第13話 取り上げる

 いよいよ秋分の日が数日後に迫ってきた。


 そして、とうとう、アイダンがナーヒドの家に来てから一ヶ月が経過してしまった。


 最初は二、三日と言っていたが、サヴァシュが引き取りに来る気配はない。結局連絡もほとんど取り合えぬまま今日に至ってしまった。


 ナーヒドは腰を上げた。


 実の親に放っておかれるアイダンを哀れだと思った。


 もちろん、好きで放置しているわけではないことも分かっていた。サヴァシュもユングヴィも平時は娘をとても可愛がっている。娘を手元で育てることができないほどの異常事態が起こっているのだろう。

 しかしそうであればなおのこと、娘が落ち着いた環境にある方が安堵するだろうと思った。

 二、三日などとは言わず、思い切って信頼のおける人間に託してしまった方がいい。

 まずはユングヴィの神経衰弱を治すことを最優先にすべきだ。


 アイダンの教育にもよくない。

 彼女は時々自宅を恋しがって泣く。泣き疲れて眠るまで泣くのだ。

 しかし今はまだ三歳にもならないので、成長したらこの時期のことは忘れるはずである。

 最初から最後まで自分は大事にされていたと思って生きてほしい。


 たとえこのままアイダンがナーヒドの養女になったとしても不幸になる人間はいない。親子の縁が切れるわけではないからだ。サヴァシュとナーヒドは十神剣の兄弟で、双方とも家は同じ地区にあって、いつでも望んだ時に会える。ユングヴィさえ落ち着けばいつかは実の親のもとに帰ってもいい。

 ただ、生活の拠点と寺で管理している住民台帳という名の紙の上での家族構成が変わるだけだ。


 坂道を三人で歩く。アイダンは、右手でギゼムの手を、左手でナーヒドの手を握って、外に連れ出されることを喜んで機嫌のよさそうな顔で足を動かしている。


「ジキショウソウではないでしょうか」


 ギゼムが不安げな顔で言った。ナーヒドは「別に今日明日に籍を移すわけでもなし」と答えた。


「秋分の日が来る前に大雑把な話の枠を整えておきたいだけだ。多数決の日に万が一のことがあれば俺は仕事で身動きが取れなくなるからな。あいつらにも十神剣としての責務を果たしてもらわねばならぬ。その前に落ち着いて話をした方がいい」

「まあ、そうですね」

「あの家の中の状況がどうなっているか見たいというのもある。事はもう差し迫っている。ユングヴィが無理でも、サヴァシュだけでもおおやけの場に出てきてもらわねばならんのだ」

「気が短いですね」


 テイムルにもよく言われることで少し胸が痛かったが、


「わたしも気が長くないのでけつろんは早く出したい方です」

「そうだろう。……なんだ、気が合うな」


 角を曲がると、見覚えのある場所に出たのだろう。アイダンが突如「あ!」と大きな声を出して走り出した。


「おうち! あちゃのおうち!」


 手を振り払われた。危ないと思い追い掛けて手首をつかんだ。アイダンが「いやーっ」と叫んだ。


「大丈夫だ、今から行くから、走るな」

「やだーっ! あちゃおうちかえるの、おうち――」

「アー?」


 ちょうど通りの反対側からひとが歩いてきた。

 顔を上げた。

 サヴァシュだった。

 彼は腕に丸いものがたくさん入った布の包みを抱えてこちら――自宅の方に向かってきていた。市場で買い物をしてきたに違いない。


「おとうちゃ」


 アイダンが駆け出した。

 今度こそ、ナーヒドは止めなかった。


 サヴァシュは手に持っていた包みを放り出した。地面に包みからこぼれた柘榴ざくろがいくつか転がった。


「アイダン!」


 サヴァシュが地面に膝をつくと、アイダンがサヴァシュに飛びついた。サヴァシュの首に腕を回し、頬に額を寄せた。


「おとうちゃあ……あちゃ、おとちゃいちばんすき……」

「そうか、そうか。ごめんな、放っておいて悪かったな」

「あちゃもうぽい? ぽいなの?」

「そんなわけないだろ! お父ちゃんは一日だってお前のことを忘れたことはないぞ」

「あちゃ、おうち、はいれる?」


 無言で、きつく、抱き締める。アイダンが「くるしー」と訴える。


「なんだ、綺麗なおべべ着てるな。買ってもらったのか」

「おじちゃんくれた」

「よかったな。いっぱいお礼しなきゃな」


 ナーヒドとギゼムもサヴァシュに歩み寄る。


「そっちはどんな按配だ」


 サヴァシュはアイダンを離すことなく地面に膝をついたまま顔を上げた。


「今日でちょうど一ヶ月だろう。そろそろ秋分も近いし、状況を教えてほしくてな」

「ああ、悪い。引き取りに行くのを秋分の後にするか前にするかで話し合ってたところだ」

「ユングヴィは口が利ける状態なのか」


 そこで彼は少しの間黙った。あからさまに視線を地面に落とした。


「まあ……、最悪の状態は脱した、と言いたいところだが、手負いの獣みたいなことになってる。お前と喋れるかと言ったら、俺としては正直やめてほしい」

「そうか。では子供の精神衛生にはまだよろしくないと解釈した方がいいか」

「どうだろうな。子供に会いたがってはいる。でもな、……どうしたものか。かといってお前のところでももう限界だろ」


 ナーヒドは、ひとつ、大きく息を吸って、吐いた。


「アイダンを連れて帰ってもいい。……いや、連れて帰りたい」


 サヴァシュがふたたび顔を上げた。


「うちは秋分を越えても構わない。このままうちでずっと面倒を見てもいい」

「……それは、どういう――」

「今日はアイダンを引き取らせてもらえないか話をしに来た」


 大きく目を見開いた。この男が驚いた顔をするのは珍しい。


 手を伸ばし、まだサヴァシュにしがみついたままのアイダンの小さな頭を撫でた。


「この家では面倒を見られないのだろう? それならばこのまま俺がこの子の世話を続けようかと思ってな」


 サヴァシュが、ゆっくり、立ち上がる。アイダンを自らの体から引き剥がすように離す。


「我が家は豊かだ、ふさわしい教育を受けさせることができる。だから、安心して手を離したらいい」


 次の時だった。

 胸倉をつかまれた。

 突然のことについていけずナーヒドは体が強張るのだけを感じていた。


 頬に拳がめり込んだ。上顎にひどい衝撃を受けた。

 勢いに負けて体が吹っ飛んだ。塀に右半身を叩きつけた。


 何が起きたのか分からなかった。


「殺してやる」


 もう一度胸倉をつかまれた。今度は両手で持ち上げるように引っ張られた。

 目の前に怒りで真っ赤に染まった顔があった。


 ナーヒドは純粋に恐怖を感じた。

 戦場で相手国の兵士から敵意や殺意を向けられることには慣れていたが、自宅の近所で味方からそういう強い感情をぶつけられることは想定していなかった。


 今日はサヴァシュと話し合うつもりで来たのだ。自分はいくらでも譲歩する気でいたし、簡単な口約束だけ取り付けたら何もせずに帰るつもりでいた。それにサヴァシュにとっては何も悪くない話のはずだった。


 自分の発言の何がそれほど気に障ったのだろう。


 そうこうしているうちにふたたび頬を殴られた。

 次は、ナーヒドは地面に倒れた。

 本気で、全力で殴られているのを感じた。


 髪をつかまれた。わしづかみにして、上に引っ張り上げられた。頭皮が痛む。顔が引きつれる。


 目と目が合う。

 血走った目、というのは、こういう目を言うのだろう。


「今度という今度は我慢ならない。子供の前で馬鹿にしやがって」


 ナーヒドにはそんな意図など一切なかったのだ。


「俺から子供まで取り上げようとする」


 いまだかつて一度も、何も、取り上げたつもりはなかった。


「この国じゃ俺は子供を育てることも許されないのか」


 何を言っているのか、まったく、分からない。


「馬鹿にしやがって……!」


 だが――ナーヒドは力を抜いた。

 されるがままにしようと思った。


 分からない自分がいけないのだ。


 分からないが、自分はきっと、ずっとサヴァシュを踏みつけてきたのだろう。彼はずっと自分に対して不満を蓄積してきて、今日それが爆発してしまったのだろう。


 ナーヒドはただアイダンを預かるだけのつもりだったが、サヴァシュはアイダンを奪われると思ったのかもしれない。

 それだけ、自分は、サヴァシュから何かを奪い続けてきたのだろう。


 なぜ怒られているのか分からない自分が情けなかった。すべては誤解される言動を取り続けて何の手当てもしてこなかった自分のとがだ。


 しかしサヴァシュはそれ以上やらなかった。

 アイダンのか細い声が聞こえてきたからだ。


「おとうちゃあ」


 震えている。


「おとうちゃ、おじちゃんこときらい……?」


 その声を聞いていると切なくて泣きたくなる。

 俺が悪いのだから父を責めるなと言ってやりたくなったが、自分の何が悪いのか分からないので適当なことを言うのもためらわれる。


 サヴァシュはナーヒドから離れた。

 アイダンを抱き上げた。


「お前に預けた俺が馬鹿だった。もう二度と会わせない」


 門扉を開け、中へ入っていった。一切振り返らなかった。

 ただ、サヴァシュの肩越しにアイダンがこちらを見ていた。アイダンは黙って父親にしがみついていて何も言わなかった。


 庭の向こう側で、玄関の扉が閉められた。


 ナーヒドはその場に座り込んだ。上半身を起こした状態で、溜息をついた。


 間を置かずギゼムが抱きついてきた。気丈な彼女らしからぬ顔で泣いていた。


 地面に柘榴が転がっていた。ナーヒドは、六年前のタウリス戦役で妊娠したユングヴィが柘榴を食べたがっていたことを思い出した。サヴァシュは弱っている妻のために柘榴を買いに行ったのだろうか。


「よく分からんが、これが愛というやつなのだな」


 柘榴を拾い集めて、布に包み直した。そして、門扉の取っ手に布の端を結び付け、ぶら下げた。


 帰り道は二人だけになった。




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