第8話 お父ちゃん何とかして

 オルティが中庭でホスローをはじめとした男の子たち三人と相撲を取って遊んでいたところ、玄関の方から耳をつんざく泣き声が聞こえてきた。

 驚いて駆けつけた。

 泣いていたのはアイダンだった。サヴァシュとユングヴィの長女で二歳半になる女の子だ。兄のホスローとは違って父親そっくりのいかにもチュルカ系の顔をしており、北方部族風の刺繍の入った服を着せられ、まだ細い髪を頭の頂点でひとつに結わえている。

 泣き喚くアイダンをギゼムが抱えている。アイダンはギゼムの腕から逃れようと全力でもがいている。ギゼムのすぐ傍にユングヴィが立っていて、「だいじょうぶ、だいじょうぶだから」と言ってアイダンをなだめようとしているが、アイダンはまったくユングヴィを見ようとしない。

「どうした? 何だと言って泣いているんだ?」

 ユングヴィとギゼムがこちらを向いた。とたんアイダンがギゼムの腕を逃れて外へ飛び出そうとした。ギゼムが慌ててアイダンを抱え上げた。

「やら、やらぁあ! あちゃとちゃとこいくーっ」

 何を言っているのか分からない。アルヤ語の幼児語だろうか。ギゼムもきょとんとしている。

 ユングヴィが腕を伸ばして、ギゼムからアイダンを受け取った。

「だいじょうぶ、すぐ帰ってくるから」

 アイダンは納得せず「あちゃとちゃとこいく、あちゃとちゃとこいく」を繰り返している。

「アイダンは何と言っている?」

 問い掛けると、ユングヴィが苦笑して、「アーちゃんはお父ちゃんのところに行く、なんですよ」と答えた。

「私がこの子のことをアーちゃんと呼ぶんで、自分の名前をアーちゃんだと思ってて」

「そうか、あちゃの部分が自分のことなのか」

 まだ三歳前の幼児とはいえ身重のユングヴィには重いだろう。代わりに抱き上げようと思って腕を伸ばした。思い切り振り払われてしまった。

 かといってユングヴィがいいわけでもないらしい。背中をのけぞらせて「やーっ、やーっ」を繰り返している。

「あちゃとちゃとこいくのーっ、とちゃ、あちゃのおとちゃ」

「あーこりゃもうお父ちゃんじゃなきゃ絶対だめなやつだ」

「あちゃおとちゃがいいーっ、おとちゃあ」

「そうかいそうかい、お母ちゃんじゃだめかい」

 涙に濡れた頬を撫でた。すると、オルティに触られたくなかったのか、ユングヴィの服の肩に顔を埋めて泣き出した。少し悲しいものがある。

「お前はお父ちゃんが大好きなんだな」

「そうなんですよ、この子、本当にお父さんっ子で、お父ちゃんじゃなきゃ絶対嫌なんですよ」

 そういえば、昨日の夕飯の時もサヴァシュにべったりくっついて離れようとしなかった。きっとふだんからあんな感じなのだ。

「また私がうっかりもうすぐお姉ちゃんになるんだよとか言っちゃったから、自分より小さい生き物が生まれて構ってもらえなくなるって察して、赤ちゃん返りをしてるみたいで……」

「なるほど」

 後ろを振り向いて男の子たちの方を見た。男の子たちは薄情にも知らないふりをして家の中の方へ駆けていってしまった。

「なんだかなあ、なんで私じゃだめなんだろう。自信なくしちゃいます……」

「小さい子、むずかしいですね。二才、そういうものですね」

「上のホスローはぜんぜん手がかからなかったんだけどなあ」

「ホスロー、とくべつですね」

 この間もアイダンは「いや、いや」と叫びながら泣き続けている。そのうち力尽きてしまわないか心配になる。

「毎日こんな感じなのか?」

「いや、黒軍で普通の仕事がある時は連れて出勤するんですよ。この子はおしめが取れたのが早くて、もう半年くらい前からかな? 一緒に黒軍の集会所に行くんです。お父ちゃんはずっと一緒だし、黒軍のお兄さんお姉さんにはちやほやしてもらえるし、私も世話してもらえるのはありがたいと思って気軽に預けてた――から、こんなことに……」

 屈強なチュルカ人の軍人奴隷ゴラームたちに囲まれて機嫌が良さそうにしているアイダンの姿を想像した。この娘はきっと大物になるだろう。

「そんなに溺愛しているのか……」

「そう、うちのひとはこの子を目に入れても痛くないんです」

 サヴァシュは今日朝早くから宮殿に出掛けた。オルティが王子たちに会いたがっていることを王子たちの世話役である近衛隊の隊長に相談してくれるとのことだった。

 サヴァシュが言うには、うまくすれば明日にでも会えるかもしれないらしい。

 こんなとんとん拍子で話が進むのかと思うと驚いてしまうが、二人は多数決のために一人でも多くの人間と会おうとしている。加えて、王子たちはこれを機にオルティだけでなくサヴァシュとも話をすることになるかもしれない。サヴァシュは十神剣として王を決めるための票を持っている。オルティをどう扱うかによってはサヴァシュの態度も変わる可能性がある。双子にとっても重要なことのはずだ。

 朝食を食べた直後のアイダンは機嫌が良かった。ギゼム相手におままごとをして粘土の野菜を並べていた。まさかそうして遊んでいるうちに父親に置いていかれるとは思っていなかったのだろう。家のどこを探しても父親がいないことに気づいて、こうなってしまったのである。

「おとうちゃあーっ」

 アイダンがユングヴィの肩を叩き始めた。ユングヴィが「痛い、痛い」と苦笑した。

「もー、お父ちゃんもしかしたら議会の偉いおじさんたちに会ってるかもしれないから、我慢して。アーちゃんは議会のおじさんたちこわいこわいでしょ」

「やらの、あちゃ、おとちゃいっしょいい。いっしょいく」

 ギゼムが腕を伸ばして、「だっこかわるですね」と言ってまたアイダンを抱き上げた。アイダンは不承不承の顔をしていたが今度こそおとなしくギゼムに抱きかかえられた。ギゼムの腕の中でしゃくり上げる。表情こそまだ面白くなさそうではあるものの、とりあえず暴れなくはなった。ギゼムには多少なついていると見える。おそらく強い戦士の女であり全身に銀細工を身につけているギゼムから父親との共通点を見出しているのだ。アイダンの細く短い指がギゼムの耳飾りを弾き始めた。

「お母ちゃんとしてはお父ちゃんが誰かに言われなくても自分から働きに宮殿に行ったことを喜んでほしいんだけど、二歳には分かんないよなあ」

 ユングヴィが自分の頭を掻く。

「もうほんと、うちの人が真剣に仕事に行くのめっちゃ珍しいんで、帰ってきたら褒めてやってください」

 ギゼムがアイダンの背中を叩きながら「またまた」と笑った。ユングヴィは目線を斜め下に落として「いや本気であの人戦争がないと何もしないんで……」と呟いた。

 不意にアイダンが顔を上げ、遠くを見た。急に何かの天啓を受けたかのように真面目な顔になった。どうかしたのかと思って見守っていると、ギゼムの腕をするりと抜けて地面に降り立った。

「アイダン」

 玄関の外へ一目散に駆けていこうとする。三人がかりで止めようとしたが追いつかない。

 このままでは外に出てしまう――危険だ。

 そう思って胸が冷えたが、

「おっ、熱烈なお出迎えだな」

 門の向こう側にサヴァシュの姿が見えた。何のこともないようにアイダンを軽く抱き上げた。

 アイダンがやっと落ち着いた様子を見せた。サヴァシュの首に額を寄せ、小さな歯を見せて笑った。

「あっ、おかえり! 待ってました!」

 ユングヴィも小走りでサヴァシュに近づく。オルティとギゼムも彼女に続いてサヴァシュの傍へ寄った。

「やっぱりお前におかえりと言われると気分が上がるな。お前、子供が生まれて仕事に復帰しても俺より先に帰ってくるようにしろよ」

「あんたが毎日私より遅くまで働けばいい話じゃない?」

 ギゼムが「お父さんかえったですね、よかったですね」とアイダンに微笑みかける。アイダンが「うん」と言って笑みを返す。

「あちゃのおとちゃ」

 サヴァシュが大きな手でアイダンの小さな頭を撫でた。

「とりあえず話つけてきたぞ。予定どおり明日の午前中に双子と会えることになった」

「ありがたい……! どこに行けばいい?」

「蒼宮殿の大講堂だ。俺が案内する」

 言いつつユングヴィの方を見て、「お前も一緒に来い」と言う。ユングヴィが握り拳を作って「おう!」と答える。

「大講堂? 大きな広間か? なんだか大掛かりになったな」

「そう、大掛かりになった。俺は一回一緒に飯でも食えればいいかと思ってたんだが、想像の一万倍くらい大袈裟なことになった」

 嫌な予感がしてオルティは顔をしかめた。それでもサヴァシュの表情は変わらない。最初は何事にも動じないという戦士の美徳の表れかと思っていたのだが、ひょっとしたら、何が起きても事の重大さが分からない気質なのかもしれない。

「イブラヒム総督が、今から貴族院議員や軍の高官や今エスファーナにいる十神剣をひととおり呼んで、双子を揃えて対チュルカ平原政策について語らせる討論会を開いてくれるらしい」

 頭の中で雷鳴の轟く音がした。

「……えっ、なっ、えっ?」

「なんでか国規模まで話が進んぢまった」

 「派手になったなあ」と言う声には緊張感がなく、

「俺はそこまでしてくれとは頼んでいないのだが!?」

「いいだろ別に。アルヤ王国の政治のど真ん中をいっぺんにまとめて見れるぞ。僥倖僥倖」

 ユングヴィが「なんでそんなとこに私も行かなきゃいけないの!?」と叫んだ。分かっているのかいないのかアイダンが「あちゃもいくーっ!」と声を上げた。サヴァシュはひょうひょうとした様子で「さすがにアーは留守番してくれ」と言いながら一人家の中へ向かって歩き出した。

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