第6話 おんまさんぱっかぱっか

 その日、ナーヒドは午後から出勤することにした。アイダンはまだ二歳だ。すでに二十五歳でおとなのギゼムを預かった時とはわけが違う。少し様子を見て、この家に馴れていくのを確認してから家を出ようと思った。

 アイダンはしばらく父親に置いていかれたことの衝撃ゆえかおかしな挙動をしていた。泣いたと思えば黙り、黙ったと思えば泣く。ギゼムがずっと抱いてあやしているが、いつまで経っても落ち着きそうになかった。

 喃語で何かを訴えている。しかしナーヒドとギゼムにはなかなか聞き取れない。一応自宅に帰りたがっていることは分かる。帰れないのだということを説明すると泣く。おとなの言っていることは伝わっているようだ。

 二年ほど前、ホスローが三歳で今のアイダンと同じくらいの大きさだった頃のことを思い出した。

 当時、ホスローはまったくといっていいほど喋らなかった。簡単な単語を口にすることはあったがそれもたまにのことだった。単語をつなげて文章にすることはなかった。おとなの言っていることも分かっているのかいないのか、顔は向けるので耳が聞こえているのは確かといった感じで、なかなかもどかしかったものだ。この子はこのまま一生喋らないのかと思った。

 ナーヒドの心配は杞憂で、ホスローはある時突然勢いよく滑らかに喋り出した。今となってはむしろよく喋る少し生意気なこどもだ。あとからテイムルの嫁に聞いたところ、男の子は女の子より言葉が遅れやすいとのことだった。親に必要なのは早々に諦めない忍耐なのだということを学んだ。

 こうしてアイダンを見ていると、ホスローは、言葉こそ遅かったが、むしろ扱いやすいこどもだったのではないかと思う。ホスローは基本的に機嫌がよく、話し掛けると微笑む、めったに泣かない子だった。今もそうだ。落ち着きがなくて大変だが、返事はするし、言って聞かせればとりあえず座る。

 一方アイダンは何をしても嫌がる。泣く。

 こどもに慣れないナーヒドは疲れた。かといって放っておくのもどうか。預かったのはナーヒドだ。

 ギゼムが包みからぬいぐるみを取り出した。薄汚れた、少し灰色のようにも見えるがおそらくもとは白かったのであろう、ずんぐりむっくりとした馬だ。

「はい、馬ですよ」

 アイダンが一瞬泣きやんだ。ぬいぐるみを抱き締め、「おんまさん」と言って頬擦りをした。

「おんまさん、ぱっかぱっか」

 歩かせているつもりなのか、ぬいぐるみをギゼムの肩に這わせる。ギゼムも「ぱっかぱっか」と繰り返して微笑む。

「なんだ、お前、馬が好きなのか」

 ナーヒドが話し掛けると、アイダンがようやく素直に「あちゃ、おんまさんすき」と答えた。

「では、見に行くか」

「おんまさんいくの?」

「うちにもいる」

 アイダンが腕を伸ばす。

「いく。だっこでいくの。おじちゃん、だっこ」

 仕方なく、ナーヒドはアイダンを抱き上げた。


 ナーヒドはアイダンを抱いたまま一階奥の家畜部屋に向かった。アイダンは馬のぬいぐるみを抱いたままおとなしくナーヒドに運ばれていた。ギゼムはその一歩後ろを黙って静かについてきていた。

 家畜部屋に辿り着くと、アイダンが「わー!」と声を上げた。

「おんまさん、ちゃいろなの」

「栗毛というのだ」

 うち一頭に歩み寄る。アイダンがナーヒドの腕の中から手を伸ばして馬の頬を撫でる。馬は何もせず黙って撫でられていた。

「おとちゃのおんまさん、くろなの」

 サヴァシュの愛馬を思い出した。

 アイダンの言うとおり、サヴァシュは黒毛の血統の馬を大事にしている。特に第二次タウリス戦役を一緒に乗り切った黒い牝馬ひんばを溺愛していて、自宅の家畜部屋で丁寧に世話をしていると聞いた。

「うちの馬の方が大きい」

 サヴァシュの馬はチュルカ馬と呼ばれる品種で、全体的に丸みを帯びている。体高は低いが筋肉質で、長時間の騎乗に耐え、力強い。長距離を移動する騎馬民族の馬だ。

 一方ナーヒドの馬はサータム馬と呼ばれる品種で、体格はすらりとしている。瞬発力があり、短時間に素早く駆けることに長けていた。体高は平均してチュルカ馬より高い。

 どちらがいい、というわけではない。理想は用途によって使い分けることだろう。本当は、必ずしも体高の高い馬がいいわけではないのだ。ただ、特に深い理由はなく、アイダンの前で張り合ってしまった。

「おっきいおんまさん……」

 アイダンがしげしげとナーヒドの馬を眺める。

「のる」

 ナーヒドは驚いた。

「乗りたいのか?」

「おんまさんのうえ」

 馬の背に手を伸ばした状態で、ナーヒドの腕を乗り越えようとした。思わず大きな声で「危ない」と言ってしまった。

「おんまさんのうえ!」

 手足をばたつかせる。じっとしていられない。

「……乗せてみるか」

 ナーヒドが呟くように言うと、ギゼムが慌てた様子で「いけません」と止めた。

「おちたらあぶないです……! アーちゃんまだ小さいですね、いけません」

 「それは分かるのだが」と頷く。

「チュルカ人でもこどもは馬に乗せないのか」

「五才で仔馬から始めます」

 アイダンはまだもうすぐ三歳だ。騎馬民族の子供でも時期尚早らしい。

 だがアイダンは「おんまさんのうえ!」と騒いでいる。

「これは……、ふだんサヴァシュの奴はどうしているんだ? 自宅ではこういうことはないのか」

「さあ……」

 するとアイダンが自ら「おとちゃといっしょのる」と答えた。

「おとちゃ、のるの。あちゃもいっしょなの」

「なるほどな」

 ナーヒドは一度ギゼムにアイダンを渡した。そして自らあぶみに足をかけ、馬にまたがった。ギゼムの方、アイダンに腕を伸ばす。ギゼムがアイダンをナーヒドに返す。

 ナーヒドが抱えた状態のまま、アイダンも馬の背にまたがらせた。

 アイダンが喜んで嬌声を上げた。

「こうでいいのか」

「おんまさん! おんまさん!」

 馬の上で飛び上がろうとする。慌てて抱き締めて落ちないように気を配る。

「ぱっかぱっか! ぱっかぱっか!」

「歩かせるのはさすがに無理だ、危ない」

「ぱっかぱっか……おとうちゃん……」

「待て、それはサヴァシュはやるのか?」

「ぱっかぱっかする……」

 馬の首にすがりつき、「おじちゃんのおんまさんぱっかぱっかしないの」と言われてしまった。ナーヒドは改めてサヴァシュという男の技術と覚悟を感じた。

 結局ナーヒドは馬を動かさなかった。

 アイダンはそのうち馬から興味を失った。代わりに「ごはん」と言い出した。

「おなかすいたの」

 言われてみれば昼食の時間だ。こどもは何を好んで食べるのかと思いつつ、一度ギゼムにアイダンを託してから、ナーヒドも馬を下りた。

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