第4話 関係の崩壊

 イブラヒムが閉会を告げたあと、自分がどうやって大講堂を出たのか憶えていない。ほんのわずかな間のことなのに記憶が飛んでしまった。よほど疲れたようだ。


 いろいろな人が声を掛けてくるがどれも頭に入ってこない。それでも十五年培ってきた何かがフェイフューに笑顔と丁寧な口調を義務付けている。内心とはまったく裏腹の社交辞令が出た。あとから振り返って会話が成立していたのか疑問に思った。誰もフェイフューをおかしいと思わなかったのだろうか。


 思わなかったから、こんなところでひとりでいたのだろう。


 気がついたら、列柱の立ち並ぶ回廊で、中庭から離れた壁際を歩いていた。


 その目の前に突然長い脚が伸びてきた。筒袴をはき、遊牧民の乗馬用の長靴ブーツを履いて靴の中に袴の裾をしまっている脚だった。

 足が、フェイフューの斜め前の壁を蹴った。

 あと一歩前に進んでいたら、腹を横から蹴られていた。それも、腹をぶち破りかねないほどのすさまじい勢いで、だ。


 壁を踏み締める、長靴ブーツの底と石片タイルの表面のこすれる音がした。


 フェイフューは硬直した。

 戦場に立ったことのないフェイフューにも分かった。

 自分は今、殺意を向けられている。

 背中が寒くなった。冷や汗をかいた。


「おい」


 声を掛けられた。

 横を向き、脚の主を見た。

 サヴァシュだった。


「お前、俺に何か言うことあるだろ」


 壁を踏んだまま、冷たい目でフェイフューを見ている。その表情からは何も読み取れないが、フェイフューは本能的な危機察知能力で返答次第では殺されると悟った。

 息を呑んだ。

 何もできなかった。


 実のところサヴァシュと今のフェイフューはもはや身長では変わらなかった。目線がほぼ同じだ。むしろフェイフューを下からねめつけるように見ている分サヴァシュの方が少し低く感じた。サヴァシュはさほど背が高い方ではない。

 しかしフェイフューは動けなかった。

 まだ十五歳で体が完成していないフェイフューより筋肉質のサヴァシュの方が肩や胸が厚い。経験の積み重ねの圧倒的な違いや戦闘に対する覚悟の差もある。しかも彼は今いつにない異様な威圧感を放っていた。まともにぶつかればねじ伏せられるに違いない。


 サヴァシュは強い。

 その強さのすべてが今フェイフューに向かってきている。

 殺される。


「何とか言えよ」


 サヴァシュが足を下ろした。だがフェイフューを解放する気はないようだ。すぐに腕が伸びてきて、フェイフューの胸倉をつかんだ。

 引きずられる。

 抵抗できない。

 何をされるのだろう。

 頭が働かない。


「よしなよ」


 三人目の声が響いた。

 その声がフェイフューには救いの声に聞こえた。


 サヴァシュの動きが、止まった。


 声の主を見た。

 ユングヴィが、静かに歩み寄ってきているところだった。


 助かった。

 そう思ったのも束の間だ。

 彼女はとても冷たい顔で言い放った。


「そいつは話したって無駄だよ。痛い目を見なきゃ分かんないんだよ」


 フェイフューの中で、何かががらがらと音を立てて崩れていった。


 サヴァシュの手が離れた。

 フェイフューは安心できなかった。

 これから自分はこの二人に痛い目に遭わされるのだ。

 自分一人でこの二人に太刀打ちできるわけがなかった。何をされるかは分からないが、二人が本気になったら自分は潰されるだろう。


「痛い目を見ても分かんないかもしれないけどね。少なくともあんたが今何をどうしたってろくな返事は返ってきやしないよ」


 サヴァシュがフェイフューから離れて一歩下がると、ちょうどユングヴィと横に並んだ。

 この二人がこうして並んでいるところを至近距離で見たのは初めてだった。遠目に二人で行動しているところを見掛けたことはあったが、二人揃ってフェイフューを見ているというのは今までになかった。


 いまさらになって、この二人が夫婦であることを思い出した。


 ようやく頭が回り始めた。

 サヴァシュがなぜ怒っているのか、やっと見当がついた。


 自分が殺したユングヴィのお腹の子の父親は彼だ。

 まずい。

 彼はユングヴィと自分の間に何があったか知っているのだろう。ユングヴィは彼に事の経緯を話したのだ。


 胸の鼓動がやたら大きく聞こえる。


 しかし今二人に絡まれるまでフェイフューにユングヴィの件で話し掛けてきた人間はいなかった。誰とどんな会話をしたのかはっきり思い出せないが、話題を出されていたら自分はもっと動揺していたはずだ。

 つまり、ユングヴィは夫以外の誰にもフェイフューの話をしていないのではないか。

 なぜだ。

 二人の意図が、まったく読めない。


 底知れぬ恐怖だった。

 次の行動の予測がつかない。


 こんなことはそうそうない。フェイフューの周囲の人間は明確な論理をもって思考するからだ。友人らや従者たちはフェイフューにとって分かりやすい倫理道徳と行動原則を守って活動する。そういう人々とこの夫婦はまったく違う。この夫婦は理屈では動かないということをいろんな人から聞いていた。したがってフェイフューには何をどう言えば二人が納得するのか思い浮かばなかった。

 言葉が出てこない。


「もう行こう」


 ユングヴィが言う。


「無駄だから」


 彼女はそう吐き捨てるとフェイフューから顔を背けて遠く回廊の奥を見た。歩き出そうとした。

 サヴァシュはしばらくフェイフューをにらみつけていた。動こうとしなかった。

 何をどうしたらいいのか、まったく分からない。


「何をしている?」


 新しい声が割って入ってきた。

 そちらに顔を向けた。

 ナーヒドが険しい表情で近づいてきていた。


「貴様ら、殿下に対してどういう了見だ」


 サヴァシュが「あ?」と頬を引きつらせる。


「どういうつもりか知らんが殿下に狼藉を働くのはやめろ。理性的に話し合えないのか」

「この期に及んで理性的か。あいにくと俺は紳士ではないんでな、お前らの規則で動くのはもううんざりだ」

「何をそんなに荒れている?」


 ナーヒドが溜息をついた。


「お前らの事情を聴きたい。聴かせてくれ。それで、俺はどうなってもいいから――俺のことは何をどうしても構わんから、殿下に手を出すのはやめてほしい」


 珍しくナーヒドが下手に出ている。あのナーヒドが、サヴァシュに頼みごとをしている。何があったのだろう。


 しかし――こういう言い方をするということは、ナーヒドはフェイフューがユングヴィに何をしたのか知らないのではないか。

 この夫婦は、あの時のことを二人の間だけの秘密にしている。

 言いふらされたら困るが、言いふらされないのも気持ちが悪い。

 理解できない。


「お前に話す筋合いねぇよ」


 サヴァシュはそう言ったが――ユングヴィは笑った。


「あのねえナーヒド、聴いてくれる!?」


 ぞっとした。

 ユングヴィは、楽しそうですらあった。

 フェイフューは見たことのない、ゆがんだ、ねじ曲がった笑顔で、笑っている。その声は明るく陽気ですらある。

 大勢の野次馬が自分たちを見ている。

 こんな中で、こんな大声で話されたら、あっと言う間にほうぼうに広まるだろう。


「やめてください」


 やっとのことでフェイフューが声を絞り出すと、ユングヴィは手を叩いて、声を上げて笑った。


「その顔、傑作」


 フェイフューはその場で膝を折った。崩れ落ちた。

 壊れてしまったのだ。

 自分は彼女の心を破壊してしまった。

 自分と彼女の関係も、不可逆的に崩壊した。

 もう、もとには、戻らない。


 同時に、理解した。

 彼女はこの話題を種にフェイフューをゆすろうとしているのだ。フェイフューを脅したり、フェイフューがこの話題を出されるのを恐れて無様に逃げ回る様を見たりしたいのだ。

 悪趣味で、下種げすな発想だった。

 だがそうとしか思えない。

 話されるまで、もしかしたら一生かもしれない時間を、彼女に怯えて暮らすことになってしまった。


「……何があった」


 ナーヒドも異常に気づいたようだ。ユングヴィを見て表情を曇らせた。その顔には純粋な心配が表れているように思えた。

 ユングヴィは答えなかった。彼女は笑いながらこの場を離れていった。

 ほどなくして、サヴァシュも離れていった。ユングヴィを追い掛け、奥の方へ歩いていった。


 心臓の音がうるさい。


「どうなさった?」


 ナーヒドがかがみ込んで訊ねてきた。

 知られたくなくて、フェイフューは反射的に「話したくありません」と答えてしまった。


「何ゆえに」


 その声は悲しそうだ。


「女がいたらもう信用してくださらぬか」


 フェイフューは、やってしまった、と思った。

 自分とナーヒドの信頼関係も破綻していた。

 あのチュルカ人の女の顔を思い出した。全身に銀細工をつけた平原の土人の女だった。


「その話もしたくないです」


 そう言うと、彼は「さようか」と言った。


 フェイフューは立ち上がった。サヴァシュとユングヴィが行ったのとは反対方向に小走りで進んだ。

 あとにはナーヒドと野次馬たちだけが残された。




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