第5話 サヴァシュに頼まれると断れない
それからしばらくギゼムはナーヒドの家に来なかった。
事情を知らない家来たちは当初ギゼムを気に掛けていたが、ナーヒドが「忘れろ」と言うと、追及してはいけない空気を察したらしい。すぐに誰も何も言わなくなった。
ナーヒドも考えないよう努めていた。
忘れてしまいたかった。関わったことすら思い出したくなかった。
しかし考えまいとすればするほどいろんな感情が湧いてきて心が乱れる。
女一人、それもたったひと晩の二言三言にここまで怒っているというのも恥ずかしかったが、ひとりでいるとどうしてもあの時の情景が浮かんでしまう。
おかげで必要以上に部下に当たってしまった。反省しなければならない。
そうこうしているうちに三日が過ぎ、もうこの件で煩わされることもないだろうと、ようやくそう思えた頃のことだった。
朝、出勤する前に身支度を整えていると、慌てた様子の小姓が部屋に駆け込んできた。
「旦那様、今玄関にお越しいただくことはかないませんでしょうか」
「どうした。すぐに仕事に出るところだが」
「それがお客様がお見えで」
「この時間にか」
ナーヒドを訪ねてくる人間は皆ナーヒドが蒼軍の隊長として働いていることを知っている。出勤前の慌ただしい時間に来ることはない。
「誰だ」
「サヴァシュ将軍です」
眉根を寄せた。
ギゼムの顔が浮かんだ。あの男が押し付けてこなければこんな不愉快な思いをせずに済んだのだ。
しかもこちらの都合を考えずにこんな時間に訪ねてくる。非常識極まりない。
一発殴りたい。
「対応する。玄関で待たせておけ」
小姓が「はっ」と頭を下げてから出ていった。
何をいかに訴えるべきか。
用事が済んだらすぐに家を出られるよう完璧に服装と髪形を整えてから玄関に向かった。大股で、怒りをあらわにした下品な歩き方になってしまったが、こらえることができない。
玄関に辿り着いた。
ナーヒドは眉間のしわをさらに深くした。
そこに立っていたのはサヴァシュ一人だけではなかった。寄り添うようにギゼムも立っていた。
その二人だけではなかった。
サヴァシュが腕に何かを――誰かを抱えている。
長い前髪を頭の頂点でひとつに結った幼女だ。
サヴァシュとユングヴィの娘だ。確か名をアイダンといった。半年前、
チュルカ人の民族衣装を着せられているが、サヴァシュの抱き方が悪いせいで裾がめくれ上がっている。下半身には袴などは身に着けておらず、下着が丸出しになっていた。娘を溺愛しているサヴァシュがこの子をこんなふうに扱うのは珍しい、よほど焦って抱えてきたものと見える。
アイダンと目が合った。
人見知りをするのかすぐに顔を背けて父親の首に腕を回した。サヴァシュがその小さな背中を撫でた。
どうも様子がおかしい。普段ならもっと軟派な態度で絡んでくるサヴァシュがいつもよりおとなしい。
「悪いな、忙しいところ」
ナーヒドは動揺した。こんなしおらしいサヴァシュなどめったに見られるものではない。
「急で申し訳ないがお前の手を借りたい」
「何があった?」
サヴァシュがアイダンを抱えたまま一歩分ナーヒドに近づいた。
ギゼムはその後ろでやはり珍しく笑みを消して深刻な顔をしている。
よく見ると彼女は大荷物を抱えていた。丸く膨らんだ包みは硬そうではない。おそらく衣服が入っているものと見える。
サヴァシュはすぐには答えなかった。一度言いにくそうに口を引き結んでから、静かに告げた。
「ユングヴィが調子を崩して子供と一緒にいられる状態じゃなくなった」
「調子を崩した? 具体的に、何だ? 病気か」
「まあそんなようなもんだ。詳しいところはご想像にお任せする」
ナーヒドは顔をしかめて「ふざけるな」と言った。
ユングヴィの体調や育児の状況は十神剣としての都合にも直結する。時は
加えて、母親である以上は自らの手で幼児を養育すべきだ。よほどのことでない限り子供と別れることなどありえない。
しかしサヴァシュは答えなかった。
「今は説明できない。とりあえず今のあいつに子守はできないし俺もしばらくあいつと二人きりの時間をもちたい」
そして懇願するように言うのだ。
「頼む。今は何もかも無理だ。詮索しないでくれ、俺たち夫婦を放っておいてくれ」
ナーヒドはたじろいだ。
「とりあえず、話は聞いてやる」
ここで拒否したら自分が冷血な人間であるような気がした。
「俺は何をすればいい?」
「アイダンを預かってくれ」
「アイダンを? この子をか」
「そう。あとギゼムも。というか基本的にギゼムが世話をするからこの家に二人を置いておいてくれればいい」
サヴァシュが言うと、ギゼムがぎこちなく頭を下げた。
忘れようとしていた矢先のことだ。
「なぜこの女を?」
「アイダンが家の人間以外で一番なついている人間だからだ、それ以上に深い理由はない」
ギゼムが「すみません」と小さな声で言う。
「わたしほかに行くところがないです、しりあいがいなくて、ここがいちばんなれているので――」
そこまで言うと、ふたたび「ごめんなさい」と頭を下げた。
事情が呑み込めないが、とにかく、何か非常事態が起こっている。関わりたくないと言って拒めば事態はもっと悪化する気がする。
それに、何より、あのサヴァシュに頼まれているのだ。
誰よりも何よりも強い彼が、他でもなく自分を、頼ってきているのである。
「……分かった」
ナーヒドは、頷いた。
「まあ、うちは広いし、下女には子供に慣れている者も多いからな」
「助かる」
サヴァシュが自分の首からアイダンを引き剥がした。両方の脇腹を押さえて、宙づりになる形で抱えてナーヒドの方に差し出した。
アイダン本人は、何が起こっているのか分からないという顔で、きょとんとしている。
「受け取ってくれるか」
「抱けばいいのか」
「そう。左腕の上に尻をのせて、右手で背中を軽く押すみたいに抱えてやってくれ」
言われるがまま、受け取った。
背中を、そっと、撫でる。
柔らかくて、温かくて、軽かった。
しかし、サヴァシュが手を離した瞬間だ。
火がついたように泣き出した。
「いやーっ! おとうちゃあ!」
「いい子にしてくれ、頼む」
「やだーっ! おとちゃ、おとちゃ」
暴れ出した。一瞬落としそうになって肝を冷やした。
力を込めて、潰さないよう気を配りつつもできる限り強く抱き締めた。
小さな拳で肩を何度も叩かれる。
「ナーヒドおじちゃんの言うことをよく聞いてな」
「おじちゃん!? 貴様どさくさに紛れてなんということを」
この間もアイダンはナーヒドの腕を逃れようと全身全霊を込めてナーヒドの胸を押している。三歳にもならない幼児の力だが想像よりは強い。気をつけなければ離してしまいそうだ。
「落ち着き次第迎えに来る。できれば二、三日で。とりあえず俺はユングヴィと自宅にいる、まめにひとをよこして連絡を取り合えるようにしておくから」
アイダンを抱え直し、彼女の小さな頭を自分の肩に押し付けさせた。アイダンが「やだーっ、やだーっ」と叫び続けている。
「他の子供はどうした。ホスローは?」
「ホスロー含め手伝いの女たちの息子も全員テイムルの家に預けた。テイムルの家が子供、それも男の子ばっかりでいっぱいになっちまった。娘たちも黒軍の身内のところにやって今家にはユングヴィと手伝いの女たちしかいない」
そこまで説明すると、「帰る」と言って踵を返した。
「今のあいつをひとりにしておけない」
あまりにも深刻そうで引き留められなかった。ナーヒドはアイダンを抱えたまま「分かった」と言って見送った。
サヴァシュが小走りで出ていく。
サヴァシュの姿が完全に見えなくなると、アイダンが声を上げるのをやめ、目を真ん丸にしてしゃくり上げた。
「おとうちゃ、あちゃん、ぽいってした」
彼女が「ぽいした、ぽいした」と繰り返す姿は哀れで、ナーヒドは必死に頭を撫でて「捨てたわけではない、大丈夫だ、すぐ迎えに来る」と言うはめになった。
「おい、何があったんだ」
ギゼムに問い掛ける。ギゼムが沈痛な面持ちでうつむく。
「サヴァシュさんに言うな言われています」
「それこそ、そんなことを言っている場合か? 子供を放り出すような緊急事態なのか? ユングヴィに何があったんだ」
アイダンが「おかあちゃ?」と呟く。
「あかちゃんないない」
一気に胸が冷えた。
「あかちゃん、ぽい」
ギゼムが慌てた様子で「アーちゃん」とたしなめる。アイダンが言ってはいけないことを言ってしまったのに気づいたらしく硬直する。
ナーヒドはもうそれ以上何も言わなかった。追及しないでおこうと思った。時期がくれば説明があるだろう。もし本当にそうであるならずっと隠し通せるわけではないのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます