第11章:草原の狼の娘と蒼色の鷹

第1話 また一緒に飲もう

「サヴァシュとギゼム姫、婚約解消だってさ」

 テイムルが夜半急に訪ねてきた。このご時世だ、何かあったのかと思い覚悟して受け入れたが、どうやらサヴァシュとユングヴィの家に行った帰りに何となく寄っただけらしい。

 ナーヒドの家とサヴァシュの家、ついでに言うとテイムルの家も、エスファーナの高級住宅街、武家屋敷の並ぶ地区にあるのでさほど離れていない。ただ、ナーヒドとサヴァシュの間に私的な交流がないので、サヴァシュの家の帰りにナーヒドの家に寄る、という発想がナーヒドにはなかった。

 ナーヒドとテイムルは母親同士が姉妹だ。家も近所である。生まれた時から実の兄弟だと思って親しく付き合っている。

 幼少期は、基本的には父一人子一人だったナーヒドの方が伯母であるテイムルの母親に預けられることの方が多かった。だが、テイムルがナーヒドの家に宿泊することも当然行なわれていた。成人して十何年もする今となっても、彼はここを自分の家のように思っているらしい。

 前触れなく来て、勝手に酒を開け、夜更けまでナーヒドと喋る。

 双子の王子たちが成人して以来何かと慌ただしくて絶えていたが、去年まではひと月に一度くらいの頻度でやっていたことだ。

「は? 本気か」

「本気らしい」

 テイムルが野菜の酢漬けと干し肉をつまむ。急いで使用人に用意させたさかなだ。

「婚約が決まってからまだ一週間ほどしか経っていないだろう? 何がどうなってそうなった」

「ひとの家のことだから僕もどこまで喋っていいのか分からないんだけど、簡単に言うと、やっぱりサヴァシュが嫌だったらしい。この一週間ギゼム姫とあちこちを歩いて、外を見ながらギゼム姫と今後のことについて話をしているうちに、ギゼム姫を外に出そうと決めたみたいだ」

「外に出す、とは?」

「王国について、社会勉強、みたいな?」

「分からん」

「まあ、本人たちがそうしたいと言うんだからいいんじゃない?」

 テイムルの手元の酒杯が空になったので、ナーヒドは葡萄酒を注いでやった。紅色のしずくが揺れ、芳醇な香りが漂った。

「それでギゼム姫の方はいいのか」

「いいらしいよ。むしろすっきりした顔をしていた。今後のことについてあれこれ思いを巡らせて明るく楽しく前向きに考えている様子だった」

「女一人で何をする気なんだ」

「何なんだろうね。一応サヴァシュとユングヴィが最後まで責任をもって世話すると言っているので僕はもう口を挟まないことにした」

 ナーヒドも干し肉を噛み千切る。

「分からん。まったくもって理解できん」

「別に無理して理解する必要はないよ、ひとの家のことだから」

「だいたい結婚について決まったのも急で何を考えているのかと思っていたところだったのだ。このご時世に、子を作ったかと思えば、別の女と結婚とは――ふざけた男だ」

「それは、僕はいいと思うけどな」

 一口含んでから、「むしろちょっとありがたかった」と呟くように言う。

「どのみちギゼム姫を一人で放り出すわけにはいかないでしょう。グルガンジュ王国の王女だよ? 女性であるギゼム姫本人には王位継承権がなくても、男の子を産んだりしたら分からない。あるいは――行き先がなくて女郎にでもなったりしたら。チュルカ人の王女を売春婦にしたアルヤ王国、という、とんでもない悪名が出来上がるわけでさ」

「まあ……、それは、そうだが」

「十神剣は国の宗教の頂点だからね、体裁はいいよ。そのままサヴァシュの家に入って出てこないでくれれば万々歳だった」

 そして、少し視線を逸らす。

「今後の展望についても、話をじっくりと聞いたけど。ちょっと無茶かな、と思わなくもないけど……、こんなご時世だからこそ、挑戦する価値はあるかもしれないな、とも、思わなくもなく……、そこはまあ……、やれるなら頑張ってほしいというか……、僕は関わりたくないけど、勝手にやってくれるなら遠くから見守ろうと思って」

「……何だ、はっきり言え」

「確かに、サヴァシュの思惑どおりすべてがうまく運ぶのなら何もかも丸く収まるし、本音を言うと僕自身もすごく気が楽になるし、間接的にフェ――殿下がたお二人にとってもいい勉強になる気がしたから、僕は目を伏せるよ」

 固い笑顔で「そう、見なかったことに、聞かなかったことにする」と頷く。「どういうことだ、説明しろ」とにじり寄る。「あー、うん、いつかサヴァシュから聞いて」と言って逃げる。深追いは無駄だ。テイムルは飲んでも機密事項は吐かない男だ、明確な答えが返ってくることはないだろう。

「なぜそういう家の中の微妙な話題をお前には話すのだろうな。ひとを巻き込まずに自分たちだけで家の中を片づけられないのか」

「僕が十神剣のすること全部に首を突っ込まないといけない立場だから顔を立ててくれたんじゃないかな。十神剣が何かをする時保証人やら身元引受人やらは全部白将軍に回ってくるんだ。サヴァシュが結婚するとなったら誓約書に僕も署名するんだよ」

 失念していた。十神剣として、白将軍に話を通すのは道理だ。サヴァシュもやっと自分の身分を理解し始めたものと見える。そこだけはいつまでもテイムルを自分の弟だと思っているナーヒドの方が改めねばなるまい。押し黙る。

「ついでに、僕とサヴァシュは家庭状況も似ているからね。最初の結婚の時期はほぼ一緒、妻の人数は両方一人、一人目の子供の年齢は一年も違わない。うちのクバードとあそこのホスローは仲がいいんだ、今日もホスローは午前中うちで遊んでいたらしいよ」

 クバード、というのはテイムルの第一子、長男の名である。

 ナーヒドは本格的に何も言えなくなってしまった。

 ナーヒドに家族はいない。この広い邸宅に少数の住み込みの使用人がいるだけだ。近しい血縁はテイムルとその家族しかなく、そしてそれは白将軍家であり蒼将軍家ではない。けしてナーヒドのものとは言えなかった。

 妻がいるとは、子があるとは、そんなに変わるものだろうか。別の世界に隔たってしまうくらい人生が激変するのだろうか。こうしてテイムルと二人で飲んでいると何もかもまだ十代だった頃と変わらないように感じるのに、自分とテイムルよりテイムルとサヴァシュの方が近いのだろうか。

 自分は何をしているのだろう。

 クバードがテイムルの神剣と真面目に会話しているところを見掛ける。次期白将軍確定だ。将来は安泰だろう。

 次の蒼将軍はどうなるのか。

 今ナーヒドが死んだら、後に、何も、残らない。

 果てのない、真っ暗な闇の中に放り出された気分だ。

 今年の冬で三十二歳という事実が重く口から出すこともできない。

「ユングヴィの言うことも一理あってさ」

 今度はテイムルがナーヒドの酒杯に酒を注ぐ。

「うちの家内みたいに、実家が安定していて、本人も貴人の家で奉公した経験を持っていて、というのなら、独身でやっていくこともできなくもないと思うけど。僕は、女性が女性だから何もできない、とは、思っていないので。でも、身寄りのない、特にこれといった学歴や職歴もない女性が、できること、となったら――と思うと。金のある男がめとって養うのはある種の義務だよね」

 「本当は僕もあと二、三人と結婚するべきなんだろうけどね」と苦笑する。

「僕は無理だなあ。何せソウェイル殿下のことで頭がいっぱいで一人目である家内のことも大事にしてやれない。毎日休みなく仕事して帰宅したら子供の寝顔を見るだけ。そんな男が二人目三人目の妻なんてさ」

 しかしナーヒドはその一人目もいないのである。

「金のある男が娶って養うのは義務、か」

 自分は貴族男性としての義務を果たしていないわけだ。

 ナーヒドが沈黙したのに気づいていないのか、テイムルは話し続ける。

「――こんなご時世だからこそ」

 今日は、酒の減りが早い。

「七ヶ月後――アルヤ王が決まったあと。僕らは、今と同じ生活を続けられる、とは、限らないんだ。いや……、もしかしたら、明日でさえ。イブラヒム総督は、十神剣の分裂を狙っているはずだから。将軍である僕と兄さんがこうして飲む日が次にいつ来るかは、分からない。――永遠に来ないかもしれない」

 葡萄酒の香りはいつも飲んでいる銘柄と同じなのに、

「サヴァシュとユングヴィが今三人目を作ったことには、あの二人の間には、意味があるんだと思うよ」

 そして、彼は、たっぷり間を開けてから言った。

「……ちょっと悩んでいたけど、言わせてくれる?」

「何をだ?」

「うちも。この前、家内の妊娠が分かって」

 ナーヒドは目を丸くした。

「四人目だ」

 テイムルは、苦笑していた。

「女の子を欲しがっていたからさ。上三人が男の子だから、今度こそ女の子だといいね、なんて言ってね」

「お前……、」

「ごめん。でも我慢できなかった」

 「僕は不安だよ」と吐き出す。

「兄さんには悪いけど僕はソウェイル殿下を王にするよ。ソウェイル殿下は立派な王になってくださると信じている。けれど王国のすべてが黙ってソウェイル王に従うとも思っていない。僕はソウェイル王に矢を向ける人間をどうするんだろう。毎晩毎晩変な夢を見るよ」

 ナーヒドは酒杯を置いた。

「もう帰って寝ろ」

「そうだね、申し訳ない。変なことを口走ったよ」

「少しでも嫁といてやれ」

「うん、そうする」

 テイムルも、酒杯を置いた。

「テイムル」

「なに?」

「どちらが王になっても。四人目が無事に生まれたら、祝い酒に百年物の葡萄酒を買ってやる」

 テイムルが力なく笑った。

「ありがとう。また一緒に飲もう」

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