第9章:橙の女鹿と黒髪の姫君

第1話 あたしたち親友だよね

 部屋に入ってすぐ目に入ってきた光景にぎょっとした。

 部屋の真ん中でソウェイルがうつぶせに突っ伏していたのだ。

「ちょっ、ソウェイル!?」

 カノは慌てて駆け寄ってソウェイルの頭の傍にしゃがみ込んだ。左手でソウェイルの右肩をつかんで揺さぶり、右手の指先でソウェイルの長い前髪を掻き分けるように持ち上げた。

「どうしたの!? 何かあったの!?」

「――ない……」

「え、なに? 何がないって?」

「俺のこたつが……ない……」

 昨日の夕方を思い出した。

 最近はソウェイルも少し忙しい。寺院や軍の施設に呼び出される日が増えたのだ。おそらくテイムルが意識的に予定を増やしてソウェイルと民が触れ合う機会を設けているのだと思う。民衆の意見が多数決の結果に直結するわけではないが、アフサリーとベルカナは何を基準に決めるか分からないし、議会や総督は民衆の反応を参考にするかもしれない。そしてフェイフューの方は放っておいても午前は大学に行き午後は貴族の友人たちとの社交の場に赴いている。ソウェイルは放っておいたらこの部屋で一日潰してしまう。ソウェイルを王にしたいテイムルは不安でたまらないに違いない。何とかして民衆の間のソウェイルの印象を良くしたいのだ。

 昨日も、ソウェイルは王都のどこかの街区で行なわれていた町民の集会に顔を出していたらしい。丸一日この部屋に来られなかった。カノはいつもどおり午前は女学校で午後は空き時間である。ソウェイルもフェイフューもいない宮殿の勉強部屋でひとりぽつんと過ごしていた。

 そこでカノに声を掛けてきたのが、警護の白軍兵士たちであった。彼らは前々からカノがひとりぼっちになると心配して時折勉強を教えたりなどしてくれていたが、昨日も部屋の中の様子を見て話し掛けてきたのだ。

 そして、彼らはふと、部屋の中央に置かれているこたつに目をつけた。

 時は第三の月ホルダード初旬、灼熱の夏がやって来たところである。夏至も近づく今日この頃、外に転がっていたら暑さと乾燥で死が見える季節だ。部屋の中は薄暗く涼しいとはいえ、こたつを使う時季はとっくに過ぎている。

 兵士同士で話し合い、こたつを片づけ、こたつ布団を洗濯女たちに託し、卓を夏物に替えた。完全なる親切心、白軍兵士ならではの気遣いと自主性である。

 ところが、彼らの主君はその対応が気に入らなかったらしい。

「俺は片づけていいなんて言ってない……」

 カノはソウェイルの蒼い後頭部をはたいた。

「起きてよ。ていうかいい加減にしてよ。あんたがすべきなのはこたつを恋しがって駄々こねることじゃなくて片づけてくれた白軍のお兄さんたちにお礼を言うことだよ」

「誰だ俺の許可なしにこたつ片づけた白軍兵士……減俸ものだろ……」

「もーやだ。あんたみたいなの暗君って言うんだよ、あんたなんか王様にしたらアルヤ王国は終わりだよ。やめやめ。やっぱフェイフューにしよ」

 それでもソウェイルが起き上がらないので、カノは最終的に諦めた。ソウェイルが伏せるために部屋の隅へ押しやったと思われる卓を中央に引きずって運んで、卓の上に学校から持ってきた裁縫道具を広げた。学校の宿題で刺繍の課題が出たのだ。

 ようやくソウェイルが起き上がろうとした。

 腕を突っ張った途端、腰を卓に勢いよく打ち付けた。

 ソウェイルはふたたび突っ伏した。

「なんか俺の人生うまくいかないことばっかりだ」

「ばっかじゃないの」

 「はいはい、痛いの痛いの飛んでけ」と言って適当にソウェイルの腰を叩く。

 ややして、ソウェイルがあおむけになった。卓の下に下半身を突っ込んだまま、刺繍をしているカノの手元を眺め始めた。

「ちょっと、じっと見られるとやりにくいんですけど」

「いいな、楽しそうだ。俺もやりたい」

「えっ、やってくれるってこと? じゃあお願い」

「やった」

 ソウェイルが起き上がった。カノが差し出した布を受け取り、ぶら下がっている針を手にした。

 図案を見せ、染められた刺繍糸も渡しつつ、「ここの色はこれ、こっちはこの色」と順を追って説明する。彼はおとなしく聞いて素直に頷いていた。

 説明が終わった段階まで待ってから黙って刺繍を始めた。

 その指先がまた器用で、カノが刺したものよりよほど目が揃って綺麗なのだ。

 このままでは刺繍の教師に途中からひとにやらせたことが分かってしまうだろう。いっそのこと自分で刺したところもすべて抜いて一から彼にやらせようかと思った――が、

「いや待って。あんた刺繍なんかしてる場合じゃないんじゃないの。何かもっとこう、王位継承者としてやらなきゃいけないことがあるんじゃないの?」

「ない」

「うっそだー!」

「もうやだ……俺がないって言ったらない……」

 針山に針を突き刺してから、布を抱えて卓に突っ伏した。カノは「勘弁して!」と叫んだ。

「ねえ、もう、ほんとに分かってる!? あたしたちがどれだけあんたとフェイフューのことで悩んでるか! 肝心のあんたがそんなで王を決めるなんて無理、絶対無理だからね!」

 ソウェイルは何も言わなかった。

 カノは溜息をついた。

 たぶん、本当は、ソウェイルも分かっている。確信をもって言えるわけではないが、おそらく、分かっていても気持ちがついていけていないのではないかと思う。彼は『蒼き太陽』として日々ものすごい重圧の中を生きている、はずだ。イブラヒムが多数決などと言い出さなかったらカノはこの部屋でくらい甘えることを許した。

 だがフェイフューは違う。フェイフューはそもそも甘えたりなどしない。放っておいても積極的に活動する。今もどこかで貴族院議員やラームテインと行動をともにして何らかの工作をしているものと思われる。

 ソウェイルはいつも遅れをとる。

 昔からそうだ。何をやらせてもフェイフューの方がよくできる。フェイフューは時流を読み、一歩先を歩き、何でも着実にやり遂げていく。ソウェイルはそんなフェイフューの背中をぼんやり眺めている。

 カノはもどかしい。

 ソウェイルもだめなわけではない。ソウェイルにもいいところがある。勉強ができなくても、運動ができなくても、ソウェイルは料理も裁縫もうまいし、何よりカノの話を聞いてくれる。「女のくせにうるさいですよ」が口癖のフェイフューとは違ってソウェイルにはおとなになったら紳士に成長する見込みがあるのだ。

 いつになったらおとなになるのだろう。

 先が長すぎる。待ちきれない。そうこうしているうちに夏が終わり冬が来て大晦日になるのだ。

 顔を上げ、刺繍の続きを始めた、そんなソウェイルの整った横顔を眺める。濃く密集した長い睫毛、白い頬は滑らかで、唇がふっくらしている。カノの同級生の少女たちよりずっと美しい少年だ。だがフェイフューのような凛々しさはなくまるで少女である。

 その大きな蒼い瞳はどこを見ているのだろう。

 ソウェイルのものの考え方はよく分からない。ただ、フェイフューやカノよりソウェイルの世界の方が時の流れがゆっくりだということは分かる。

 彼の目に映る世界は、おそらく、ゆったりしていて、色彩豊かで、細かなところが少しぼやけている。

 本音を言えば、カノはその世界が心地いい。ソウェイルと並んで日がな一日ぼんやりしているとカノは心安らぐのを感じる。

 フェイフューが生きる世界は苛酷だ。ありとあらゆるものがフェイフューを傷つける。フェイフューの強さは傷が固まってできたものだ。

 そんなフェイフューを守りたいと、傍で支えて、ずっと励ましていたいという気持ちは今もある。むしろ日増しに強くなっている。フェイフューがゆく道にある障害を取り除けるならカノは喜んでその身を捧げるだろう。

 ソウェイルはカノにその身を犠牲にしろとはけして言わないだろう。

 難しい。

 激しいときめきをとるか、穏やかな安らぎをとるか。

 つまり、恋心をとるか、友愛をとるか。

 そもそも、その二択は選ばなければならないものなのだろうか。両方、ではいけないのだろうか。どうしたら両方とることを許してもらえるのだろう。

「ねーソウェイル」

「ん?」

「あたしが縫ったところほどいて全部やり直して」

「分かった」

「ねえ、ソウェイルってば」

 人差し指を伸ばした。

 ソウェイルの頬をつついた。指が少しだけ沈んだ。彼の頬は柔らかいが弾力がある。

 こういうことをした時、フェイフューはすぐに発憤するだろうが、ソウェイルはめったに抵抗しない。

 カノはフェイフューよりソウェイルと一緒にいる方がはるかに気が楽だが、それは王になったらなめられるということの証である気もする。

「大好きだよ」

「んっ?」

「あたしたち親友だよね」

「ん、んー……ああ、そうだな」

 ソウェイルは黙々と刺繍を続けた。今度はカノが卓に突っ伏した。

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