指示されたかったのだ。

 今の言葉はおそらく直接フェイフューの未来に関わることではないだろう。ただ目の前のやり取りの中でのことでしかない。顔を見るために、扉を開ける――それが今後に大きな影響を及ぼすとは思えなかった。

 それでも、行動の手順を決められることがありがたいと思った。

 とりあえず、開ければいいのだ。

 そうしたら、彼が次の一歩に導いてくれる。

 立ち上がった。

 一歩部屋の中の方へ下がって、扉との間に少しだけ距離を開けてから、扉の取っ手をつかんだ。

 取っ手を、引いた。

 すぐそこに、ソウェイルが立っていた。

 二人の身長差はまだかなりある。フェイフューはソウェイルの顔を見るために少し見下ろさなければならなかった。そこまで急激に成長しているわけではないらしい。あるいは彼だけでなく自分も同時に背が伸びていて差は縮まっていないのかもしれない。先ほどの講堂ではソウェイルが自分の知らない間にとてつもなく強大になっているように見えたがそんなことはなかった。顔を見ていなかったのはほんの二ヶ月足らずの話だ、人間の成長の速度として当たり前なのに、自分は何に怯えていたのだろう。

 フェイフューは安心した。

 変わらないでほしかった。

 いつまでもおとなしくて穏やかでのんびり屋で儚げな風貌と図々しい性格を併せ持つ愛らしい兄のままでいてほしかった。

 ソウェイルが部屋の中に入ってきた。

 彼のために空間を開けようと、フェイフューは左右の足を一歩ずつ動かして後退した。

 完全に部屋の中に入ってから、ソウェイルは後ろ手に扉を閉めた。

 二人きりになった。

 どれくらいぶりだろう。ユングヴィの妊娠が分かる直前、誕生日の前の月に勉強部屋で戯れて以来ではないだろうか。つまり半年以上間が開いた。

 この間、彼は、ベルカナとアフサリーの支持を得て、シャフラとオルティという仲間を増やし、声変わりまで始まった。

 自分は何も成していない。

 ソウェイルが手を伸ばした。右手でフェイフューの左肘を、左手で右肘をつかんだ。

「お前何したんだ」

 珍しく険しい表情だ。いつもはぼんやりとしていてどこを見ているか分からない蒼い瞳が今は確かにフェイフューの目を見ていた。

「ユングヴィがめちゃくちゃ怒ってる」

 言われるとフェイフューの胸の奥は凍りついた。夏が終わったばかりの真昼はまだ外を出歩くには暑すぎる気温のはずだが、フェイフューは寒いと感じた。

「俺もあんなユングヴィ初めて見た」

 ともすれば体が震えそうになる。両目を見開いて息を殺す。

「白軍の警備の兵士たちから聞いた。お前あのあとサヴァシュとユングヴィに絡まれたんだってな。お前がユングヴィに何かしたんだろう、あの二人がそういう行動に出るなんて普通のことじゃない」

 怒られている、と思った。叱られている、なじられている、責められている、と思った。ソウェイルはフェイフューの犯した罪を知っていてこんなふうに言うのではないか。フェイフューを裁こうとしているのではないか。

 逃れたくて、反射的に「何も」と答えた。ソウェイルは間を置かずに「嘘つくな」と言った。

「言ってくれ、頼む」

「言いたくないです」

「フェイフュー」

「言ったら怒るでしょう」

 自分をこどもっぽいと思ったのはもっとずっと後の話だ。この時は無我夢中で何も考えていなかった。

「今度は僕をどうするのですか。また殴りますか。宮殿から追い出しますか」

 まくしたてるフェイフューを、ソウェイルはしばらくの間黙って見つめていた。

「そうして僕にむりやり自白させて何をしようとおっしゃるのですか。僕に洗いざらい喋るよう強要して、脅迫して、僕を断罪するのですか。また僕が悪いのですか。僕が間違っていると、僕が正しくないとおっしゃるのですか。僕一人を悪者にして片づけるのですか」

 一気に話して息が切れた。そうでなくても緊張して呼吸がままならないのだ。苦しい、と思った。一度声を止めた。何とか息を吸おうとした。

 フェイフューの言葉が切れたと同時に、ソウェイルが口を開いた。

「ごめんな」

 ぽつりと転がるように出た言葉は優しくて、

「あのな、フェイフュー」

 ソウェイルの手は、フェイフューの肘を、しっかり握っていた。

「ユングヴィが怒らない時は代わりに俺が怒るけど、ユングヴィが怒る時は俺は怒らないんだ」

 まるで、魔法の呪文のようだった。

「どんな話でも聞くから。落ち着いて。安心して。息をして。体から力を抜いて」

 膝から力が抜けた。立っていられなくなって、その場に膝をついた。

 息が、できる。

「だいじょうぶ。こわくない」

 一拍遅れてから、ソウェイルも膝を折る。二人でその場に膝立ちをする。

「俺は、怒ってないぞ」

 それは、神から与えられる救いの言葉だった。

「あの」

 声が、震えた。

「触っても、いいですか」

 ソウェイルが顔をしかめて「はあ?」と声を上げる。

「何だ、急に。どういう意味だ」

「兄上に触りたいです」

 彼は少し戸惑ったようだった。フェイフューは自分が馬鹿げたことを言ってしまったことに気づいて「やはりいいです」とうつむいた。

「好きにしたらいい」

 ソウェイルが言う。

「俺なら、だいじょうぶだ。お前の好きにしろ」

 その目は真剣で、まっすぐフェイフューを見ていて、

「兄上」

 腕を伸ばした。

 兄の華奢な肩に腕を伸ばした。

 強く力を込めて、抱き寄せた。

 抱き締めた。

 温かい。

 フェイフューの腕の中で、ソウェイルが「なーんだ、こんなことでいいのか」と開け放ったような声を出した。

「ほら」

 ソウェイルの体が動いた。

 腕が持ち上がった。

 左手はフェイフューの背に回された。

 右手はフェイフューの後頭部を撫でた。

 フェイフューは自分の両目からぼろぼろと涙がこぼれ落ちていくのを感じた。

 ずいぶんと遠回りをしてしまった。

 抱き締めたり頭を撫でたりしてくれるのは、ソウェイルだったのだ。

 この世で唯一、ソウェイルだけが、フェイフューを抱き締めて頭を撫でてくれるのだ。

 もっと早く気づけばよかった。

 こんな近くにいた。

 奥歯を噛み締めて声を殺した。自分は彼の肩に顎をのせている、顔は見えない。このまま知られないように祈った。

 心が、洗い流されていく。

「だいじょうぶ、だいじょうぶ」

 その手が、優しい。

 やっと、辿り着いた。

 このひとを守りたいと思った。

 ずっとこうして腕の中にいてほしいと思った。何物にも晒したくないと、何者にも渡したくないと思った。この世のすべての汚いものから遠ざけておきたいと思った。

 答えが見えた。

 戦うことを決意した。この世のすべての理不尽と、だ。彼を守るために、この世界をきれいなものにしなければならない。

 政治をしようと思った。王になろうと思った。

 腐敗し薄汚れた貴族たち、誇りを踏みにじる総督、愚かで淫らな女たち、平原からやって来る野蛮人ども、そして王国に矢を向けるサータム帝国やノーヴァヤ・ロジーナ帝国――すべてのものからこの美しく優しく温かく穏やかな兄を守らなければならない。

 傷つけたくない。失いたくない。奪われたくない。

 永遠に、清らかでいてほしい。

「そう、大丈夫です」

 兄のまだ華奢な背を撫でる。

 まだ、自分の方が大きい。

「僕は、頑張れます」

 ソウェイルが「そうか」と呟くように言った。

「無理は、しなくていいんだからな」

「無理など。僕にできないことなどありません」

 しかし結局フェイフューはソウェイルに一ヶ月前具体的にどんなことがあったのかは説明しなかった。

 ソウェイルを、自分自身からをも、守らなければならなかったのだ。

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