第15話 憂国の娘
それからというもの、女学生たちはシャフラをも無視し始めた。
シャフラが無視され始めてから教室内は大きく二つに分かれた。シャフラともカノとも口を利かない集団と、シャフラとは口を利かないがカノには話し掛けるようになった集団だ。
全員がカノを許したわけではない。だが、今までシャフラの取り巻きだと思われていた者ほどシャフラを嫌ってカノに擦り寄ってきた。彼女たちはおそらく橙将軍という肩書をもったカノだけが名門フォルザーニー家の権威に対抗できると思っているのだ。
「今までシャフラさんと一緒にいたけど、わたしたちが一方的にシャフラさんに親切にしなければいけないばかりで、シャフラさんはお高く留まっていてわたしたち下々の者のことを気に掛けたりはしないのよ」
「もともとちょっと変わっていると思っておりましたの。おうちではサータム語の家庭教師をつけたり馬術をやったりしているんですって。おかしな人なのです」
シャフラの悪口を浴びるように聞く。
しかしカノは楽しくなかった。
カノも、シャフラのことは苦手だと、カノにとっては不倶戴天の敵なのだとばかり思い込んでいた。
だがこうなると分からなくなる。
シャフラの態度には一貫性があって、誰にも媚びず、何にも屈せず、強くたくましく潔く、少し悔しいが美しくも思えてくる。何となく、フェイフューに似ている気がしてくる。この苛酷な世界の中でもおのれを貫いて生きている――そう認識した途端カノはシャフラにむしろ好感を覚えるようになった。
かといって陰口を叩いてくる級友たちを強く拒むこともできない。また村八分にされるのが怖いのだ。カノは黙って適当な相槌を打っていた。そんな自分がますます嫌いになっていった。
もしかしたら政治の話になるかもしれない、と思ったこともあった。フォルザーニー一門の者として、フォルザーニー議長の孫娘として多数決に近いところにいるシャフラより、何の権限も持たないその他大勢の少女たちの味方をしなければならない、と思った。
ところがそんなカノの気遣いはまったくの無駄のようだ。誰も、カノに、政治どころか、ソウェイルとフェイフューの私生活の話題すら持ちかけてこない。来る日も来る日もシャフラの悪口だ。
シャフラは一人でも平然としていて、誰とも口を利かなくても普通に登校し、下校する。下手に出ていたカノとは大違いだ。シャフラに憧れてしまう。
けれどいまさら周囲の顔色を窺うようになってしまったカノにはシャフラに話し掛けることができない。シャフラは気にせずカノに話し掛けてきたのに、だ。
勇気が欲しかった。シャフラのような強さが欲しいと思った。
もう女学校の誰も信用できなかった。教室内にいる少女たちの誰にも心を許すことはできない。
ただ唯一、シャフラだけは、信頼に足る。
カノはそう思っていた。
だからある日の二時間目の後、三時間目の刺繍の授業の直前、休み時間にシャフラが席を立って教室を出ていった時、カノはシャフラを目で追った。
すぐに次の授業が始まるというのに、シャフラが教室を出ていってしまった。
授業を受けない気だろうか。とうとう教室にいづらくなったのだろうか。すべての授業を優秀な成績でこなしているシャフラが、と思うと、とてももったいなかった。
シャフラには強くあってほしかった。どんな目に遭っても胸を張って席についていてほしかった。
「シャフラ? どこ行くの?」
前の席の少女がカノに「およしなさいよ」と言う。
「あんな高飛車な子、相手をしない方がいいわよ」
一瞬何と答えようか迷った。
彼女の言うとおりにしてシャフラを放っておけば、シャフラの元取り巻きたちはカノを仲間に入れてくれる。カノが学校でひとりになることはない。
ひとりは嫌だ。
けれど――
「あたし、十神剣だからさ。教室の全員の味方でいなくちゃ」
本気でそう思っているわけではなかった。そんな言い訳が自分の中から出てきたことにも驚いたくらいだ。
本音は、シャフラと一緒にいたいだけだ。ここにいる彼女たちと一緒にいても、カノはきっと楽にならない。
聞いていた少女たちは面白くなさそうな顔をした。また失敗したらしい。今日からまた無視されるかもしれない。
怖かった。
逃げるためにも、カノはシャフラを追い掛けて教室を出た。
シャフラは教室のある棟を出て玄関の方へ向かっていった。
学校から出る気なのか心配したが、玄関から正門の間にある前庭に出ると、向かって右、椰子の木々が植えられている方へ歩いていった。その辺りなら教室からも講師控え室からも見えない。
やがて立ち止まった。ある椰子の木の幹に寄りかかった。
カノも別の木の幹に身を寄せ、姿を隠した。辺りを窺った。
さて、どうやって話し掛けよう。
カノが悩んでいるところに、シャフラが言った。
「何か御用かしら? 授業、始まってしまいましたわよ」
驚いて顔を上げると、シャフラと目が合った。
「き……気づいてた?」
「バレバレでしたわ」
仕方なく、木の幹の後ろから出た。その木の反対側、シャフラからも顔が見えるであろう位置に移動してから改めて幹に寄りかかった。
「シャフラが出ていっちゃったから……。どこに行くのか、気になっちゃって……」
シャフラはしばらく黙ってカノの顔を見つめていた。人形のような無表情だったが、その黒い瞳はカノを試すようでも挑むようでもある。
カノは
やがて、シャフラは無言で自分の帯に手を伸ばした。
帯に折りたたまれた布が挟まっていた。彼女はその布を引き抜くと、広げてカノに向かって差し出した。
刺繍の課題用の布だった。マグナエより一回り小さな白い無地の布で、中央にアルヤ絨毯でよく用いられる草の模様を刺繍するようにという課題が出されていた。
カノは背筋が凍りつくのを覚えた。
布の真ん中が、シャフラの手で施されたのであろう朱と濃緑の草模様ごと、切り裂かれていた。
きっと誰かが小刀で切ったのだ。嫌がらせにしては度が過ぎる。恐ろしい。猟奇的だ。シャフラが熱心に縫った刺繍を切り裂く――そのうちシャフラの肌にも刃を突き立てるのではないか。
「これで出てやってもよかったのですけれども」
しかしそう言うシャフラの声はどこか落ち着いていていつもどおりのように聞こえた。
「わたくしの腕でしたら繕って再利用できなくもございませんわ。しかしながら、わたくしはフォルザーニー家の娘としてふさわしいものを身に着けるようにとしつけられておりますので、つぎはぎのある布だなんてまっぴらごめんです。先生が大騒ぎしても困りますしね」
カノの方が泣きそうだった。首を横に振って言った。
「怖かった……よね。なんでこんなひどいことするんだろうね」
シャフラはすぐには答えなかった。黙ってカノの顔を見つめていた。
女学校の敷地を囲む塀の内側を小さな水路が流れている。夏の太陽の光を弾いてきらきらさらさらと流れている。北の山脈から
ここはとても美しい牢獄だ。
「――怖いとは思いませんわ」
シャフラが言う。
「ただ、哀れに思います」
「哀れ……? なんで? ていうか、何が?」
「こんなことしかできない級友たちが、です」
シャフラの黒い瞳は、水路の流れを見ていた。
「今は王位をめぐって二人の王子が相争う国難の時にございます。直接関与することはないとはいえ、おのれの親兄弟がまさに目の前で王の生まれ出ずる瞬間を見ようとしているのです。そのようなご時世に、王の選定や次の王の治世について考えず、こんな小さな学校の中で同胞を攻撃することにばかり頭を使っているなど、情けないことこの上ございません。ましてここには将軍までおわすというのに、その利を何にも生かさず、来る日も来る日もただの同級生であるわたくしの陰口!」
シャフラは、憂国の士なのだ。
「アルヤ王国の未来がかかっているという意識のない愚かな娘たち。狭い世界から出たことのない証ですわ。わたくしたちがここで与えられている教養とはいったい何なのでございましょう? そう思うと、悲しくて、悲しくて、たまらなくて」
カノは自分が恥ずかしくなった。十神剣でありながら深く考えず他の少女たちと戯れていたことがとてもむなしく思えてきたのだ。
「なんだか、シャフラ、フェイフューみたいなこと言うね。フェイフューよく言ってたよ、女は政治ができないからだめだってさ」
するとシャフラは「あらフェイフュー王子は器の小さな男ですわね」と言ってきた。
「女が政治ができないのは、女に政治をさせたことがないからですわ。いかに賢い女でも、教わっていない政治をひとりでできるようにはなりません。政治を知った女はきっと政治をするようになります。女は政治を知らないだけなのです」
そして、言うのだ。
「ソウェイル王子の御世には、女に政治を教える世が来る気がいたします」
胸を衝かれた。
シャフラの目には、きっと、ソウェイルが王になる未来が見えている。
カノにはまだ、ソウェイルが王になる未来も、フェイフューが王になる未来も、見えていない。
「――本音を申し上げれば、うらやましいですわ。ひとをうらやむなど、みっともないことですが」
シャフラが苦笑する。
「男に生まれれば、わたくしも、フェイフュー王子のように、手習い所で宮廷に友を作ったり、白軍兵士相手に剣術の稽古をしたり、大学で古今東西の書物を読んだりしていたのでしょうね。女に生まれたばかりにわたくしが得られなかったもののすべてを、フェイフュー王子はお持ちなのです」
そして、布を丸めた。
くしゃくしゃの小さな玉になった布を、水路に向かって投げつけた。
布が広がって、水路をひらひらと流れていった。
「悔しい……! わたくしにだってできますのに。読み書きもそろばんも何だって兄や弟よりよくやってきましたのに! こんなところで刺繍をしている場合ではございません、教室の小者たちの顔色を窺っている場合ではございませんわ!」
その瞬間、シャフラの黒い瞳から透明な雫がしたたった。カノの前で初めて見せた涙だった。
「結婚などしとうございません! なぜよその家に入らなければならないのですか。せっかくフォルザーニー一門に生まれたのにわたくしは貴族院議員になれないのですか。夫も子供もいりませんのに――わたくしに必要なのは男の体と権力です」
「シャフラ」
カノは、手を伸ばした。
シャフラの服の袖をつかんだ。
シャフラの長く黒い髪から、いい匂いがした。
「宮殿に来て。ソウェイルとフェイフューに会って」
カノは一人、大きく頷いた。これが正しいのだと――これが将軍である自分のすべきことなのだと確信したのだ。
「次の王様の治世で、シャフラができることを探そう。絶対、絶対、あるから。次の王になる人たちと、もっと深い話をして」
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