第14話 あなたは堕落した

 帰宅して、女中に傷の手当てをさせて着替えた。

 その間ギゼムはずっと泣いていて、ナーヒドは、三人での生活は自分の浅慮で破綻したのだということを身に染みて感じていた。


 居間の隅に木馬が置かれていた。子供が乗って遊ぶためのおもちゃで、下部が弓なりになっていて、またがった状態で体を前後に揺すると揺れるようにできていた。

 アイダンがどうしても馬に乗りたがるために買ったものだった。


 ナーヒドは、木馬の尻に手を置いた。木馬がゆらゆらと揺れた。


納屋なやにしまうか」


 言うと、またギゼムが激しく泣き出した。


「ごめんなさい……!」

「何がだ」

「わたしがもっとちゃんとしていたら――わたしがあのようなことをかんたんに言わなかったら、アーちゃんはまだこの家にいたかもしれないのに」

「いや、時機を待たず事を急いて仕損じたのは俺だ。すまなかった。お前から娘を取り上げてしまったのだな」


 彼女はその場に突っ伏した。ナーヒドもすぐ傍に膝をつき、彼女の肩にかかる長い三つ編みを撫でた。


「あそこまで怒らせてしまうとは思っていなかった。しかし、冷静に考えたら、我が子は簡単に他人へやれるものではないな。軽率だった」


 立ち上がり、木馬の腹を抱えるようにして持ち上げた。目の毒だ。いつまでもここにあると失った娘を思い出してしまうだろう。早急に片づけたかった。


 また新しく子を貰ってくれば使うかもしれない。捨てないでとっておいた方がいいかもしれない。


 ふと、これはアイダンのものだから、サヴァシュの家にやった方がいいかもしれない、という考えも浮かんだ。

 だがすぐ考えなかったことにした。あれだけ怒り狂っていたのだ、関わり合いたくないだろう。


 アイダンとはもう会えない。サヴァシュとは仕事の都合上また近々顔を合わせるはずだが、まともに会話できると思えなかった。


「……やはり、捨てるか」


 別の子がこの家に来てもアイダンの代わりにはならない。その子に木馬をあてがっても気は晴れないだろうし、前にいた子のおさがりを与えられたことを知ったら新しく来た子は悲しい思いをしないだろうか。


「また次の子を引き取った時に新しいものを買えばいい」


 ギゼムがしゃくりあげながら「そうですね」と呟くように答える。


「次の子のことをかんがえましょう」

「ああ。今度は正式に誓約書を交わしてから――王が決まって王に許可をいただいてからだな。慎重に話を進める」


 半年後には、このむなしさは消えているだろうか。


 アイダンの代わりはいないのだ。


 木馬を抱えて居間を出ようとした、その時だ。


 階下から騒ぎ声が聞こえてきた。女中や小姓が大きな声で誰かに何かを訴えている。珍しいことだった。この家の人間は多少の事件事故では動じないのだ。


 木馬を壁際に置き、階段をおりた。回廊の向こう側、中庭に出た。


「どうした」


 問い掛けてから、はっとした。


 騒ぎの中心にいたのはフェイフューだった。


 フェイフューは中庭の真ん中で女中たちに囲まれて声を荒げていた。強張った険しい表情をしている。いつも勝ち気な笑みに穏やかな口調の彼には似つかわしくない。


 胸騒ぎがした。


「僕の邪魔をするのですか」

「なりません、今旦那様はお疲れなのです」

「僕とナーヒドの事情のどちらが大事だと!?」

「殿下」


 慌てて駆け寄る。女中たちが道を開ける。フェイフューと向き合う。


 強いていえば、焦燥、だろうか。フェイフューが追い詰められた顔をしているように見えた。今までにないフェイフューの姿だった。言い知れぬ不安が募る。


 何かが起こっている。


 初めはラームテインとエルナーズが焦って失敗したのではないかと思った。不埒なことを言ってフェイフューの機嫌を損ねたのではないか。

 しかしそれならフェイフューは直接あの二人にぶつける気もしたし、彼がここまで憔悴するのには結びつかなかった。


「何かござったか」

「ナーヒド」


 フェイフューが口を開ける。切羽詰まった、懇願するような、上ずった声が出る。


「どうしても話を聞いてほしくて――僕、僕は――いったいどうしたらいいのか分からなくて――僕はとんでもない過ちを犯してしまったのではないかと――」


 歯切れの悪い言葉だった。彼が激しく動揺しているのが伝わってくる。

 何かただごとではないことが起こっている。


「僕は、ひょっとして、間違った選択を――取り返しのつかないことを――」


 フェイフューが、腕を伸ばしてくる。

 ナーヒドはその手を取ろうとした。手を握ってやれば少しは安心するのではないかと思ったのだ。


 あのフェイフューが、自ら助けを求めてきた。

 どうにかしてやらなければならない。

 否、どうにかしてやりたい。

 この子を独りで放っておくことはできない。


 しかし、それも束の間のことだった。


 フェイフューが、手を止めた。

 直後、ナーヒドの手を振り払った。

 眉尻を吊り上げ、顔を真っ赤に染め、口元をゆがめて、怒鳴った。


「見損ないました!」


 何が起きたのか分からず、ナーヒドの方が動揺して固まった。


「噂は本当だったのですね! あなたがそんな俗っぽい男だとは思っていませんでしたよ!」

「殿下、どうなさって――」


 フェイフューの目線がナーヒドの後ろの方を見ていることに気づいた。

 ナーヒドは振り返った。


 ギゼムが階段をおりてきたところだった。


 胸の奥が冷えた。


「このご時世に女を囲ってみだらなことにふけっていたのですか!?」

「殿下、違――」

「よりによって蛮族の女などに惑わされて! たいへん不愉快です、汚らしい!」


 失敗した、と思った。誰よりもまずフェイフューに報告すべきだったのだ。もっと早くに落ち着いた環境で丁寧に説明すべきだったのだ。


 怒りに火をつけてしまった。


 小姓たちが「殿下がご乱心だ」と叫ぶ。


「僕がどんな思いでいるかもしれないで……!」


 胸倉をつかまれた。

 想像以上に強い力で引きずられた。こんなに強く育っているとは思わなかった。ずいぶんとたくましくなった。


 突然のことに抵抗できなかった。抵抗しようにも、万が一うまく対処できずにフェイフューを傷つけてしまったらと思うと軽率に動くわけにはいかなかった。どういう形で丸く収めようか考えてしまった。


 そうこうしているうちに殴られた。


 それでもまだサヴァシュに殴られた時のように吹っ飛ぶわけではなく、ナーヒドはその場で足を踏み締めて耐えたが、やはり思っていたよりは痛みを感じた。

 フェイフューは大きくなったのだ。


 もうここまで成長してしまった。

 取り返しがつかない。子供の頃に戻ってはくれないのだ。


「堕落ですよ」


 吐き捨てるように言う。


「もうあなたには頼りません。あなたは堕落しました。汚らわしいです。もう僕からあなたに話し掛けることはないでしょうね」


 ナーヒドは、深く、息を吐いた。


「申し訳ござらぬ」


 早急に話を進めなければならないのは、こちらの方だったのだ。優先順位を誤った自分の落ち度だ。


 だがここで謝ったことが余計にフェイフューの怒りを煽ったようだ。


「おのれの堕落を認めるのですね」


 怒りのあまりか声が震える。


「本気なのですね」


 何と言ったら彼が満足するのか分からず、ナーヒドは即答できなかった。


 フェイフューはナーヒドを待たなかった。


「二度とここには来ません」


 きびすを返し、中庭の向こう、玄関の方へ向かって歩き出した。


「殿下」


 小姓たちがフェイフューを追い掛けようとしたが、ナーヒドは「よせ」と言った。


「お邪魔になるような真似はするな。そっとしておいてさしあげろ」

「ですが――」

「また日を改めて俺からお話しする」


 この時のナーヒドには、何と言ったらいいのか、分からなかったのだ。


 フェイフューが完全に出ていった。彼は一切振り向かなかった。

 ナーヒドには、その背を見送ることしか、できなかった。


 秋分の日が、迫ってきていた。




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