第2話 不幸な事故でした

 結局昼食を食べることはできなかった。いつもならいくらでも食べられるものを、今日は食欲がまったく湧かず手をつけなかった。女官たちや侍従官たちに心配されたが突っぱねた。


 誰にも何も知られたくなかった。

 何も説明せずに部屋に閉じこもった。寝台の上で頭から掛け布団をかぶって震えていた。


 何事もないことを祈った。大したことはなく済んでいつもどおりに時が流れて明日にはすべてが元通りになっていると信じたかった。

 現実と向き合いたくない。


 まだ明るい時間帯だ。だが外に出られない。何かをしたいという欲求が湧かなかった。早く夜になってほしかった。眠りたかった。


 西日になったがまだ日が沈むには早い頃、部屋の扉が叩かれた。


「殿下、いらっしゃいますか」


 ラームテインの声だった。


 相反するふたつの感情が渦を巻く。


 相手をしてほしい。喋って気を紛らわせたい。あるいは大丈夫だと言ってほしい。何もなかったと、気に病むことはないと言われたい。


 知られたくない。さすがにこの状況は軽蔑されるのではないか。もしくは何が起きたのか探りに来たのではないか。今回の事件についてフェイフューを責めに来たのではないか。


 やたらと緊張する。喉が渇く。心臓の音がうるさい。


「……あれ? いらっしゃらないのかな」


 唾を飲んだ。


 安心させてほしい気持ちの方が勝った。


「すみません、います。どうかしましたか」


 扉の向こう側に声を掛けた。

 すぐに返事が返ってきた。


「特に用というほどのことでもないのですが、久しぶりに殿下がずっとご自身のお部屋にいらっしゃると聞いて、たまには将棋シャトランジでもやって遊んでいただこうかと思ったんです」


 その声には裏があるように感じなかった。本当に、ただ純粋にともに時を過ごして暇を潰したいだけだと思えた。


「最近慌ただしくてそういう時間もありませんでしたからね。まあ思いつきなのでお一人でごゆっくりされたいとおっしゃるなら僕も一人で市場の書店街をぶらつきに行きますが」


 子供の頃はよくやっていたことだった。成人してからこの五ヶ月はなんだかんだとやることがあったので時間がとれなかったが、以前はしょっちゅう二人で遊んでいた。


 フェイフューは安堵した。

 何があっても、ラームテインは変わらない。


 立ち上がり、布団をたたんで、何事もなかったように見せかけてから「入ってどうぞ」と答えた。


 ラームテインが外から扉を開けて中に入ってきた。手ぶらで、着まわしている袴に洗いざらしの胴着ベストだ。本当に何もなく、思いつきで立ち寄ったのだ。


 抱き締めたくなった。

 自分がどんな人間であってもラームテインだけはこうして遊び相手になってくれる。

 だが耐えた。彼は体に触れられることを極端に嫌がる。


 ラームテインは、部屋に踏み入るまでは何も考えていなさそうな顔をしていた。フェイフューの顔を見てから、フェイフューの表情から何かを察したようだ。表情を曇らせ、「何かございましたか」と訊ねてきた。


「僕、お邪魔だったでしょうか。殿下にとってご都合が悪いなら出直します」

「いいえ、違うのです」


 慌てて首を横に振る。


「いてください。いえ、いなさい」

「はあ。そうおっしゃるなら、いますが」


 すぐ近くに歩み寄る。


「僕でよければ話をお聞きしましょうか。将棋シャトランジはいつでもできます、殿下がお呼びなら僕はいつでも来ますので」


 一瞬悩んだ。何もかも洗いざらいぶちまけてしまえば楽になるのではないかと思ったのだ。その上でゆるしてほしかった。気にしなくていいと言ってほしかった。

 手に汗をかく。


 口を開くかどうか、というところで、だった。

 ふたたび、扉が叩かれた。


「フェイフュー殿下、いらっしゃいますか」


 聞き慣れない若い男の声だった。


「どなたですか?」

「白軍の者です」


 胸の奥が冷えた。


「あの時階段の下にいた者です」


 彼はきっとフェイフューとユングヴィの間に何かがあったことを知っている。

 心臓が破裂しそうだ。


 ラームテインが扉の方を振り向き、「あの時?」と呟いた。

 怖かった。

 何も言わないでほしかった。ラームテインに話さないでほしかった。教えるなら自分の口で話したいと思った。

 同時に、このまま無視するのもまずいと思った。

 口止めしなければならない。


「入りなさい」


 扉が開き、白軍の隊服を着た青年が入ってきた。口を利いたことはなかったが、顔には見覚えがある。この辺りを警備している一般兵士の一人だ。本人の申告どおりあの時階下にいたのだろう。

 彼はフェイフューとラームテインの近くまで歩み寄るとその場にひざまずいた。そして、顔を伏せてから、こう言った。


「ユングヴィ将軍の事故の件ですが、自分が処理いたしました」

「処理……と言うと、具体的に、どういう?」

「女官を呼んで医者を呼びにやりまして、処置をしている間お傍に控え、駆けつけられたサヴァシュ将軍に経緯をご説明しました」


 心臓の音が、耳元にあるかのように聞こえる。


 彼はこう続けた。


「不幸な事故でした。殿下にお会いしようとして階段で足を滑らせるなど、たいへん残念なことです」


 その言い方だと、まるで、フェイフューとユングヴィが会う前に事が起こったかのようだ。

 そんなはずはない。彼は近くにいて、すぐ背後くらいにユングヴィが落ちてきたのだから、フェイフューがその場にいたことを知らないはずはないのだ。


「すでにすべて処理を済ませました。殿下は何もなさっていないのですから、お気に病む必要はございません」


 彼が顔を上げた。

 目が合った。


「終わったことです」


 まさか、彼は知っていて、分かっていて、ごまかしたのだろうか。フェイフューを庇うために、フェイフューがその場にいたことを伏せたのだろうか。そして今も、ラームテインの前で余計なことは言わぬ方がよいと察して、こういう回りくどい言い方をしているのだろうか。


「自分は、フェイフュー殿下のお味方です」


 ふたたび、深く首を垂れた。


「階段で足を滑らせた?」


 ラームテインが呟くように問い掛ける。


「ユングヴィが宮殿にいたんです?」

「はい。殿下にご用があるとのことで、この近くまでいらっしゃっていました。しかし直接お顔を合わせる前に転倒事故を起こされました」

「それで、医者を呼んだ、ということは、怪我をしたんですか?」


 血の気が引くのを感じた。


「お腹のお子は亡くなられました」


 手が、震えた。


「ユングヴィ将軍ご自身もたいへん出血が多く意識が混濁していて生死の境をさまよっておいでのようです。しかしこれ以上できる処置はなく、ご自宅で様子を見ることの他に手立てはないとのよし」


 ラームテインが目を丸くした。


「このことはテイムルは把握しているんですか」

「いえ」


 驚いたことに、兵士は否定した。


「サヴァシュ将軍に言わないようにと言われています。今騒ぎになりたくないので、その場に居合わせた者だけで済ませるように、と。したがってお子が流れたことを知っているのは自分、処置をした医者、その時呼びにやった女官が一人、サヴァシュ将軍、そして今お話ししているフェイフュー殿下とラームテイン将軍だけです」

「今隠しても秋分の多数決の時に知られるでしょうに」

「いえ、ユングヴィ将軍の意識が戻られるまで、とのおおせです。事故が起こった時の詳細な状況はユングヴィ将軍しかご存知でないので、確認してから、と。自分も階段下で倒れられているところを見つけてからしか把握しておりませんから」

「まあ、そうかもしれませんね。ただの事故なら仕方のないことですが、事故が起こった瞬間の目撃者がいたら話が変わってくるでしょうからね」


 血の気が引く。

 この兵士が黙っていても、ユングヴィ本人が主張し始めたら、自分の立場が危うくなる。

 意識が混濁している。生死の境をさまよっている。

 そのまま目覚めないでほしい。


「以上、報告を終わります」


 兵士がそう言った。

 喉が渇いて仕方がない。

 しかし黙っているわけにもいかず、フェイフューは何とか声を絞り出して「そうですか、分かりました」と答えた。


「何の用事だったかは知りませんが、僕に会いに来てそういうことに、と言われると、気にかかりますね。心配です。何か追加情報があったら教えてください、僕も意識が戻り次第見舞いに行こうと思います」


 嘘だった。会いたいなどまったく思わなかった。だが会わなければならない。フェイフューが突き飛ばしたことを言いふらされたら困る。黙らせなければならない。


 兵士は「かしこまりました」と告げて深く礼をすると、「失礼します」と言ってすぐに部屋から出ていった。

 扉が閉まった。


 ラームテインが口を開いた。

 何を言われるかと思うと――怖い。


 彼は予想外のことを言った。


「やりましたね」


 その口元にはわずかに笑みが浮かんでいるように見えた。


「勝手に事故を起こしてくれるとは。このまま死んでくれれば誰の手も汚さずにソウェイル殿下側の筆頭が消えるわけですね」


 心臓が握り潰される。


「イブラヒム総督が言っていたではありませんか、気に入らなければ敵対する者を斬ればいい、と。そういう手段を使わずに敵が減るのはありがたいことですよ」


 その瞳は冷静で、冷酷で、冷血で――


「無事では済まないことを祈りましょう」


 フェイフューには、何も言えなかった。






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