第8話 母親の責任
斜め前を行くベルカナの後ろ姿を眺める。
ベルカナの豪快な巻き毛は腰に届くほど長く伸ばされていた。一応申し訳程度に布をかぶってはいるがマグナエではない。丈が肩の下辺りまでしかなく豊かな毛先がたっぷりはみ出している。毎晩丁寧に手入れしているだけあって夕焼けの中輝いて見えた。
中央市場は人でごった返している。砂漠や高原を渡ってやって来る人が多いためか布をかぶっている人が多い印象だが、すべての女性が必ず髪を隠しているわけではない。髪を出して歩くベルカナをとがめる者はない。
「カノちゃん?」
不意にベルカナが振り返った。カノはすぐ「なに?」と答えた。
一歩分下がってくる。右手でカノの左手首をつかむ。
ベルカナの手を見る。
指の関節のしわは深くなり、手の甲には血管が浮いている。
化粧をした顔だけを見ていると永遠に年を取らないかのように見えるが、さすがの彼女も手の老いはごまかせない。
「あんまり静かだからいないのかと思っちゃったわ。迷子になってたらどうしようって」
「やだなあ、あたしだって静かにする時あるよ」
だがこの人混みの中では一回はぐれると再会できないだろう。
人の流れを邪魔しないよう、二人で歩調を合わせながら前へ歩き出した。
ベルカナはしばらくの間カノの手首をつかんだままだった。少し過保護だと思う。十五を超えた女にすることではない。
けれどカノには拒絶することができなかった。
ベルカナはカノを離したくない――それがカノの心を温かくする。
そして同時に申し訳なくなる。
自分はきっとこういう行為を母親に求めているのだ。実の母親がいないから、母親代わりをしてくれるベルカナに甘えている。
よその子供である自分がベルカナに寄り掛かっていて、ベルカナは負担ではないだろうか。ベルカナから愛情を搾取しているように思ってしまう。
ベルカナの手が、手首から離れた。
次は腰を支えるように押さえられた。
「まだ決めなくていいわよ」
ベルカナが囁くように言う。
「もしかしたら早く決めろって言う奴も出てくるかもしれないわ。でも無視なさい。カノちゃんは、カノちゃんのよいように、カノちゃんのよい時で。ゆっくり考えなさい」
「うん……」
彼女の言葉が、胸に沁みる。
「でも一個だけ約束して」
「なに?」
「どっちかを選んだら――決めたら、他の人に言う前に、まずあたしに教えてちょうだい。どっちにしてもいいから。絶対怒ったり笑ったりしないから、まずあたしに報告するのよ」
報告してどうするのか疑問に思った。
どうもしないのかもしれない。ベルカナは保護者としてカノの動向を把握していたいだけかもしれない。
つい先ほどは手首を握られることに喜んでいたというのに矛盾してしまうが、何となく束縛されている気がして、カノはつい、「ベルカナは?」と言ってしまった。
「ベルカナはどっちにするの? あたしがこっちって決めても、別にベルカナもそっちにしてくれるってわけじゃないよね?」
ベルカナが苦笑する。
「考慮には入れると思うけどね。どういう過程を経て決めたのかにもよるけど、もしかしたら、カノちゃんが選んだんだったら、って思うかもしれないわ」
意外に思って「えっ」と声を漏らしてしまった。ベルカナは絶対に他人には流されないだろう、影響されないだろうと思っていたのだ。カノはベルカナにはそういう絶対的な強さを感じているのだ。
「だってもう、あたしはいい年だもの」
夕陽に照らされるベルカナの頬が急に老けて見えた。
「まともに結婚してたらそろそろ孫ができてもおかしくない年だわ。これからは、カノちゃんと、カノちゃんの子供の時代。だからあたしの意見は二の次三の次でいいのよ。カノちゃんが生きやすい、子供を育てやすい世の中を作ってくれる王様でなくちゃ」
語る声は明るく穏やかであり、けして卑下しているようには聞こえない。
「あたしもあと十年もすればおばあちゃんよ」
しかしカノは嫌だった。ベルカナには永遠に若くて美しい色気のある女でいてほしいのだ。
「どっちがいいかしらね」
遠くを見ているベルカナの瞳が、夕陽の色を吸い込んで、金色に見える。
「カノちゃんを幸せにしてくれる男じゃなくちゃ嫌だわ」
「なんだかあたしをお嫁にやるみたいじゃない」
「似たようなもんよ」
ベルカナは真剣だった。
「次のアルヤ王には、あたしは、カノちゃんを託さないといけないんだわ」
「ベルカナ……」
「結婚して王妃になれとかそういうんじゃないわよ。でも人生がかかるのは一緒。十神剣と太陽は一蓮托生なんだもの」
そしてそこまで言ってから、おどけた様子で「結婚してもいいんだけどね」と肩をすくめる。カノはどきまぎしてしまった。子供の頃何も考えずにフェイフューと結婚すると言っていたことを覚えていやしないかと思ったのだ。忘れていてくれるといい。恥ずかしいことこの上ない。祈るばかりである。
「いずれにせよ、カノちゃんをお嫁にやるまでは気を抜けないわ」
しかしそう言われてしまうと、カノはまた別の怒りを感じる。
「――ねえベルカナ」
それは、本来、父親がすべきことであり、父親や親族の男がいないのなら、母親がすべきことなのだ。
「ベルカナはさ、もう二十年以上将軍やってるんだよね」
「そうよ」
「あたしのお父ちゃんとも仲が良かったって言ってたよね」
いつだったか、その縁があったこともあってカノを引き取ることにしたのだと言っていた。
「本当は知ってるんじゃないの」
「何を?」
「あたしの本当のお母さんのこと」
ベルカナの足が、止まった。
「あたしのお母さんがどこで何をしてるのか、知ってるんじゃないの」
「急にどうしたの」
「急にじゃないよ。ずっと考えてたこと。でも今、ベルカナが、あたしをお嫁にやるとか言うから。それって本来母親の仕事じゃん、と思って」
カノも立ち止まってベルカナの顔を見た。人の流れの中二人向き合った。周りの人々が気を使って二人を避けてくれるのに助けられた。
「あたしの母親、無責任すぎない?」
小さい頃はただ恋しかった。会いたいと、会って抱き締めて産んでよかったと言ってほしいと思っていた。
成長するにつれて怒りの方が勝っていく。
「産むだけ産んでおいて、父親に預けて。父親が死んでも、引き取りに来ないで、ベルカナに押し付けて」
ベルカナはまっすぐカノを見つめていた。
「なんかすごい、腹立つ。ベルカナが大変なだけじゃん、別にベルカナが産んだわけじゃないのに」
「カノ……」
「最近、あたしを産んだ責任を取ってほしいって思う。放っておかれてるあたしとあたしの世話をしてるベルカナに謝ってほしい」
次の時だった。
細い腕が伸びてきた。
あっと言う間だった。
強い力で抱き寄せられ、抱き締められた。
ベルカナから、香水の香りがした。
「ありがとう」
なぜそんなことを言われるのか分からなくて、カノは瞬いた。
「カノちゃんがそう言ってくれて、ほんとに嬉しい」
「なんで……?」
「いいの。自分の母親を恨みなさい。いろいろ言い訳はあるけど、結局は全部覚悟が足りないからなのよ。世界じゅうのひとを敵に回してでも自分の手で娘を育てるという覚悟があったら名乗り出れたんだわ。でもね――」
手が、優しく後頭部を撫でている。
「カノちゃんを愛してくれる人はたくさんいるから。世界で母親とたった二人きりより――母親たった一人の愛に縋るより、父親や父親の仲間たちみたいなとても大勢の人たちに可愛がられてほしいと思ったの。母親と二人きりは内向きで、カノちゃんの心の健康に良くないと思った。これだけ大勢の手がかかるなら母親なんかいなくても育ってくれると思ったのよ」
耳元で囁かれた。
「忘れないで。カノちゃんには大勢の人に愛されて育ってほしいと思ったの。それは嘘偽りのない本当。ただのわがまま、ただの押しつけだったけど――結果的に今、カノちゃんがいい子に育ったから、いいんだわ」
ベルカナの肩に額を押し付けつつ、「押しつけだよ」と呟くように言った。
「もしかしたら、その他大勢よりお母さんがいい、って、あたし自身が思ったかもしれないのに。そういう選択肢を用意してくれなかったお母さんは、やっぱり、ひどい母親だよ」
「そうね。それでいいわ」
静かに笑う。
「カノちゃんが子供を産む時にはそういう失敗をしないように気をつけてね」
カノは一度頷いた。
すぐに顔を上げた。
「やっぱりベルカナ、あたしのお母さんのこと、知ってるんだね」
ベルカナは穏やかに微笑んでいた。
「ねえベルカナ、あたし、お母さんのことが知りたいよ。本当のことを教えて」
ベルカナの手が、カノの背中をあやすように叩く。
「……分かったわ。カノちゃんももう子供じゃないものね」
苦笑する。
「次の王が決まったら。次の太陽の許可が出るようなら、お母さんと会わせてあげるわ」
「ベルカナ」
「本当のことを全部話す。あたしも、覚悟を決めるわね」
そこで急にひとにぶつかられた。中年の男に突き飛ばされ、「こんなトコに突っ立ってんじゃねぇよ」と怒鳴られてしまった。ベルカナが「やだ、大丈夫?」と言いながらカノを支える。
「移動しましょ。早く夕飯を食べて帰りましょ。ね?」
「……うん……」
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