第2話 アルヤ王国の酒

 グルガンジュはチュルカ平原のほぼ南端にある都市だ。沙漠を西へ向かって進むとアルヤ王国の東部州に至る。州都メシェッドへは、オルティとギゼムの騎馬の技術であれば、本来は四、五日程度の道のりのはずだった。

 しかし、オルティはあえてゆっくり進んだ。

 まず、替えの馬がいない。二人は脱出した時に騎乗していた馬を大事に乗らなければならなかった。井戸や草野を見つけるたびに休みを入れ、馬を潰さぬよう細心の注意を払った。

 次に、今は灼熱の夏だ。春分の日を一月一日とするアルヤ暦で言うと第四の月ティールの半ばで、夏至を超えていくばくか、沙漠にはあちこちに動物の白骨死体が転がっている。こんな季節の真昼の炎天下に馬を進めるのは正気の沙汰ではない。

 それから、ギゼムだ。

 彼女は逃げると決めるや否や幕家ユルタに戻って着替えてきた。防具を捨て、ありったけの銀細工を身につけたのだ。チュルカ人の娘が嫁に行く時の財産一揃いで、少しずつ売って金に換えれば何年かは暮らせる。武具のほかに何も持たずに城から出てきたオルティはギゼムの配慮に感謝した。

 しかしこの銀細工一式が重い。耳飾り、こめかみ飾り、首飾り、腰飾り、胸飾り、背中飾り――総重量はギゼムの体重の半分に達する。

 いくらギゼムでも、昼夜の別なく寝る時も外さずにこの銀細工一式を身につけたままで、真夏の暑い中何日も馬での移動、となれば、さすがに衰弱する。それでも彼女は気丈に振る舞ったが、オルティは彼女が倒れてしまわぬよう気を使わなければならなかった。

 いくつかの小さな緑地オアシスを経由してようやくメシェッドに辿り着いた。グルガンジュ王国が滅亡してから七日後のことだった。


 メシェッドはアルヤ文化圏の中でもとりわけ古い都市の一つだ。砂漠に咲く一輪の薔薇と謳われる百万都市エスファーナ、難攻不落と謳われる城砦都市タウリスに次ぐ、アルヤ王国第三の規模の都市である。いにしえの宗教の聖地でもあり、王国じゅうから巡礼者が集うという。経典の都メシェッド――宗教と文学が栄えた文化的な都市だ。

 オルティとギゼムはさぞかし賑わっているだろうと思っていたが、実際に辿り着いたメシェッドは静かだった。街全体が白黒の印象だ。通りを歩く人々はうつむき、軒下の店も活気がない。巡礼者が多いだけあって住民たちはただの旅人のふりをしているオルティとギゼムに冷たくはないが、何とはなしによそよそしさを感じた。

 夜は下町の安宿に泊まった。アルヤ王国民の定住チュルカ人が経営する宿屋だ。市場で宿を探していた時に客引きでつかまったのである。

 宿屋の主人は、何代も前からアルヤ王国で定住していて、もはやアルヤ語しか会話できなくなっているのだそうだ。しかしだからこそ草原で父祖伝来の暮らしをしているチュルカ人に憧れるらしい。オルティは、後ろ髪を一本の長い三つ編みにしていて、前髪も小さく編み込んで横に流しており、上着デールを着込んでいる。ギゼムは、腰を越えるほど長い髪を数本の三つ編みにしており、全身に銀細工を身につけている。宿屋の主人からしたら古いチュルカの伝統を守る草原の誇り高き民だ。グルガンジュという都市で生まれ育ったオルティからすると少し違和感はあるが好意を受けるのは悪くない。

 宿屋の主人に乞われて、ノーヴァヤ・ロジーナ帝国の侵攻を受ける前の華やかだったグルガンジュの様子を語った。自分たちがハンの子供であることは伏せたまま、城と城下町を自慢した。チュルカ系の遊牧文化とアルヤ系の緑地オアシス文化が混ざった国際都市グルガンジュは、チュルカ平原の中ではとびきり豊かな都市だった。

 語り始めた時はオルティもふるさとを自慢できて楽しかったが、だんだんそのふるさとがロジーナ人に奪われたことを実感してきて悲しくなってしまった。

 オルティが失った故地を思って落ち込んでしまったことを察した主人が、アルヤ王国特産の葡萄酒の瓶を持ってきて、「お客さん、何を信仰してますかね」と訊ねてきた。オルティは「シャリア教徒だが気にせず酒も飲んでいる」と答えた。主人が笑いながら酒杯に葡萄酒を注いでくれた。

「サータム人と駆け引きをするためにシャリア教に入信したことにしていた。だが暦はずっとアルヤ太陽暦を使っていてな。その上で実生活の深い部分は先祖伝来の天神テングリ信仰から離れられていないと感じる。平原のチュルカ人は適当だ」

「もしこれから王国で暮らすんなら拝陽はいよう教に改宗した方がいいですよ。太陽は酒も女も禁じてませんからね。アルヤのうまい酒、アルヤの綺麗なおねーちゃん、この世の美しいものはアルヤでは何だってきものだ」

「考えておく」

 主人がギゼムにも酒を勧める。ギゼムがたどたどしいアルヤ語で「ありがとうございます」と答えて酒杯を受ける。

「おっ、お姉さんイケるクチだね」

「はい、おさけ、好きです。アルヤのおさけ、おいしいですね。ぶどうの味がするですね」

 アルヤ語もつたなく、重い銀細工のせいで動作も遅いギゼムを、アルヤ王国の人々は深窓の令嬢だと思い込んでいる。恐ろしい勘違いだ。オルティは本来のギゼムが若輩のオルティの十倍は飲む酒豪であるのを黙っておくことにした。今夜この宿の酒瓶はことごとく空になるだろう。

「それにしても、メシェッドは静かな街だな。文学の都と聞いて上品なところなんだろうとは思っていたが、どちらかと言うと活気がないように思える。アルヤ王国の都市はみんなこんなものか?」

 宿屋の主人が「いいえ」と答える。その目は少し寂しそうだ。

「六年前までは、それはそれは賑やかな都でしたよ。九年前のエスファーナ陥落ともあまり関係がなかったんで、みんなそれなりに楽しくやってました。ところが六年前のタウリス防衛戦で偉いお方が戦死しちまってね、以来みんなずっと喪に服してるんですわ」

「タウリスはずっと西方の都市だろう? 東部州のメシェッドの立場ある人間が亡くなったのか」

「なんでも、西部州のご出身だったらしい。神剣を抜いて東方守護隊の隊長になられた」

「神剣……、十神剣というやつか」

 噂は聞いたことがある。二百年ほど前、アルヤ王国の今の王朝を打ち立てたソウェイル王の物語だ。彼は北部州の最高峰で女神から十本の魔法の剣を授かったという。その十本の剣はそれぞれ自らの主を選ぶ。選ばれた主たちは軍の指揮者となる。伝説だと思っていたが、少なくともメシェッドの人間は本気にしているらしい。それが拝陽教に入信するということか。

「バハル将軍はいいお方だったなあ」

 しみじみとした声で言う。

「陽気なお方で、下々の者にも気安く接してくださった。派手好きの大酒飲みで、何かってぇと宴会を開きたがったんですが、上に立つ人間っていうのは金払いがいい方がいいね。メシェッドも毎日お祭りみたいな日々を過ごしたもんです」

「そうか……確かにそういう人間が死ぬと静かになるものだな」

「その上後継者がなかなか派遣されてこないんですわ。新しい将軍が来たらまた活気を取り戻すと思うんですけどね、中央が今どうなってるのか分からんのでね。紫将軍ラームテイン様の例もあるから太陽がいなきゃ将軍が生まれないっていうわけじゃないんでしょうけど、何となく次の太陽が決まるまでは来ない気がしてます。ソウェイル王子か、フェイフュー王子か。決まらないと神剣はゆっくり将軍選びができないんじゃないですかね」

 「将軍ってぇのは一番身近な偉い人ですから」と言って、彼はまた酒をあおった。

「俺たちにとっちゃあ自分たちの将軍がいるってのは頼もしいことでね、将軍のいない今の暮らしは不安ばかりだ。ましてバハル将軍は世渡りの上手な方でうまーくサータム人とアルヤ人の仲を取り持ってた。バハル将軍が亡くなってからのこの六年、上から下までみんなサータム人のお代官様の顔色を窺ってばかりで、まあ特別不便があるわけじゃないんですけど、やっぱり自分たちの将軍が恋しくなる」

 オルティはギゼムの方を見た。ギゼムは案の定酒瓶を空にしていた。チュルカ語で話し掛ける。

『話の筋は分かったか』

『ところどころ聞き取れなかったが、何となくは伝わったぞ。とりあえずここにはサータム人の役人しかおらずアルヤ人の高官とは話ができぬということだな』

『そういうことだと思う。どうする?』

『ジュッシンケンとやらにうてみたい。一般民衆にとって一番身近な偉い人とやら、我々も話しやすいかもしらん。ましてひとつの都市の空気を左右するほどの絶大な影響力を持っているならばなおさらだ』

 主人の方を向き直った。

「この辺りで一番近くにいる将軍はどなたで、どこにいらっしゃる? できたらお会いしてみたいのだが」

 宿屋の主人は明るい声で「アフサリー将軍ですな」と答えた。

「北部州の、北方守護隊隊長のみどり将軍アフサリー様。北部州にはハザールかいという大きな塩の湖があって、その南にある州都レイにお住まいです。メシェッドからレイまでは街道をまっすぐ行って馬で三日くらい、わりと近い」

「一般人が気軽にお会いできそうなお方か?」

「アフサリー将軍もなかなか気さくなお方で下々の者にお優しいですよ。それに将軍のいない東部州を気に掛けてくださってたまにメシェッドにもいらっしゃる。アフサリー将軍が嫌いなメシェッドっ子はいないなあ」

「ふむ……、分かった。北部州の、レイとやらに行ってみよう」

 その後もオルティと宿屋の主人のアルヤ語での会話を黙ってにこにこしながら聞いていたギゼムだったが、途中で「ごちそうさまです、とてもありがとうございますです」と言って酒杯を置いた。酒瓶が三本空になっていた。主人は「なかなかの酒豪だ」と驚いた。オルティは、ギゼムは明日の移動に備えて抑えたのだ、と思ったが、何も言わなかった。

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