第4話 月の美しい夜なので

 一週間も経つとギゼムの存在が日常になってしまいナーヒドはもはや何も思わなくなった。


 書斎にこもり、文机に向かった状態のまま、ぼんやりと窓の外を眺める。


 晩夏の夜は少し肌寒い。もう羽織るものが必要かもしれない。


 夜空という漆黒の紙に描かれた三日月は綺麗な形をしている。

 ふと、この月をさかなに一杯やるのも一興かと思った。しかし自分がそんな風流なことをするのはどうもおかしい気がしてやめる。


 こんな時に、誰か気軽に酒をともにできる人間があれば、と思うことがある。

 テイムルが所帯を持ってから私用での人間との交流が激減した。


 あるいはここにフェイフューを呼ぶのはどうか。彼がここにいた頃はまだ子供だったので控えていたが、彼ももう十五の成人を過ぎ、あと半年もすれば十六歳になる。体格はずいぶんと育って身長はすでにテイムルやサヴァシュと同じくらいだ。そろそろ一緒に酒盛りをすることも考えていいのではないか。


 十六歳――次のアルヤ王の即位式だ。


 溜息をついた、その時だ。


「だんなさま」


 後ろから――部屋の出入り口の方から声を掛けられた。


 振り向き、戸の代わりに使っている衝立の方を見る。


 衝立の上に顔を出すようにして、ギゼムが部屋の中を見ていた。


「まだ帰っていなかったのか」

「はい。今日はおゆうはんないです」


 普段は夕飯の前に帰宅することになっているのだ。


 いつぞやの十神剣会議で、ユングヴィが、家事が面倒臭くなった日は使用人たちを解散させてサヴァシュと自分の子供と適当に中央市場へ食べに行く、と語っていたのを思い出した。何があっても一家の主婦として家の人間全員分の食事を用意すべきだと叱って聞き流された。あまりにも責任感がない。


 日はとうに暮れている。この時間から女が一人で市場に行くというのは常識的なことではない。ここで放り出すのは雇い主として非情かと思い、「そうか」と頷いた。


「うちで食べていけばいい。厨房に行けば何か残り物があるだろう」

「はい。ありがとうございますです」


 しかし、ギゼムは立ち去らなかった。なぜか「入ってもいいですか」と問われた。いぶかしみつつ、「構わんが」と答えた。


「何か用か?」

「いいえ、とくべつ何かではないですが」


 衝立をのけつつ、「おしごとですか」と訊ねてくる。


 ナーヒドは自分の肘の下を見た。そこに一冊の筆記帳ノートが広げられていた。


「仕事、では、ない」


 日記帳だ。


「……いや、仕事のようなものか」


 誰かにやれと言われたわけではないが、ナーヒドは毎晩帳面にその日あった出来事を記入するようにしていた。高貴な身分の者として、高位の武官として、日々の記録をつけていくのが務めである気がするのだ。


 日記、といっても、私的なことはほとんど書かない。だいたい昼間の仕事の業務内容を箇条書きにしていて、日記というより日誌と言う方が正確である気もした。家の中で事件事故が起これば書いたかもしれないが、ナーヒドの家に勤める使用人たちは皆家事の玄人のようなものでそんなに頻繁に何か起こるわけではなかった。


 この日記という名の記録は代々の蒼将軍の慣例のようになっていて、この書斎の隣にある書庫には、先代、つまりナーヒドの父親のものや、先々代、ナーヒドの祖父のものも残っている。そして先の代の者が死んだ時――神剣と将軍の位が息子に継承される時、膨大な日記もともに引き継がれる。一種の手引書ともいえる。


 ナーヒドは、蒼将軍になったばかりの頃、エスファーナ陥落後に父の記録にひととおり目を通した。やはりほとんどは蒼軍のことだったが、父は時々ナーヒドのことを書き残していた。


 一日に一行ずつ、最後に付け足していくのだ。


 今日、初めて歩いた。今日、初めて父上と言った。今日、初めて用便を主張できるようになった。今日、初めて文字を読んだ。今日、初めて一人で馬に乗った。今日は手習い所に行き――今日は軍学校に行き――今日は軍隊に入り――


 ナーヒドを養育したのは基本的には伯母、実母の姉でありテイムルの母親である女性だ。ナーヒドの父親もナーヒド同様仕事で忙しく、特に幼少期は思い出らしい思い出はない。


 だが、ナーヒドの父親は、たった一人の自分の後継者であり亡き妻の忘れ形見であるナーヒドを常に気に掛けていて、成長を楽しんでいたのだ。


 自分は愛されて、大事にされて育った。


 さて、自分は誰のために日記を書いているのだろう。この日記は自分の死後誰が読むのだろうか。


 いつの間にか、ギゼムが自分の隣に座っていた。


「何を書いていたですか」


 それでも日記は日記だ。見られて恥ずかしくなる内容ではないが、それとなく手で文面を隠して「業務記録だ」とごまかした。


「お前は読み書きはできるのか」


 ギゼムが「はい」と微笑む。


「話すはきかいがなかったですからむずかしいでしたけど、読む、書く、アルヤごができないと、せいじのべんきょう何もできないですね」


 ナーヒドは感心した。チュルカ平原でも王族は書物を読んで勉強するのだ。それもアルヤ語で、となるとかなり高度なことを学んでいたのではないか。


 女が学問をするのは悪いことではない。女には子を育てる務めがある。家の後継者である息子を育てるにあたって、最低限の教養として身につけているべき知識というものはある。


「アルヤ語ができないと政治の勉強が何もできない、か」


 ナーヒドを育んだアルヤ民族の歴史が、チュルカ平原の女に学問をさせたのだ。


「もうおわりですか」

「ああ、今日はきりがいいのでもう終わりにする。俺は寝る、明日も仕事だからな」

「そうですか」


 ギゼムが少し、膝を寄せてきた。

 距離が近い。


「……何だ?」


 長い睫毛が月光を受けて目元にわずかな影を作っている。その黒い瞳はほんのりと潤んでいて熱っぽく見える。


 手が伸びた。

 手首にまとっている銀細工が、しゃらん、と鳴った。


 文机の上に置かれていたナーヒドの大きな左手の上に、ギゼムの長い指のついた右手が、重なった。


「おなさけを」


 一瞬、何が起こったのか分からなかった。何を言っているのか、何を言わんとしているのか、想像がつくまでに時間がかかった。


 変な沈黙が場を支配した。何か言い知れぬ微妙な空気が流れていく。

 武家屋敷街は今日も静寂に包まれていて、何の音も聞こえてこなかった。


 ギゼムの小指が動いた。

 皮膚の上を、軽く、なぞった。

 背中の産毛が、ぞわり、と逆立った気がした。


 振り払った。


 立ち上がった。


 ギゼムを見下ろす。

 彼女は目を真ん丸にしてナーヒドを見上げていた。ナーヒドがなぜこういう態度になったのか想像がついていない顔だ。


 チュルカ平原ではこういうことが平然と行なわれているのだろうか。なんという蛮行だろうか。不道徳で非常識だ。まともなアルヤ人の女であれば絶対にありえないことだ。


「失せろ、痴れ者が」


 ギゼムはまだきょとんとしている。


「けがらわしい……! 自分が何を言っているのか分からないのか!?」

「いいえ、」


 自分の左手で、自分の右の手の甲をさする。ナーヒドが振り払った時に叩いた場所だ。


「月のうつくしいよるなので。おそばにはべらせていただけたらと――」

「この淫乱!」


 頭に血がのぼった。大きな声が出てしまった。


「すぐにこの家から出ていけ! 貴様の顔など二度と見たくない!」


 そこまで言うと、さすがにナーヒドが怒っていることを理解したのだろう。ギゼムは無言で立ち上がり、そそくさと部屋を出ていった。


 階段を駆け下りる足音を聞いてから、その場に崩れ落ちるようにして膝をついた。


 何が目当てなのだろう。金だろうか。家だろうか。とにかく不愉快な思いをした。もう二度とこんな目に遭いたくない――心からそう思った。


 しょせん蛮族は蛮族なのだ。




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