第9話 嘘偽りのない真心

 アイダンを預かってから二回目の公休日が来た。すでに二週間近くナーヒドの家にいることになる。


 昨日サヴァシュの家の下女が訪ねてきた。アイダンは久しぶりに会う家の人間に喜んでいた。ナーヒドはナーヒドなりにアイダンを可愛がっているつもりだったが、やはり自宅に帰りたいのか、と思うとなかなかつらいものがある。


 下女はアイダンが元気であることを知ってたいそう安堵した様子であった。ホスローのいるテイムルの家も訪ねてきたそうだが、ホスローも相変わらず跳ね回っているらしい。子供たちが元気でいることが一番の薬になるだろうと語った。


 ――奥様はご病気で気がふれてしまいましてね。旦那様があんな状態の母親をお子たちに見せたくないとおおせになりまして。それはそれはひどいもんで、あたしたちもお子たちと奥様を離した方がいいと思いまして。今の姿を見られて一番傷つくのは正気に戻られた時の奥様でしょうからね。


 そう言われるとナーヒドも深く追及できなかった。


 ユングヴィが神経衰弱にかかっているなら事態はもっと長引くだろう。下女は徐々に快方に向かっていると言ったが、秋分の多数決には欠席するかもしれない。


 とてもではないが喜べなかった。ソウェイル派の人間が減る喜びより十神剣が減る不安の方が勝った。


 しかしナーヒドにできることはない。目の前のことを少しずつ片づけていって自分だけでも秋分に備えるしかない。


 午後、アイダンはしばらく屋敷の周りの堀で水遊びをしていたが、そのうち遊び疲れて昼寝を始めた。これで少しの間静かになるだろう。


 ナーヒドはギゼムを書斎に呼び出した。


「とりあえず座れ」


 二人向かい合って絨毯の上に座る。


「はい、何でございましょう」

「いくつか訊きたいことがあるのだが、いいか。どうしても答えたくないというのならば拒否しても構わないが、できる限り正直に答えていただきたい」

「はあ、まあ、かくすようなことはございませんので何をおたずねになってもけっこうですが、アルヤごがわからなかったらごめんなさいですね」


 ギゼムがここに来るまでに何を言おうか相当考えたはずだが、いざ本人を目の前にするとどこから話していいのか悩んだ。自分は短気で言葉足らずだということを認識した上で話さねばと自分に言い聞かせた。


 ようやく一つ目の質問が口から出た。


「アイダンとのやり取りを見ているとかなり子慣れしているように感じるが、子供を産んだことがあるのか」


 ギゼムは少し驚いたようだった。一拍間を置いてから、「いいえ」と答えた。


「わたし、二十四人兄弟の上から四ばんめで、年のはなれた弟と妹がたくさんいたものですから。それに、アーちゃんともむこうの家でしばらくいっしょにくらして、せいかくが何となくわかってきたものですから。それに、とくべつうまくできている気もしませんから――こちらの家のおてつだいさんたちにとてもたくさんたすけていただいておりますから。それに……、それに……」


 最後に、小さな声で「こどもをうんだことはありません」と言った。


 ナーヒドは次の質問に移った。


「以前、最初にサヴァシュがお前をこの家に連れてきた時、この家で社会勉強をしてからどこかへ行く、と言っていたように記憶しているが、何か今後の展望で、どこに行きたいやら、何をしたいやら、そういうことはあるのか」


 ギゼムはまた、言いにくそうにうつむいた。


「とくには……。何もかんがえていませんです、ごめんなさいです。こちらでべんきょうして、何か見えてくるものがあればと思っておりました。ほんとうに、アルヤ王国にしりあいがいないものですから」

「さようか」

「あの……、何かふてぎわがございましたでしょうか? なぜ、そのようなことを」

「いや、そういうわけではないのだが……、別にずっといてくれても構わないのだが、逆にいつまでも引き留めるようではいかんと思ってな」

「とんでもないことです。何もございません」


 そこで、ナーヒドはひとつ、深呼吸をした。


「アイダンを連れて絹市場に行った時のことだが、憶えているか」

「何をでしょう」

「お前、絹物屋の主人に、押しかけ女房がどうとか、俺の妾がどうとか、言っていただろう」


 ギゼムが「あっ」と言って自分の口元を押さえた。


「そうでした。あのときは何となくながれていきましたね」


 ギゼムの反応が何でもない様子だったので、ナーヒドはまた、大きく息を吐いた。


「まあ……、なんだ、その、冗談なり方便なり適当に言ったことならばいい。俺も忘れる」


 ところが、彼女はそこで「まあ!」と大きな声を出した。


「じょうだんなどではございません!」


 危うく心臓が止まるところだった。


「ほんとうのことですよ。わたしのうそいつわりのないまごころです」

「何を言うか、お前は――」

「セイシツになりたいなどとはもうしません。おそばにおいていただければよいのです」


 心底困った。こんな状況など生まれて初めてだ。どう返事をすればいいのかまったく分からなかった。


 彼女の目はまっすぐナーヒドを見ている。確かに、嘘偽りはなさそうだ。彼女は本気で言っているのだ。


 いつかの月夜を思い出した。あの時も、彼女は、本気で、正気で、真剣だったのだろうか。


 彼女はナーヒドの次の言葉を待っている。


「……その……、」


 消えてしまいたいと思った。悔しかった。情けなかったし、恥ずかしかった。

 辱められている気さえしていた。


 ギゼムはナーヒドの事情を知らないはずだ。ギゼムどころか、ナーヒドと死んだ父親のほかに誰も知らない話だった。したがって被害妄想なのだが、どうしても、このまま話が進むと、屈服させられた気持ちにさせられる気がする。


 しかし、真剣な目でナーヒドを見つめている彼女を見ていると、ここでごまかすのは誠実ではないと思ってしまう。


 自分は悲しいほどに正直だ。ここで嘘をついて逃げることができればもっと器用に生きられるのにと思わざるを得ない。


「諦めてほしい。お前が考えているようにはうまくいかないから、よその男のところに行ってほしい」


 ギゼムが眉尻を垂れ、薄く口を開いた。悲しそうな顔だった。可哀想だと思った。だが彼女の求めに応じることはできない。


「わたしがチュルカ人だからですか」


 胸の奥を握り締められたような衝撃を感じた。

 ギゼムに、異民族だから向き合ってもらえないのだと思われている。

 誠実とはかけ離れた、唾棄すべき態度だ。


 初めて、自分が他人を踏みつけて生きてきたのだと自覚した。自分がアルヤ人であることを振りかざしてチュルカ人たちを傷つけてきた報いが今ここに凝縮している。

 彼女を傷つけていた。


 慌てて「違う」と否定した。


「そうではない、お前は自分がチュルカ人であることを足枷に思ってはいけない」

「ではなぜ? なぜそのようなことをおっしゃるのですか。いなかの王国でしたがわたしもいちおうハンの子です、家のカクがつりあわないということはございませんでしょう」


 その言葉も突き刺さった。自分はそんなにアルヤ王国の名門の御曹司であることを鼻にかけていると思われているのか。だが実際にそうだ。何度その自慢話をしたか知れない。


 ナーヒドが次の言葉に悩んでいるうちにギゼムは早口で続けた。


「せいしきなつまにしてほしいなどとは、いちども、もうしあげておりません。おめかけさんでいいのです、家のなまえもお金も何にもいりません。おそばにいさせていただければ――」


 声が涙でふやける。


「わたしは中古のとしまですので、もうちゃんとしたけっこんができないことはわかっているのです。だからずっとこのままでよいのです。何ももとめておりません」


 ナーヒドが「中古の年増か」と呟くと、彼女はたたみかけるように「そうですよ」と言った。


「きむすめではありませんから、すきにあつかってよろしいのです」

「たとえそうであっても適当な扱いはできまい」

「いいえ、もう三回、もしつぎがあったら四回目ですから」

「三回? 何がだ」

「けっこんが」


 思わず「さすがに三回の離婚歴は多いな」と言ってしまった。


 次の時、ギゼムの目から大粒の涙が溢れた。


 尻を浮かせて「すまん、失言だった」と謝罪した。しかし彼女は首を横に振って「ほんとうのことですから」と答えた。


「わたし……、わたし、こどもがうめなくて」


 服の袖で目元を押さえる。


「いちども赤ちゃんをさずかったことがなくて。ましてやこんな、がさつな性格の酒のみで。だからどこに行っても、二、三年でいらないと言われてしまって、なんどもじっかに出もどって」


 ナーヒドも、息が止まった。


「きっとここでもうめないです。でも、ナーヒドさまには、あとつぎのむすこがひつようですから。ですから、わたしはただのおめかけさんで、ちゃんとしたおくさんはべつにいたほうがいいですね」

「それは……、」

「次がきまるまででも。ちゃんとしたおくさんといっしょにいるのがむずかしいなら、出ていきますから」

「それは――」


 腰を、下ろした。


「それは、俺も、で」


 力なく、呟くように、応じた。


「俺も、男として役に立たない。一度もしっかり機能したことがなくて、女を抱けたためしがない」


 ギゼムが目を真ん丸に見開いた。


 敗北を認めさせられてしまった。


 だが自分の男としての人生は始まる前から終わっていて、とうの昔に結婚できるすべての男に敗北しているのだ。


「何度か試してみたのだが、時間をかけてもだめで、女が諦めてしまうので。俺は、正式な結婚はしないと決めたのだ」


 喉に詰まっていた「恐ろしくて」という言葉を吐き出すと、もう、話すのを止めることができなかった。


「自分が男としてだめなのだと思うと女が怖くて。うまくできないのだと思うと恥ずかしくて。何を言われるか分からないと思うと女を遠ざけておくしかなくて。それで、この年まで独身でいた」


 ギゼムが、唖然とした顔で、こちらを見つめている。


「どのみち、この家は俺が末代なのだ」


 腕が伸びてきた。

 どう反応すべきか困っているうちに抱き締められた。

 長い指で、後頭部を撫でられた。


「それは、おそろしかったですね」


 そして、「ごめんなさい」と、言われてしまった。


「わたしは、何もしらずに、あなたさまにはずかしい思いをさせてしまいました」


 けれどそう言われた瞬間、ナーヒドは何かから解放された気がして、「もういいんだ」と言った。


「分かっただろう。俺がお前を女として満足させてやることはできない。お前に子供が産めたとしても産ませてやることはできないだろう。だから、よそへ行け」

「いやです」


 そして言うのだ。


「だいじょうぶです。何もなくてもよいのです。わたしはずっとおそばにいます」

「しかし――」

「男女の仲というのはそれだけではございませんから。何もなくても、まんぞくしていればいいのですから」


「そうか」


 彼女の背に、手を回した。


「俺はとにかく、ひとにわらわれるのが、恐ろしいのだ」


 彼女は「わかりました」と言う。


「もう、だいじょうぶですからね。あなたさまをわらうひとは、わたしがみんなやっつけてさしあげます」


 ナーヒドは笑った。



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