第8話 アルヤ人男性とチュルカ人女性

 ギゼムがアイダンを寝かしつけるというので、アイダンを刺激してはいけないと思い、ナーヒドは一度二人から離れた。


 しかし書斎で一人ぼんやり日記を書いているうちに二人がどんな様子でいるのか気になってきてしまった。


 アイダンの寝顔を見てみたかった。ユングヴィがよくホスローについて黙って寝ている時だけは天使のようだと言っているからかもしれない。兄のホスローは特別落ち着きがないので落差が激しいのだと思うが、妹のアイダンはどうだろう。


 立ち上がり、アイダンのための寝室として整えた小部屋へ向かう。


 部屋が近づいてくると、部屋の中から歌声が聞こえてきた。ギゼムの声だった。穏やかな、抑揚の小さい旋律だ。すぐに子守唄だと分かった。


 チュルカ語といえば、短母音の羅列がはてしなく続く、どことなく洗練されていない言語のように思われた。対するアルヤ語は一定の拍を刻むことばで、普通の会話も韻を踏むように自然と音が揃う、洗練された詩の言語だ。ナーヒドの中には辺境のチュルカ語と都会のアルヤ語というはっきりとした対立があった。


 しかしこうして歌で聞くと、チュルカ語はとても滑らかで、母音が多く、明るい曲調が似合う。


 音楽になると、美しくない言語などないのだと思う。アルヤ語に合うアルヤ音楽の旋律があり、チュルカ語に合うチュルカ音楽の旋律がある。それぞれにふさわしい音色があって、優劣は存在しないように思われた。


 部屋の中を覗く。


 部屋の真ん中に布団が敷かれていて、ギゼムが向こう側を、アイダンがこちら側を向くように向かい合って横になっている。アイダンは眠りに落ちたらしく、まぶたを下ろして静かに呼吸をしている。


 ギゼムの手が、アイダンの背中を、優しく、撫でるように叩いている。


 平和だ、と思った。この家にこんな穏やかで暖かな空間ができる日など永遠に来ないと思っていた。


 幼子が、安らかに、寝ている。


 ややして、歌声が止まった。


 ギゼムがその場で上半身を起こした。


 こちらを振り向く。

 目が合う。


「どうかなさいましたか」


 ナーヒドは部屋の出入り口に立ったまま「いや」と答えた。


「アイダンは寝たのか」

「はい」

「そうか。では、ここで話していると、起こしてしまうかもしれんのだな」

「いいえ、ふかいねむりに入ったので、だいじょうぶですよ」


 部屋の中に入りながら「特に用はない」と言った。


 布団の近くにしゃがみ込み、アイダンの寝顔を眺めた。


 湧き上がってくる感情を的確に表現する言葉が思いつかない。


「触れても大丈夫だろうか」

「そっと、ね。そっと」


 指の背で、頬を撫でる。柔らかく、滑らかだ。ギゼムの言うとおり深い眠りに落ちているらしく目を開けることはなかった。


「チュルカ語で話し掛けているのか」


 ギゼムが「ふたりきりのときは」と言って頷く。


「アーちゃんも、チュルカごがかなりわかります」

「父親が黒軍の施設の中に連れているようだからな」

「まわりのおとながしゃべっていると、きょうみをもつのでしょうね」


 ギゼムの表情も優しい。


「ずっとアルヤ王国にいると、チュルカごをわすれてしまいそうになる、と、サヴァシュさんは言うですね。さみしいですね」


 その感覚がナーヒドには分からなかった。

 アルヤ語は世界に通用する言語だ。周辺国の諸民族がアルヤ語を学習するもので、アルヤ商人はどこに行っても自分の生まれのことばで商売ができる。ナーヒドは高位の武官としてサータム語を習得したが、日常会話で使うことはほとんどなく、アルヤ語さえできれば生活できた。


 大昔のことを思い出した。サヴァシュがエスファーナに連れてこられた頃のことだ。


 彼は北方の、ノーヴァヤ・ロジーナ帝国との国境くにざかいくらいの寒い草原で生まれ育ったのだそうだ。辺境の中の辺境で、周辺部族としか交易をせず、アルヤ語ですらまったく使わなかったらしい。


 異郷の地で、周りが何を話しているのかまったく分からない状況で生きていくというのは、いったいどんな感じなのだろう。


 娘がその異郷の地で育って自分の故郷のことばとは違う言語を話すようになったら、寂しい、のだろうか。


 今のサヴァシュは流暢にアルヤ語を話す。アイダンがアルヤ語しかできなくても会話できないということはない。

 だが、もし、自分の娘がアルヤ語ができないとなったら、ナーヒドはその時何を思うだろうか。


「まあ……、チュルカ語も教えてやれ」


 ギゼムが「はい」と微笑んだ。


「といっても、イゼカぞくとグルガンジュぞくで、だいぶ方言がありますけれど」

「それはやむを得まい。アルヤ語でも地方に行けばエスファーナ標準語とは違うことばを話す連中がいる。秋分になってエルナーズが――西方守護隊の隊長がこちらに来たら、タウリス方言が聞けるだろう。音の上がり下がりや敬語表現が少し違うのだ」


 そして、思い出すのだ。

 秋分まで、あと半月を切った。

 三度目の多数決の日が来る。

 背筋が少し、寒くなる。

 秋分の日、また、自分はフェイフュー側に座り、彼はソウェイル側に座るのだろうか。


 フェイフューを選ぶことにためらいはないが、ソウェイルを選ばないことにためらいがある。ソウェイル側に座るサヴァシュ、ユングヴィ、ベルカナ、そしてテイムルと対立するのが不安だ。


 アイダンの顔を眺めた。


 いつもは頭頂部でひとつにまとめている髪を解かれていた。長い前髪が頬に張りついている。

 細く柔らかいまっすぐの髪を撫でた。


「長いな。目にかかってしまう。切ってやろうか」


 するとギゼムが「いけません」と言った。


「チュルカ文化では三才までかみの毛を切ってはいけないのです」

「なぜだ。邪魔だろう」

「三才まで、かみの毛は前世とつながっているのです」

「前世? 何だ、生まれ変わり思想があるのか?」

「うまくせつめいできないですけれど、三才のおいわいに、かみを切るぎしきをするのです。それまでいけません」


 髪を撫でつつ、「そういうものか」と呟いた。儀式、と言われると仕方がないと思えた。通過儀礼だ。子供はそういう手順を踏んで育ててやらないと病気ですぐ死ぬ。


「かってに切ってはサヴァシュさんがおこるですよ」

「そうか。それならば仕方がないが――」


 髪を、つまむ。


「汗で張りついている。少し可哀想に思う」


 ギゼムが黙った。

 予想外の沈黙だったので、気にかかったナーヒドはアイダンの髪から手を離してギゼムの顔を見た。

 彼女は、眉間にしわを寄せ、不愉快そうな顔をしていた。

 なぜそんな顔をされるのか分からず、ナーヒドは反応に困った。


「わたしたちは、かわいそうでしょうか」


 ギゼムが言う。


「わたしたちの文化は、ミカイでヤバンでしょうか」


 思わず目を丸くした。


「わたしたちがチュルカ人であることは、よくないことでしょうか」

「それは……、」


 何と言ったらいいのか分からなかった。

 自分の何気ない言葉が彼女を怒らせていることは分かる。しかしそんなに怒ることだろうか。自分にとっては当たり前の、世界のことわりなのだ。

 違うのかもしれない。彼女の世界の理はそうでないのかもしれない。

 だが具体的にどういうことだろう。

 分からない。


 けれどとにかく、怒らせている。

 言ってはいけないことを、言ってしまったのかもしれない。


 ギゼムが目を逸らす。


「まあ、かまいませんけれど。なれました。アルヤ人のとのがたはみなさんそういうことを言いますね」


 その言葉は刺さった。アルヤ人男性というくくりでひとまとめにされた気がしたのだ。

 しかし自分はチュルカ人女性というくくりで彼女たちを見ているわけで、それと大きな違いがあるようにも思われなかった。


 アルヤ人男性であることは名誉なことだが、すべてのアルヤ人男性がその名誉にあずかれるほど立派な人物というわけではない。

 同じように、チュルカ人女性であることは哀れなことのように思っていたが、彼女を哀れであると思ったことはなかった。

 第一、何をもって哀れと言っているのかもよく分からなかった。


 理由のないことをしていた自分が恥ずかしかった。根拠のない、つまり配慮のないことを言っていたのではないか。


「……今日は一度むこうのいえにかえりますね」


 ギゼムが立ち上がろうとした。

 とっさにその手首をつかんだ。

 手首の銀細工が、しゃらん、と鳴った。


「待ってくれ」


 素直に「すまなかった」という言葉が出た。


「俺はアルヤ王国から出たことがないので外のことをよく知らないのだ。どうやら礼に欠いたことを言ったようだが、俺にはよく分からない。その……、そういうことを、今、深く恥じている。思慮が足りないようだ」


 しばらくの間、二人とも黙っていた。


 ナーヒドは顔から火が出そうだった。顔を上げられなかった。ギゼムがどんな顔で自分を見ているのか確かめたくなかった。


 ややして、ギゼムは、もう一度、座った。


「わからないのですか」


 言い逃れはできない気がして、ナーヒドは頷いた。


「いいことですね」


 その声が少しやわらいでいる気がして、おそるおそる顔を上げた。

 ギゼムは苦笑してナーヒドを見つめていた。


「わからないことがわかるのはいいことですね。わからないことはべんきょうしていけばいいのですから。わからないことがわからないのが、いちばんおそろしいですね」

「しかしこの年になって分からないことがあるというのは情けないことだ」

「だれでもそういうことはあります」

「わらわないのか」

「いいえ。ゆうきをもってこくはくしたことを、とうとく思います」


 肩の力を抜いた。


「いろいろと教えてくれ」


 そう言うと、彼女は微笑んで「かしこまりました」と答えた。




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