第7話 三人で市場を歩く

 それから二日経ってもサヴァシュはアイダンを迎えに来なかった。連絡もまったくよこさない。こちらから小姓を遣いにやって様子を確かめようとしたが、門扉が固く閉ざされていて中は見られなかったようだ。

 ナーヒドは出勤してから宮殿で会うテイムルとベルカナにあの家で何が起こっているのか訊ねた。テイムルも事情をよく聞かされず子供だけを預けられている状態で、ふだんなら様子を窺いに遣いとして出す嫁がつわりで動けず、何の情報も入ってこなくて困っているという。ベルカナにいたってはサヴァシュとユングヴィがそういう状態になっていることすら知らなかったようで、今朝これから確認に行くと言って別れてそれきりだ。

 ひょっとして、今、まだ分別のないアイダンがこぼした情報をもっているナーヒドが、一番、あの夫婦の不調の真相に近いところにいるのだろうか。

 そこまで辿り着いた時、ナーヒドはそれ以上考えないことにした。当人たちが嫌がっているのである。さすがに家の中までずかずかと入り込むような無遠慮なことはしたくない。

 アイダンの世話は基本的にギゼムが焼いていて、時々子慣れした下女が手を出しているようだ。気に入らないことがあると泣き喚くのだけはどうにもならないが、生活の基礎の部分は少し手伝ってやれば何とかなる。特に、おしめが取れていて便意を主張することができる、というのには一同とても助けられていた。

 夜、ナーヒドが帰宅すると、アイダンはもう夕飯を食べて寝るだけの状態になっている。朝出勤前に大騒ぎするのは大変だが、夜満腹でうとうとしている姿には心が和む。ギゼムも、アイダンを寝かしつけるために一緒に横になって、そのまま朝まで眠ってしまう。ナーヒドはそんな二人をぼんやり眺めている。

 三日目は休日だった。

 ナーヒドは朝からアイダンとギゼムを連れて出掛けることにした。ギゼムが持ってきたアイダンの服が綿ばかりだったからだ。将軍の子女が絹の一枚も持っていないというのは情けない。何着か仕立てて着せてやりたくなった。

「どうせよごすと思いますけど」

 ギゼムと並んで歩く。ギゼムとナーヒドの間にはアイダンがいて、アイダンの小さな柔らかい手がナーヒドの手を握り締めている。

「汚れたら捨てればいい。替えがあればいいだろう」

「はあ、ぜいたくですねえ。だいたい、キヌなんて、こんな小さな子がわかるでしょうか」

「当人が分かるか否かではないのだ。親の沽券にかかわるのだ」

「さようですか」

 アイダンの歩幅は小さい。彼女にあわせていると市場までのふだんなら何でもない距離がはてしなく遠く感じる。しかし彼女はどうしても歩くと言って聞かない。彼女に付き合ってゆっくりと歩いた。

 仕立て屋を家に呼んでもよかったが、アイダンを外に出してやりたかった。それに絹布が並んでいるところを眺めて彼女に合う柄を探すのも一興だと思った。子供がいるとあれこれ思い浮かぶ。

 アイダンの手が、ナーヒドの手を、握っている。

 悪くない。

 不意に声が聞こえてきた。

「だっこ」

 立ち止まり、見下ろす。

 大きな目で見上げられている。

 手が離れた。そして、両手を差し出すように腕を上げた。

「だっこ!」

「歩くのではなかったか」

「もういい! だっこ!」

 疲れたのだろうか。

 むしろ好都合だった。アイダンの歩調に合わせて歩くのに骨が折れていた。

 抱き上げた。

 細く柔らかい腕が首に回される。

 温かい。

「よかったですね」

 ギゼムが言う。

 しかしアイダンは満足していないようだ。彼女は「もっと」と叫んだ。

「もっと? 何がだ?」

「もっとタカイして」

「タカイ? 何だ?」

「タカイの!」

 アイダンがナーヒドの肩によじ登ろうとする。慌てて「待て、やめろ」と言って下ろそうとしたが聞かない。

「あ、あれではないですか? かたに――足を――こう――」

 ギゼムが身振り手振りで何かを説明しようとしている。だがアルヤ語が出てこないようだ。自分の肩に何かをまわそうとしているように見える。

「上に――高く、こう――」

 ナーヒドはしばらく何のことか分からずその様子を眺めていたが、やがて、不意に、頭の中に想像図が浮かんだ。

「肩車か」

「そう! それです!」

 そんなことを自分がする日が来るとは思っていなかった。うまくできるのか不安だった。ともすれば落としてしまわないだろうか。

 だが、アイダンはなおも上を目指して暴れている。

 高く抱え上げ、慎重に、自分の頭の後ろにまわした。

 アイダンはどうするのか分かっているらしく、ナーヒドの首にまたがり、頭にしがみついた。

「すごいすごーい!」

 はしゃぎ声が聞こえる。

「大丈夫なのか、これは」

「ゆっくり、ゆっくり」

 何とか一歩を踏み出す。アイダンはしっかりしがみついていて案外揺れない。

 アイダンがあまりにも喜ぶので、ナーヒドはだんだん気分が高揚してきた。口には出さなかったが、自分はアイダンの父親より背が高いのだ、と思うと嬉しかった。彼がやるよりもっと高い目線を提供してやっている。誇らしい気持ちになった。

 予定よりもずっと時間をかけて、ようやく、絹市場に辿り着いた。中でも、王家御用達でナーヒドの家にも出入りを許している絹織物の店を目指した。

 店番の少年に声を掛けると、すぐに店の主人が出てきた。彼は驚いた顔をして挨拶より先にこんなことを言った。

「一瞬ナーヒド将軍のお子かと思いましたよ」

「は?」

 知らない人間に引き合わされようとしているのを察したのだろう、アイダンがおとなしくなる。ギゼムがアイダンをナーヒドの頭の後ろから下ろす。

「いつの間にご息女を儲けられたのかと」

 慌てて「俺の子ではない」と訴えると、店の主人は微笑んで「分かりますとも」と答えた。

「お顔立ちが完全にサヴァシュ将軍ですからね」

 ギゼムに抱えられているアイダンを見た。ナーヒドを見上げるアイダンの顔は切れ長の目に低い鼻だ。いかにもチュルカ系で父親によく似ている。

 先ほどの店番の少年が茶器を持ってくる。茶を淹れてくれるようだ。

「隣の女性は? お見掛けしないお顔ですね。新しいお女中ですか、ナーヒド将軍のお宅でチュルカ系の女性は珍しいですね」

「いや、違う。彼女ももとはサヴァシュのところの人間で娘と一緒に預かっている」

「サヴァシュ将軍の妹君とか?」

 説明に困った。亡国の王女であるとは言えなかったのだ。どこでどんな噂が流れるか知れない。信用できる商人なので口は堅いと思うが、ここは開放された軒下の店先である。

 ナーヒドが悩んでいると、ギゼムが口を開いた。

「おしかけにょうぼうですよ。ナーヒドさまのおめかけさんになるつもりなのです」

 ナーヒドは硬直した。

 店の主人は声を上げて笑った。

「お妾と言わずとも、ナーヒド将軍はまだご正室もいらっしゃいませんからね」

「チュルカ女ですからねえ。それに、中古のとしまです」

「またまた。私のようなアルヤ人のおじさんからすると異民族情緒のあるチュルカ美人ですよ」

 慌てて間に入った。

「この子の服を仕立てるのに絹の布を何枚か見繕いたい。染物を見せてほしいのだが」

 店の主人が「はいはい」と言って棚に並べられていた巻き布を手に取った。

「ナーヒド将軍がサヴァシュ将軍のお姫様にご衣裳を作られるんですか」

「そうだ。しばらくうちで預かるからな。俺がこの子にみすぼらしい恰好をさせていると思われたくない」

「さようでございますか」

 「サヴァシュ将軍のお子ならチュルカ平原の北方風がいいかな」と呟いたので、ナーヒドは止めた。

「いや、昔、王家の姫君に――フェイフュー殿下の妹姫が生きておいでだった頃に宮殿に納めていたような無地のものをくれ」

「アルヤ人のお姫様の衣装を仕立てるんですかね?」

「そうだ。俺が世話をするのだから」

 ギゼムがアイダンに「どちらでもいいですよね」と問い掛けた。アイダンは分かっていないらしく、きょとんとした目でギゼムを見つめているだけだった。

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