第9話 気がつかないのは本人だけ

 その翌日のことだった。

 カノはいつもどおり登校した。いつもどおり、のはずだった。十神剣としてのカノ、親のいない娘としてのカノの身の上にはいろいろあったが、女学生としてのカノには何の変化もなく、昨日までの日常が今日も繰り返されるものだとばかり思い込んでいた。学校が始まれば女学校でのいつもの自分に戻れる――はずだった。

 教室に入って第一声、カノは昨日までと同じ挨拶をした。

御機嫌ようサラーム!」

 誰も返事をしなかった。

 聞こえなかったのだろうか。気付いていないのだろうか。

「……御機嫌ようサラーム?」

 繰り返してみたが何の反応もない。

 カノはふだんから登校が遅く始業ぎりぎりに来るので、カノが登校してくる頃には教室にはほとんどの級友がいる。今日も同じだ。教室内には昨日までと同じ顔触れがすでに揃っていた。皆すでにチャードルを脱ぎ、席につき、近くの席の友人と他愛もない会話をして盛り上がっている。

 その全員がカノに挨拶を返さない。

 おかしいと思いながらも、黙ってチャードルを脱いだ。

 もやもやする。

 カノは今まで風下に置かれたことはなかった。宮殿でも軍隊でも、カノを無視する人間は誰一人としていなかった。誰もがカノには甘く優しく接した。カノが神剣に選ばれた将軍だからだ。アルヤ王国においてカノは女神に他ならないのだ。

 女学校でもそうだった。女学生は級友に呼び掛ける名前の後に「さん」をつけるものと決まっているが、シャフラ以外は全員カノに「さま」をつける――カノはそれを当たり前のこととして捉えてきた。

 今日はいったいどうしたのだろう。

 不安を抑えて、自分の席に近づいた。

 気のせいだ。たまたまだ。そのうちいつもどおりに戻るに違いない。

 隣の席に、この前結納を済ませたという、半年以内に結婚して退学する予定の例の友人がいた。久しぶりの再会だ。カノは彼女の出席が嬉しくなって明るい声を掛けた。

「サミラ、お久しぶり! 結婚するんだって?」

 彼女は一瞬振り返った。

 だがすぐに顔を背けた。返事をしなかった。

 カノは衝撃を受けた。

 あからさまに無視された。

「……どうしちゃったの? からかってるの?」

 「ねえ」と前の席の友人たちにも声を掛けた。しかし前の二人もカノに対応しなかった。わざわざ自分の隣の席の友人やカノの隣の席の友人と話を始めた。結納についての話だ。カノも興味のある話題だったが、

「あたしも交ぜてよ」

 カノがそう言うと、三人は解散してしまった。次の詩の授業の教科書を開いて黙ってしまった。

 胸の奥が冷える。心臓の音が大きくなった気がする。

 昨日までとは明らかに態度が違う。

 心細くなった。同時に緊張した。肩に力が入った。

 このまま誰とも口を利けなかったらどうしよう。

 どうしてこんなことになったのか分からなかった。カノは何かしてしまっただろうか。会話をしたくないほど嫌われてしまったのだろうか。

 怖い。

 それでも授業が始まる。逃げるわけにはいかない。

 席に――座布団に座ろうとした、その時だ。

 腰を下ろした瞬間、尻がひやりとした。

 背中に悪寒が走った。

 腰を浮かせて座布団を見る。

 濡れている。

 臭いや色はないのでおそらくただの水だと思う。だが、いったいなぜ濡れているのだろう。昨日濡れるようなことはした覚えがない。万が一カノが忘れているだけで昨日水をこぼすようなことがあったにしても、乾燥したこの地では一晩も経たずに乾くものだ。カノが登校する直前に誰かが水を掛けなければこんな濡れ具合にはならない。

 誰かが故意に濡らしたのだろうか。カノが座るのを見越して、いたずらをしたのだろうか。

 いつもなら何でもなく周囲に何があったのか詰問できるところだったが――今日は誰もカノに挨拶をしてくれない。話し掛けづらい。

 確実に、何かが起こっている。

 どうしたらいいのか分からない。

御機嫌ようサラーム、カノさん」

 後ろから声を掛けられた。驚きのあまり心臓が口から飛び出るかと思った。

 おそるおそる振り向いた。

 そこにシャフラが立っていた。彼女は長い睫毛を伏せるようにしてカノを見下ろしていた。口元は笑っていない。いつもはどれほど自分に自信があるのか常に絶やさない意地の悪そうな笑顔を今日はしまっていた。

 それでもシャフラはカノに挨拶している。

 シャフラの表情は少し怖かったが、今ばかりは、カノは話し掛けられていることに安堵した。

御機嫌ようサラーム

 カノが挨拶を返すと、シャフラは手にしていた手提げかばんから手巾を取り出してカノに差し出した。

「汚れていますわよ」

 これで拭け、ということだろうか。

「あ……りがとう」

「おとなの女性ならば手巾の二、三枚は持ち歩くことですわね」

 一枚も持っていないカノは恥ずかしくなった。またシャフラに恥をかかされた気がした。

 それでもシャフラの嫌味な態度は昨日までと何にも変わらない。

 シャフラだけは、いつもどおり――のような気がする。

 カノはそれをどう捉えたらいいのか分からなかった。

 はたしてシャフラに安心していいのだろうか。一瞬挨拶をしてもらえたことを喜んでしまったが、シャフラがカノに対して嫌味で少々喧嘩腰なのはふだんからだった。むしろ今こうして話し掛けてきたことに深い意味があると感じるのは気のせいだろうか。

 シャフラは皆に無視され座布団にいたずらをされて戸惑うカノを見てわらってはいないだろうか。

 結局、カノはシャフラの手巾を受け取らなかった。

「いいよ、どうせすぐ乾くし、あんたのが汚れちゃうでしょ」

「あら、さようでございますか」

 シャフラはすぐに引っ込めた。そして面白くなさそうな表情のまま歩き出した。

 シャフラが彼女自身の席につく。周囲の級友たちがシャフラに挨拶をする。シャフラはつんと澄ました顔で落ち着いて挨拶を返す――いつもどおりだ。

 でも今日は、怖い。

 シャフラは、皆に話し掛けてもらえる。

 自分だけがこんな目に遭っている。

 カノは縮こまった。尻が冷たいが我慢するしかない。きっとすぐ乾くと自分に言い聞かせた。

 その後カノはいつもどおり昼の終業の定刻まで授業を受けたが、授業中はもちろん休憩時間も誰からも話し掛けられることなく、またカノ自身も気まずさを感じて話し掛けようとはせず、ひたすら沈黙して過ごした。

 楽しかった学校が、急に恐ろしい牢獄のように思えてきた。

 怖い。

 いったい何が起こっているのだろう。

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