第19話 おめめぱっちり、唇ふっくら

 数日後のある午前中のことだ。

 ベルカナは一人密かに蒼宮殿を訪問していた。

 今日のベルカナの用事はあくまで私的なことだ。桜将軍としてではなく、ベルカナというただの女として宮殿に来なければならぬと思っての訪問だった。したがって今日はいつもの派手な踊り子の衣装に桜色の更紗のかぶりものではない。濃い藍色を基調とした年相応の地味な上衣カフタンに、禁欲的な灰色のマグナエを巻いている。ふだんの印象とあまりにも違うからか時々白軍兵士に怪しまれ呼び止められたが、念のためにと携えてきた桜の神剣が通行証となった。

 目的地はソウェイルの私室だ。

 テイムルに確認したところ、ソウェイルはサータム人の家庭教師から帝国の政治経済についての授業を受ける予定であるとのことだった。そこをテイムルの計らいで講師を早めに帰してベルカナと二人きりの時間を作ってもらえることになっている。

 ベルカナはほんの少し挨拶したいだけだ。そんなに大袈裟にはしないでほしいと繰り返し言った。だがテイムルはソウェイルの支持者集めで頭がいっぱいだ。まだ態度を決めかねているベルカナがソウェイルに接近することを過剰に喜んでいる。ソウェイルのことになると見境がなくなるのだ。なかなか困ったものである。そこは今度また別の機会に桜将軍ベルカナとして白将軍テイムルをたしなめることにする。今日は目をつぶって用事を果たす。

 街を闊歩する娘たちとは打って変わって統一された画一的な衣装の、だがやはり今風の巻き方でマグナエを巻き前髪を出している若い女官が、ベルカナの代わりにソウェイルの部屋の扉を叩いた。

「ソウェイル殿下、ベルカナ将軍がお越しです」

 すぐに内側からソウェイルの声で「入っていいぞ」と聞こえてきた。

 女官が扉を開けた。

 部屋の中は思っていたほど広くはなかった。どうやら大きな部屋をいくつもの仕切りで切り分けて一部だけを使っているらしい。絨毯の中央、蒼と金の太陽の部分だけが見えた。

 左手にある几帳をどかして、ソウェイルが姿を現した。背を覆うほど長く伸びた蒼い髪を一本の三つ編みにして、白く薄い中衣シャツの上に、蒼い生地に金の刺繍の入った胴着ベストを着ている。ただでさえ目にまぶしい神聖な蒼い髪をしているのに、大きな蒼い瞳は感情を表に出さず、蒼く長い睫毛に守られてどこを見ているのか分からない――というのが、ベルカナにはなんとも神秘的に思える。性を感じさせない人形のように整った面立ちも相まって、日に日にたくましく男性的になっていくフェイフューとは双子という感じがしない。

「閉めてくれ。ベルカナと二人にしてほしい」

 彼が言うと、先ほどの女官は頭を下げて出ていき、外から静かに扉を閉めた。

「こっち」

 言いながら踵を返し、先ほどの几帳の向こうへ行こうとする。ベルカナは言われるがまま後を追い掛けた。

 向こう側はソウェイルの寛ぎの空間になっていた。絨毯の上に分厚い布が敷かれていて、数えきれないほどの座布団や枕が壁際に並んでいる。いつ寝転がっても眠れそうだ。壁には大きな棚があり、ベルカナには見慣れない工具のようなものがいくつも置かれている。部屋の隅に置かれた文机の上には本が三冊積まれていた。生活感がある。ベルカナはほっとして頬を緩めた。

「座ってくれ」

 ソウェイルが手ずから床に座布団を並べてくれる。ベルカナは恐縮したが厚意をむげにするわけにもいかず「ありがとうございます」と言って腰を下ろした。

「そのうちさっきの女官がお茶をいれてきてくれると思う」

「まあ、そんな、結構でございます。あたし、本当に少しご挨拶をしてすぐおいとまする予定だったんですよ。だから何の手土産もお持ちしませんで……」

「ええ、そうなのか?」

 小声でぼそぼそと「テイムルが何かすごく大事な話があるみたいに言ってた」と言う。

「俺もすごい頑張っていろいろ心の準備とかした……」

「申し訳ございません、テイムルが大袈裟に申し上げたんです。そんな大したご用ではございません」

「なんだー。まあでも、いい。ベルカナとゆっくりおしゃべりする機会あんまりないからな」

 ソウェイルもベルカナの目の前に座った。そして、その大きな蒼い瞳でベルカナを見つめた。

「なに?」

 見つめられていると、その大きな瞳に吸い込まれそうになる。瞳の中には、素直で純粋で無垢な気持ちだけが詰まっているように見える。

 男でも女でもなくおとなでもこどもでもない。

 本当に、不思議な少年だ。自分の娘と同い年の少年とは思えない。フェイフューの方がずっと生々しい生を感じる。

 でも、

「カノがとてもお世話になって」

 自分の娘はなぜかフェイフューよりソウェイルの方に親近感を抱いているのだ。

 自分も、生きている人間としての彼をもっとよく知りたい。

「カノから聞きました。最近カノだけでなくてカノの学校のお友達までお邪魔していると。殿下のための憩いの場にひとを呼んで、殿下の静かな生活を損ねるのではないかと心配しておりますのよ」

 ソウェイルが「なーんだそんなことか」と言って自分の後ろに手をついた。胸を張るように反らす。

「カノの友達は俺にとっても友達だ。俺は友達と遊んでるだけだ。ベルカナが気にすることは何もない」

「ですが女ばかり二人に囲まれて居心地は悪くございません?」

「ううん。右を見ても女の子、左を見ても女の子。とてもいい環境。俺の人生、今月はいいことばっかりだ」

 ベルカナは思わず声を上げて笑ってしまった。天使のような顔をして好色な男みたいなことを言う。つい、可愛い、と思ってしまった。ユングヴィやテイムルが何を思って彼にべたべたするのか少しだけ分かった。

「殿下が王になられましたあかつきには大きな後宮ハレムが必要になりそうですわね」

 しかしソウェイルは勢いよく首を横に振った。

「俺はそんなにたくさんお嫁さんいらない。みんなと平等に時間を持とうとしたら、何日も、何ヵ月もかかってしまう……。いつ来るか分からない夫を待つ人生なんてきっとつまらないぞ」

「殿下はお優しいのですね」

「でも、そうだな。世の中にはお妃様になりたい女の子もたくさんいるんだから、どの子を採用するか俺が決めなきゃいけないんだな。何を基準に結婚するのかいっぱい考えないといけない」

 次の時、ベルカナは目を丸くした。

「カノとは結婚できない。カノは俺のこと友達だと思ってるから。夫として気に入る男と結婚した方がいいと思う」

「そういう話でも……なかったんですけれども……」

「でもベルカナはカノのそういうところも心配だろう?」

 心臓が、一瞬、止まった。

「お母さんって大変だよな。娘がお嫁に行くまで責任を持たなきゃいけないんだ……」

 ソウェイルの大きな蒼い瞳は、何もかも、見透かしているかのようだ。

 それでもベルカナは表向き平静を装って「そうですわね」と答えた。ベルカナがカノの後見人として、母親代わりとして振る舞っていることは確かだ。たとえ話なのだ。

「お預かりした大事なお嬢さんですものね、何とか母親役を務め上げて――」

「え? 何を言っているんだ」

 本当に、ただ純粋に驚いた声で言う。

「預かるも何も、ベルカナはふつうにお母さんだから、自分が産んだ子供が将来どんな人間と結婚するか気になるだろう?」

 血の気が引いていくのを感じた。

 それは禁忌だ。アルヤ王国で最高の娼婦である桜将軍が家庭をもつことは許されない。桜将軍というものがこの世に誕生した時からそうと決まっているのだ。

「どこでそれを――サヴァシュですか」

 ソウェイルも目を真ん丸にして「俺何か言っちゃいけないこと言った?」と呟く。

「ああ、でも、そっか。神剣たちもテイムルもナイショって言ってたな」

「誰がその話を」

 気が動転してしまった。こんなに混乱したのは何年ぶりだろう。相手が『蒼き太陽』であることを忘れて腕をつかんでしまった。

 十五年間秘密にしてきた事実を、カノが産まれた時には生まれていなかったソウェイルが知っている。

 どこで情報が漏れたのかと――

「え……、ベルカナ、カノの顔もっとよく見た方がいいぞ」

 ソウェイルが、上半身を起こして、ベルカナの肘を叩いた。

「ベルカナとカノ、おんなじ顔してる。おめめぱっちりの唇ふっくら。どこからどう見てもそっくり母娘おやこだ」

 目の前の世界ががらがらと崩れ落ちていく音を聞いた。

 チャンダンとの愛の日々もお産の苦しみと歓びも母乳を搾っては捨てて泣いたことも何もかも否定して、カノの母親を恋い慕う気持ちですら踏みにじってでも守ろうとした秘密が、血というたったひとつのゆるぎないつながりにあばかれている。

 目で見て分かるということは、他にも気づいている人間がいるということではないのか。

 それは背信だ。神の系譜に連なる者としての務めをないがしろにした証だ。アルヤ人としてあるまじきことだ。

 ところが――ソウェイルは何でもない顔をして言うのだ。

「歴史だとか伝統だとか言うけど、今時そんなのあるか、みたいな変な掟多いよな、十神剣。昔の、初代の十神剣はそれでよかったんだろうけど。俺はそういうめんどくさいの全部やめるから」

 暗闇に、一筋の光が差し入った。

「ベルカナがどうしても子供がいらないって言うんなら、また別の対応がいるけど。ベルカナはカノがすごく可愛いんだから、お母さんであることを辞めなくていいだろう」

 鼻の奥が痛んだ。目の前が滲んだ。

「俺はベルカナにカノと一緒にいてほしい。それで、ベルカナの次の桜将軍に、将軍をやるためにお産や子育てを諦めなくていいんだ、っていうのを残してほしい」

 思わず腕を伸ばした。

 強く抱き締めた。

 心からの感謝と敬愛を表現するための他の手段が思いつかなかった。

 聖なる『蒼き太陽』に対して、とは、思わなかった。カノと同い年の男の子にそうと望まれている喜びの方が勝った。

「ベルカナ?」

 左腕で華奢な背中を抱き、右手で蒼い後頭部を撫でる。

「なんかよく分からないけど、だいじょうぶだ。俺はカノの味方だ」

 この子にカノを託そうと思った。

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