第12話 浪漫の夜の約束 1
アフサリーはもともと王都出身で今も王都じゅうに親族がいるらしい。彼は王都に上京することを帰ると言い、行事の期間中は妻や娘夫婦の住まう屋敷に身を寄せることにしている。
一方タウリス生まれタウリス育ちのエルナーズは王都に一般人の知り合いはいない。したがってテイムルはいつもエルナーズのために蒼宮殿の中の貴賓室を手配していた。
フェイフューがその貴賓室を訪ねたのは夕飯の後のことだった。寝支度をしていたら少し申し訳ない気もするが、逆にもう寝るだけなら部屋にこもっているのではないかと思ったのだ。
念のためにウードも抱えてきた。前回会った時に持ってくるよう言われていたのを思い出したためだ。会話に詰まった時にはいい話題になるかもしれない。
右手で扉を叩いた。
返事はすぐに返ってきた。
「はあい、どなた?」
フェイフューは胸が高鳴った。
「僕です。フェイフューです」
「あらやだ。ちょっとお待ちくださいね」
待っているとそのうち内側から扉を開けてもらえた。
やはり寝るところだったらしい。エルナーズは、薄絹の寝間着をまとい、その上からいつか見た黒い肩掛けを羽織っていた。いつもの大きな耳飾りはつけていない。前髪から出ている右半分の顔も、いつもより睫毛の量が少なく、目元の化粧もなく、紅もひいていなかった。
かなり雰囲気が違う。毒々しいほどの妖艶さはなりをひそめ、どことなく凛々しくて、もしかしたら女性にもてはやされる方の美男かもしれないと思わされた。ひとは化粧をしないだけでここまで印象が変わるのだということを学んだ。
薄絹の寝間着は体の線をはっきりと表していた。エルナーズの体は直線的で、薄い筋肉の平らさを感じられた。
手袋はしていなかった。代わりに、左手にだけ布を巻いていた。片手だけだ。なぜだろう。気になる。
「どうかなさいました?」
問われてはっとして顔を上げた。ひとのからだはそうじろじろと観察するものではない。心の中で自分をたしなめた。
「エルと少し話をしたいと思いまして」
かまちにもたれかかって、「ははあ」と意地悪そうに笑う。
「俺の票をとりにいらっしゃいましたのね」
一瞬何のことを言われているのか分からなかった。
「フェイフュー殿下が一番のり。ソウェイル殿下はまだいらしてませんよ」
多数決のことを言っているのだ。
フェイフューは慌てて首を横に振った。
「いいえ、違います。エルの前職の話を聞きたいのです」
「前職?」
「あ、いえ……」
戸惑った。単刀直入すぎるだろうか。
ラームテインを見ていて、
繊細な話題ではないだろうか。からだに関わる話だ。真正面から根掘り葉掘り利き出すのは下品なように感じる。エルナーズが気を悪くしたらどうしよう。エルナーズに嫌われたくない。
エルナーズはどう扱ったらいいのだろう。
エルナーズの薄い色の瞳が、フェイフューを試すように見つめている。
「あの、以前、北の塔の近くでお会いした時に、ウードを持ってくるよう言ってくれたではありませんか。話を――雑談でも、何か、しないか、という――何か、適当に……茶菓子の用意もなく申し訳ありませんが……」
らしくもなくしどろもどろだったが、エルナーズは深く突っ込まなかった。彼はにこりと笑って身を引き、「どうぞ」と言ってフェイフューを部屋の中へ導いた。
「嬉しいですわ。宮殿にいると夜遊びできなくて退屈なんですのよ。殿下がお相手くださるなんてありがたい限りです」
もともと調度の整った貴賓室で、地元の工房で作られた大判の絨毯が敷かれており、
エルナーズがどこからともなく座布団を取り出してきて置いた。けれどフェイフューは座布団には座らなかった。絨毯の上に直接腰を下ろすと、自分の傍らにウードを置き、座布団を拾い上げ、抱き締めた。自分でもなぜそんな行動に出たのか分からない。ただ、何かに触っていないと落ち着かない気がした。
「何をしていたところでした?」
会話の糸口を探して何となく訊ねた。エルナーズはフェイフューの斜め向かいに腰を下ろしながら答えた。
「体操をね。柔軟運動です」
意外な返答だった。
「運動するのですか」
「鍛えているわけではございませんよ。筋肉を柔らかくして、贅肉を落とす――美容のためでございます」
フェイフューは驚いた。そんなことのために運動をする人間がこの世に存在するとは思っていなかったのだ。フェイフューはよく運動するが、第一の目的は、体を鍛えるため、強くなるためだった。
「筋肉を強く太くしようとは思いませんか」
「いいえまったく。それは俺にとってむしろあまり好ましいことではございません。男性的な美しさを求めていないのですわ」
確かに、エルナーズといえば長身痩躯、すらりと長い手足や華奢な腰に魅力があるように思う。
そう思ってから、身体の魅力とは、と自問自答を始めてしまった。いったい何を基準にひとを見ているのだ。
何はともあれ自分の目標どおりに体づくりをしようという意識は良いものだ。高みを目指して努力を続けることは善である。
「ウード」
エルナーズが右手の指でフェイフューの傍らを指した。
「持ってきてくだすったのね」
「はい、いつだか、エルも音楽をやっていたと言っていたではありませんか」
「何か一曲お聞かせしましょうか。お貸しくださいます?」
フェイフューはまた胸が高鳴るのを感じた。
エルナーズの歌が聞ける。
ウードを手に取り、掲げるようにエルナーズへ差し出した。
エルナーズはすぐに受け取って構えた。左手で首をもち、右手で胴を支える。
そこでフェイフューはようやく気づいた。
左手の指先が見えた。
胸の奥が冷えた。
皮膚が赤黒く引きつれている。人差し指と中指には爪がない。
優雅なエルナーズにはふさわしくない、焼けただれた指だった。
エルナーズが普段手袋をしているのはこの火傷を隠すためだったのだ。
ひょっとして、布の下にもこの傷が続いているのだろうか。そう思うと、緊張で心臓が破裂しそうになる。だが訊けない。本人はきっと隠そうとしている。
そうこうしているうちに、エルナーズがウードを爪弾き始めた。左手の指は傷の影響など感じさせないくらい自由に動いてしっかり弦を押さえた。
「
いざ早く
いま君の 目をたのします 青草や
明日はまた 君のなきがらからも生えん」
香が漂い炎が揺れる薄暗い部屋にエルナーズの声が朗々と響く。支える旋律は激しくも優雅で悠久の古都タウリスを思わせる。
「酒飲まん
君やわが
草の上に
土になりたればあまたの草生えん」
幻想的な音と香りに酔っていたが――途中で気がついた。
エルナーズが歌う歌詞は、いにしえの大詩人が詠った
彼には文学の素養があるのだ。
「あわれ 人の世の
このひとときをわがものとしてたのしまん
明日のことなど気に病まぬや
いざ早く
そこまで歌うと、エルナーズは手を止めた。
フェイフューは興奮を抑えきれず「すごい!」と大きな声を出してしまった。
「お上手ですね。誰かに師事したのですか」
「ええ」
フェイフューの反応に満足したのか、エルナーズが「ふふ」と小さく笑う。
「タウリスの芸妓はこれくらい皆できますのよ」
驚天動地、だった。からだを売るだけの哀れな遊び女たちがこのように優雅で繊細な曲を奏でるというのはフェイフューでは想像が及ばなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます