第11話 女の子の学問、男の子の学問

 妙なことになってしまった。


 カノは、隣の席に座る『少女』の横顔を眺めて、大きな溜息をついた。


 白い無地のに銀糸の小花柄の刺繍の入った朱色の胴着ベストの『少女』は、普段は一本の三つ編みにして垂らしている蒼い髪を後頭部で団子にまとめて、その上から女官のように禁欲的な巻き方で朱色のマグナエをつけていた。

 確かに髪の色は分からなくなったが、長い睫毛と大きな瞳の蒼はまったく隠せていない。

 ただ、もし教室内にいるのが大華たいか人やロジーナ人だったら、この美しい子が王子だとは思わないだろう。ベルカナの見立てどおりカノの服が入ってしまった。しかも違和感はない。本人の物静かな立ち振る舞いも相まって、まるで最初から女の子だったかのようである。


「ね、ソウェイル」


 隣であるのをいいことに、カノは小声で話し掛けた。偶然にもカノの隣の席の級友がまた結婚式の準備で欠席したのだ。空席は他にもあったがソウェイル自身が「資料本を見せてもらいやすいから」と言ってカノの隣を選んだ。一応他の娘には軽々しく声を掛けてはいけないということは認識しているらしい。


 教科書は担当講師が用意したものを使っている。ソウェイルは彼専用に貸し出された本を立てて正面の講師からは顔を隠した状態で「何だよ」と答えた。


「授業中に話し掛けてくるなよ。先生にバレたらどうするんだ」


 ソウェイルがすっかりその気なのがおかしかった。真面目に授業を受けているつもりなのだ。そういえば表情が少し硬い気もする。生まれて初めての講義形式に緊張しているのかもしれない。カノにとっての日常もソウェイルにとっては非日常なのである。

 だが、笑っている場合ではない。


「ソウェイルが今日ここにいることフェイフューは知ってるの」

「知らないはずだ」


 ソウェイルがぼそぼそと「フェイフューが知ってたら俺ここにいられないと思う」と答える。


「お前もフェイフューに言うな。こんなの知られたら殴られかねない」


 一応フェイフューの怒りを招くような非常識をはたらいていることも理解しているらしい。女なんぞに交じって何事かと発憤するフェイフューの姿がカノの頭に浮かんだ。また派手な兄弟喧嘩になる。絶対に言えない。


「なんで分かっててここに来ることにしたの」

「だから言っただろ、貴族の娘がどんな生活をしているのか見てみたかったんだって」

「他に何かないの、接触したい有力者の娘がいるとか、王妃様候補を選ぶとか」

「俺にそんな深謀遠慮を求めるなよ」

「あんたなんか絶対王様にしないからね」

「カノさま」


 名前を呼ばれてはっとして顔を上げた。正面の講師と目が合ってしまった。私語をしているのが見つかってしまったらしい。


 カノは衝撃を受けた。今までカノが授業中に何をしていても指摘されたことはなかったのだ。

 ソウェイルも喋っていたのに――とまで思ってから、ようやく察する。実は、カノは今まで他の生徒よりひいきされていたのではないか。カノが他の生徒と喋っていると叱られるのは他の生徒の方だった。今は、相手がソウェイルで――『蒼き太陽』で、ソウェイルを叱るわけにはいかないから、仕方なくカノの名前を呼んだのではないだろうか。


「では、次を、ライラさん、読んでいただけますか」


 前の席の彼女だ。

 つまり順番で行けばさらにこの次がカノの番だ。

 教科書のどこまで進んだのか分からなくなってしまった。焦った。


 隣でソウェイルがわずかに動いた。彼は体を少しだけ通路側に傾け、何のこともない顔で通路を挟んだ一個向こう側の机の女生徒に「今どこだか教えてくれ」と訊いていた。問われた少女が震えながら自分の教科書を指し、「ここ、こちらにございます」と答える。ソウェイルは「そうか、ありがとう」と言って何事もなかったかのように前へ向き直った。

 それを見ていたカノは前の席の彼女が音読した部分も聞き逃して、自分が読むべき部分を完全に見失ってしまった。


「次は、カノさまですね」


 講師にふたたび名を呼ばれた。カノは顔が真っ赤になるのを感じた。うつむき、小声で申告した。


「すみません、どこまで読んだか分かりません」


 こんな目に遭うのは初めてだ。晒し者になった気分だ。


 しかし講師は他の生徒が同じことをしでかした時のようにカノを立たせることはしなかった。何事もなかったかのように次へ進めようとした。

 カノはそれもまた恥ずかしかった。女学校に通い始めて三年になるのに、ようやく自分が特別扱いされていることを知った。


「では、次――」


 本来なら、最後の席まで辿り着いたら隣の席に移動する。だが今日カノの隣に座っているのはソウェイルである。


「――リーマさん」


 ソウェイルの一つ前の席の少女の名前が呼ばれた。

 呼ばれた少女の方はそれを当たり前のことだと思ったらしく素直に「はい」と返事をしたが――


「先生」


 ソウェイルが手を挙げた。

 講師の方が震えた。


「な……何でございましょう、『蒼き太陽』」

「順番で行くと、俺、だと思う、んだけど……どうして飛ばしたんですか」


 ソウェイルが丁寧語を使っている。珍しい。これはちゃんと生徒役に徹しているつもりなのだ。けれど講師の方がかしこまってしまって「おそれながら」と声を震わせている。


「我らが偉大なる『蒼き太陽』におかれましては、不肖の生徒たちの様子をご観覧になりたいだけであるとのおおせでしたし、女のするような下等の学問をなさることはないと――」

「学問に下等も上等もないのでは? 何だって勉強するっていうことはいいことだ――です」


 カノは感心した。

 ソウェイルが大人に意見した。

 ソウェイルもやればできるのだ。


「女の子が一生懸命やっていることは男も一生懸命やった方がいいと思う――ます」


 それから、うつむき、ちょっと上目づかいで言う。


「今日は、俺はあなたの生徒です。俺は、女学校の生徒の生活を体験したくて来たんだから」


 意を決したのだろう。彼女も二十年近く女学校で教鞭をとっているだけあって、ひとにものを教えることに対する覚悟があるのだ。カノはソウェイルだけでなくこの講師のことも見直した。


「では、ソウェイルさん。次を読んでいただけますか」


 ソウェイルは「はい」と答えてから教科書の一節を朗読した。


「王子、妻を求むる男にふさわしく宮へ向かいたり。黒き瞳、薔薇の頬の姫は露台に上がりぬ。望月もちづきのいただきし伸びやかなる糸杉のごとし。サームの子ザールの姿遠くに見えしかば、姫、紅玉の唇を開きぬ」

「現代アルヤ語に訳してください」

「王子は妻を求める男にふさわしく宮殿に向かった。黒い瞳、薔薇の頬の姫は露台バルコニーに上がった。彼女は満月が頭上にある時の伸びやかな糸杉のような姿かたちでとても美しかった。サームの子ザールの姿が遠くに見えると、姫は紅玉の唇を開いた」


 またもやカノは感動した。ソウェイルもそれなりに知識がある。ソウェイルも何もしていないわけではないのである。

 ただ――フェイフューからしたらこの程度の古典文学は当たり前の常識でこの年になってまで学校でやるものではないと言うかもしれない。


「結構です。では、次こそリーマさん――」

「先生」


 そこでまた、ソウェイルが手を挙げた。


「質問したいことがあるんですけど、いいですか」


 講師は一度唇を引き結んだ。『蒼き太陽』の求めに応じるというのは、一般人にとっては大変なことなのだ。


「よろしいでしょう。おっしゃってください」


 さて、ソウェイルは何を訊きたいのだろう。読んでいる文芸作品についてだろうか。


 予想外の言葉が飛び出した。


「先生が授業の時間割を組んでいると聞きましたが、本当ですか」


 講師の方も面食らったらしく、彼女にしては珍しく上ずった声で「はい」と答えた。


 ソウェイルが続ける。


「アルヤ文学の授業はたくさんあるのに、異民族の文学の授業はないんですか。サータム語の啓典はこれより古い時代に成立したのに、授業では読まないんですか?」


 講師は「やりません」と即答した。ソウェイルは「なぜ」と食い下がった。


「サータム語の授業がないと困らないですか。総督もサータム人で、文官にもサータム人が増えて、サータム語を聞く機会がたくさんできた。分からないと不便だ」


 途中で丁寧語が飛んでしまったが、ソウェイルにおいては初対面の他人と会話をするというだけで結構な頑張りであることを加味して、カノは黙っていてやることにした。


 しかし、ソウェイルに指摘されて初めて気づいた。確かにこの学校には異国語の授業がない。とはいえそれで困ったという話は聞かない。カノ自身、普段の生活でアルヤ語以外の言語が必要だと思ったことはなかった。


 ただ、フェイフューはアルヤ語以外にサータム語と大華語が話せて、読み書きだけなら西洋諸国の言語いくつかにも通じていると聞いた。

 異国語は、男の子の学問だ。


 講師が答えた。


「女性には必要がないからです。旦那様や子供たちと話すための正しく美しいアルヤ語ができれば充分です。不要なことは学校では教えません。もっとやるべきことがあります――太陽礼拝の儀式の取りまとめ方、子供のしつけ方、詩の味わい方――女性が家の中で正しく行なわなければならないことについて詳しくやるには、一年では時間が足りません」

「一年……? 五年間だと聞いた」

「すべての課程を修めずとも立派な良妻賢母になれるよう時間割を一年おきに見直しているのです。五年まるまる学校にいるのはその娘は求められる花嫁ではなかったということの証ですよ」


 ソウェイルが黙った。何か考えているようだった。ソウェイルは考え始めると無言になってしまう。これが長い。カノはひやひやした。このままでは授業が終わってしまう。


 ややして、ソウェイルがふたたび口を開いた。


「どうして女性はアルヤ語だけできれば充分だと思うんだろう……?」


 ソウェイルと話すことに慣れてきたのか、講師がようやくいつもどおりの毅然とした声音で答える。


「女性は、家庭に入ったら家族以外の人間と話すことはないからです。異国語の異民族と接するのは男性の仕事です」

「異民族と結婚したら夫のことばを分かるようになりたいと思うとは思わないか? 王国民の三割がチュルカ人で、エスファーナにはサータム人もたくさんいる」

「アルヤ王国の民と結婚するのであれば夫の方がアルヤ語に習熟しているべきなのです」


 カノも、そんな教育理念のもとで異国語の授業が排されていることを、初めて知った。


「……分かった。ありがとうございました」


 ソウェイルがようやく引き下がった。


 鐘が鳴った。講師はきっかり時刻を守る人で、「本日のアルヤ文学の授業はここまで」と言ってすぐに教室を出ていった。






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