第12章:日輪の御子は清かなる想いの中で雨を呼ぶ

第1話 地獄の始まり


 話は一ヶ月前にさかのぼる。






 その日、フェイフューはいつもどおり朝大学に出掛けて、昼には宮殿に帰宅して昼食を食べることになっていた。

 午後は久しぶりに何の予定もなかった。たまには一人でのんびり過ごすか、あるいはラームテインを呼び出して二人で図書館まで出掛けるか、いろいろと思いを巡らせてはいたが確定していることはない。

 空腹だ。昼食は何だろう。たらふく食べたい。そんなことを思いながら階段をあがっていた。


 歴代の『蒼き太陽』たちが増改築を繰り返してきた蒼宮殿の構造は実に複雑だ。基本的には二階建てだが、あちこちに塔があったり地下室があったりする。階段の数も多い。


 この時フェイフューがのぼっていたのは、北の棟の奥にある小さな階段だった。細い階段で、使う人が少ないのでひとけがない。階下の少し離れたところに白軍兵士が一人外を向いて立っているだけだ。ただ、この階段をあがった辺りに王子たちの私室がある。フェイフューはこの階段を近道としてよく使っていた。


 もうすぐ踊り場、というところで上から声を掛けられた。


「フェイフュー殿下!」


 顔を上げると、廊下の向こうの方から歩み寄ってくる人間の姿が見えた。

 ユングヴィだ。

 今日の彼女は生成きなりの木綿の服を着ていた。袖は手首より少し長く、裾もくるぶしまで覆う長さだったが、生地は薄そうで、涼しそうに見えた。顎の下で結う田舎巻きの薄水色のマグナエも洗いざらしの木綿だ。本人としては適当なのかもしれないが、一周回ってしゃれていた。夏だ、と思った。


こんにちはサラーム! お久しぶりです」


 何度か南の正堂辺りで顔を合わせてはいたが、口を利いたのは半年以上ぶりのことだ。最後は十五の誕生日以前、確か第十二の月エスファンドのことだったと思う。


 最後の時、彼女は妊娠が分かったと言っていた。

 今、彼女の腹は丸く膨れている。流行りより下、腰の辺りに帯を巻き、大きくなった腹を支えている。


 フェイフューが踊り場で立ち止まると、ユングヴィがゆっくり階段をおりてきた。そんなに太ったようにも見えないが、何となく、体が重そうな足取りだった。

 ユングヴィらしくない、と思った。彼女の俊敏性は誰もが認めるもので、フェイフューも、さすが十神剣一瞬発力があると謳われているだけある、と思っていたのだ。それが、今は、階段も一段ずつ踏み締めておりてくる。強い違和感があった。


「帰ってくるのを待ってました。殿下、いつもどこからあがってくるのかな、って思って、ずーっと廊下をうろうろしてました」


 踊り場までおりきる二、三段上でユングヴィがそんなことを言う。


「僕を、ですか? 兄上ではなく?」

「そうですよ。フェイフュー殿下を、待ってたんです」


 一瞬、胸の奥が弾んだ。

 ソウェイルではなく、フェイフューを、待っていた。

 それも、他でもなくユングヴィが、フェイフューを待っていた。


 フェイフューは目を一度逸らした。戸惑っていることを知られたくなかった。認めたくなかった。


 会いに来てくれた――そう思っていることを認識したくなかった。


「何の用ですか。僕の方は用はありません」


 わざと突き放す言い方をした。これ以上期待させられたくなかったからだ。そうは言っても彼女は身重で、天地がひっくり返ってもあの日々が戻ってくることはないのだ。


 しかし彼女は変わらずにこにこしている。


 踊り場に辿り着いた。

 二人、向き合う形になった。


「フェイフュー殿下と、もう一回、ちゃんとお話ししなきゃな、って思って」


 フェイフューは顔を上げた。

 ユングヴィの穏やかな笑顔は、あの晩冬から何も変わっていないように見えた。


「あの、オルティくんがソウェイルとフェイフュー殿下のチュルカ平原についての考え方を聞きたい、って言ってきた時。私、あの時、ギゼムさんと一緒だったんで、二階の観覧席にいたんです。ずっと様子を見てました」


 言われてから、そんなこともあったのを思い出した。まだ一ヶ月ほどしか経っていないが、忙しい日々を送っていたせいか大昔のことのように感じられた。


 オルティくん、という言い方が引っ掛かった。彼は亡国の王子でチュルカ人だ。しかしユングヴィの言い方だとまるで近所の子供のようだった。

 オルティはオルティくんで、ソウェイルはお兄ちゃんで、自分はフェイフュー殿下なのだ。

 それがそのままユングヴィと自分たちの距離なのだ。


「あの……、あの」


 ユングヴィがうつむき、自分の右手の指と左手の指を交差させる。言いよどむ様が馬鹿っぽく見える。


「なんか、うまく言えないんですけど。もっと、なんていうか、こう……、フェイフュー殿下もうちに遊びに来たらいいんじゃないかな、って思って」


 フェイフューは眉間にしわを寄せた。


 彼女は、自分の指を互いにつつき合わせながら、口元では笑ったままで、呟くように続けた。


「今でもちょくちょくオルティくんうちに来てソウェイルとご飯食べてるから、そこに殿下も来て、三人でだべったらいいかな、って……考えたんですけど……」

「馬鹿ですか? オルティ王子は死んだのですよ。そういうことにしておくと決めたのはあなたたちではありませんか、軽々しくその名を口にしたら自分を死んだことにした彼が哀れです」


 ユングヴィの肩が震える。


「あっ、そうでした……すみません、じゃあ、聞かなかったことに……」


 フェイフューは大きく溜息をついた。

 不愉快だった。

 つまりフェイフューのこともソウェイルやオルティと同じ扱いをすると言っているのではないか。

 あの二人と同列に並べられたくなかった。


「それだけですか? たかがそれだけの話のためにそんなみっともない腹を抱えてはるばるこんなところまで来たのです?」


 フェイフューが歩き出そうとすると、ユングヴィは行く手を阻むように一歩分動いた。


「話を」


 彼女が、顔を上げた。

 黒い瞳が、まっすぐ、フェイフューを見た。

 至近距離で、目が合った。

 フェイフューの心臓が、一瞬、止まった。


「話を、しませんか」


 息を呑んだ。


「うちに、来て。ゆっくり、座って。温かいもの、食べながら。話を、しませんか」


 ユングヴィの、手が、伸びる。


「だいじょうぶだから。何も怖くないから。いっしょにのんびりしようよ」


 フェイフューの、頬を、撫でる。


「ね」


 優しい、声が、聞こえる。


「おいでよ」


 その甘い囁きに溶けてしまいそうになる。


 急いで振り払った。


 誘惑に負けてはいけないと思った。

 ここで籠絡されてはいけない。ユングヴィにいいように言いくるめられてはいけないのだ。この女はひとを裏切る悪いたちのある女だ。女というものはそういう醜い生き物で信頼に足る存在ではない。


 それに、オルティと一緒にされたくなかった。どれだけ優秀でもしょせん草原の野蛮人だ。一緒に食事をとることが面白くなかった。


 ソウェイルとも、一緒にされたくなかった。

 もうソウェイルと比較されたくない。

 どれほど努力をしても、ソウェイルの方がいいと言う人間が絶えない。


 耐え切れなかった。


「どいてください」


 彼女はすぐ答えた。


「どかない」


 その黒い瞳にはいつになく強い意志が燈っている。


「うんって言うまで帰らないからね」


 余計に、胸の奥が冷えた。

 その感情につける名前をフェイフューは知らない。


「僕は嫌です」

「なんでよ」

「あなたの家には行きたくありません」

「来なよ」

「行きません」

「来て!」


 押し問答が無限に続きそうな気がした。

 苛立つ。

 ユングヴィの家に行ったところで、ユングヴィの腹が赤子で膨れているのは変えられない事実で、晩冬の二人きりだった時間を取り戻すことはできない。

 気分が悪い。


「どけと言っているでしょうが……!」


 ユングヴィの肩をつかんだ。

 押し退けた。


 その直後だ。

 ユングヴィの体が大きく傾いた。


「あ」


 この程度でそんなに大きく動くとは思っていなかった。自分の力がそれほど強いとは思っていなかったのだ。

 彼女なら簡単に受け止められるかあるいは受け流せるはずだ。取っ組み合っていた日々の中では多少の乱暴も大したことはなかった。あの頃彼女は柔軟に動いて対処していた。

 自分が彼女より強くなる日が来るとは、まったく、想像していなかった。


 やけにゆっくりに見えた。

 ユングヴィの体が、階段の下へ、落ちてゆく。

 踏み段に体を打ち付けているのが見える。

 大きな音が、連続する。


 フェイフューは、呆然と、その様子を眺めていた。


 やがて、ユングヴィの体が階下に叩きつけられた。

 彼女はしばらくその場であおむけになっていた。


「うう……」


 低いうめき声が聞こえる。


「いた、い」


 体を横向きにして、腹を抱えるように背を丸める。


「痛い……」


 ややして、生成りの服の股の辺りが、濡れ始めた。

 赤い、赤い、液体だった。

 赤い体液がどこかから漏れ出て、服の尻から腿までを真っ赤に染めた。


「たす、けて」


 苦痛に顔をゆがめつつ、片目でフェイフューの方を見る。


「医者……、お医者様、呼んで」


 血の気が引くのを感じた。

 一歩後ろに下がった。背中が壁についた。


 どうしよう。

 どうしたらいい。

 どうすれば――


「赤ちゃんが……」


 彼女がそう呟いたのを聞いて、フェイフューは顔を背けた。


 このまま放っておくと赤子が死ぬのか。


 赤子を殺したいわけではなかった。けれど助けたいとも思わなかった。ただただ関わりたくなかった。何もかも見なかったことにしたかった。


 急いで階段を駆け上がった。


 フェイフューはそのまま自分の部屋に駆け込んだ。戸を閉めて両手で自分の両耳を押さえた。

 何も見たくなかったし、何も聞きたくなかった。






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