第10話 理屈と感情の交錯

 突如ユングヴィが立ち上がった。あまりにも突然だったので何が起こったのか一瞬分からなかった。

 真っ青な顔で、肩掛けで口元を押さえながら、出入り口の方へ向かってまっすぐ早歩きをする。

 背中があっと言う間に遠ざかっていく。

 やや遅れてだったがサヴァシュも立ち上がった。何かを察したらしくユングヴィの後を追い掛けた。

 ユングヴィが途中で立ち止まった。

 その場にしゃがみ込んだ。

 体が震えた。

 次の時、周囲にいた人間がユングヴィを避けて左右に分かれた。

 片づけがどうとか、医者がどうとか、怒号のような声が響き始める。今までのとは違うざわめきが講堂の中を満たす。

 もどしたのだろう。こらえきれなかったのか。

 公共の場である、王への謁見の間でもある大講堂を吐瀉物で汚すとは無礼だ。気分が悪い。

 サヴァシュがユングヴィを横抱きにして抱え上げた。そしてそのまま出入り口を出ていってしまった。数人の白軍兵士が追い掛けていったがしばらく待っても帰ってこなかった。

 片づけの下男たちが入ってきて、床を掃除し始めた。

「――解散を」

 テイムルが言った。

「解散をお命じください、総督」

 イブラヒムは「よかろう」と答えた。

「今日のところはここまでだ。私は明日から通常業務に戻る、アルヤ人の皆は各自自宅に帰って正月ノウルーズの行事を続けたまえ」

「ユングヴィの体調を見てこの正月ノウルーズ期間中に第一の月ファルヴァルディーンの十神剣会議を開きます、そこである程度意見をまとめます」

「焦ることはない、また夏至の日に多数決をとる。アフサリーとエルナーズは一度地元に帰らねばならぬだろうしな」

 イブラヒムが鷹揚とした足取りで玉座に戻る。当たり前のように腰を下ろしてから、講堂の中の人間を睥睨する。

「あと四回――夏至、秋分、冬至、そして大晦日の多数決に全員で参加することさえ約束してくれれば、他はいつ何をしても構わない。好きにしたまえ。議論するのもいい。決闘するのもいい」

 唇を歪めて笑う。

「どうしてもまとまらないならば」

 ざわめきが遠くに聞こえる。

「敵対する者を斬りたまえ。死者だけは意思表明できないことを認めよう――バハルとやらに投票権がないのと同じだ」

 十神剣はそれ以上何も言わなかった。テイムルが「追って連絡する」と言ってその場を離れたからだ。

 テイムルは白軍兵士たちに他の参加者の撤収を促すよう指示し始めた。テイムルから直接声を掛けられたフォルザーニー卿も取り巻きを連れて講堂から出ていった。

「殿下がたもそれぞれ北のご自分のお部屋にお戻りください。あとでまた夕方に別途お伺いします、それまでお部屋で静かにお過ごしください」

 フェイフューはすぐ「はい」と頷いた。考えたいことが山積みだ。とにかくひとりになって頭の中を整理したかった。

 ちらりと後ろを振り向いた。

 ラームテインと目が合った。

 彼は、にこ、と控えめな笑みを見せた。

 安心するように言われている気がした。先ほどユングヴィがソウェイルに対して見せた表情と同じだと思った。

 ナーヒドとは目が合わなかった。

 いつか話をしなければならないだろう。だが今ではない。今はまだフェイフュー自身が混乱している。感情的に相手を非難するのはみやびではないのだ。

 フェイフューは歩き出した。

 数名の白軍兵士が付き添ってくれた。だが彼らは必ずしもフェイフューの味方だというわけではないと思う。護衛ではなく監視かもしれない。

 考えなければならない。


 エルナーズの第一声は「これ地震来たら死なない?」だった。部屋の左右の壁全面に書棚が据え付けられており、どの空間にもまんべんなくぎっしりと書物が詰め込まれている。大きな横揺れが来たら雪崩を起こすはずだ。部屋の真ん中にいたら圧死する可能性がある。

 ラームテインは平然とした顔で「書類保管庫みたいなものですからね」と答えた。そして扉から見て正面、窓の近くにある机の後ろの大きな椅子に腰掛けた。

「俺この部屋でひとりで過ごすの無理だと思う。発狂すると思う」

「僕は落ち着きます。どうやら狭くて暗くて紙の匂いがする場所に安心するみたいで」

「変態か。いやごめん知ってた、あんたこどもの頃から変態だったわよね」

「そうでもないですよ。代々の紫将軍がここで仕事をしていたわけですから、僕の前の代もそのまた前の代もこういう空間が好きだったに違いありません」

「紫将軍が代々変態なのね。そりゃ紫の剣も選びがいあるわ」

 それぞれの書棚の前、左右向かい合うように毛皮を貼った高価で柔らかい長椅子が置かれている。ラームテインはそれを指して「座ってどうぞ」と言った。エルナーズは「遠慮するわ」と答えて扉にもたれた。

「あんた、今回、派手にやらかしたわね」

「そうですね。さすがに今回は僕も僕はバカだと思いました」

 机に頬杖をつきつつ、「いえ、僕は自分が賢いと思ったことはありませんけど」とぼやくように言う。頬杖をついたせいで頬や唇が歪み美しい顔が少し崩れてしまったがラームテインはあまり頓着しない。

「皆さんが思っているより僕はバカですよ。常日頃から深く考えて生きているわけではありません」

「あんたがバカだとアルヤ王国のほとんど全員がバカになりそうだけど」

「想定外のことに弱いんです。計算していた範疇の出来事であれば多少のことには対応できますが、僕がまったく関与していなかったところで急に物事に動かれるととたんに動揺してしまいます。軍師も政治家もあまり向いていないと思います」

「それは大丈夫よ、たいていの人間がそうだから。あんたの場合は冷静なふりができるからいいんじゃないの。軍師も政治家も何かあった時に平気な顔ができる奴がやる仕事よ」

「そうでしょうか、とっさの判断に強い人間もいますよ。ユングヴィとかね」

「あれはふだんから何も想定していないからこそ直感で反射的に行動できるの、短期決戦には強いけど長い目で見たら判断誤りだらけだわ」

 エルナーズが「知らなかったのね」と溜息をついた。

「いえ、テイムルのあの様子から十神剣の誰も知らなかったんだなというのは察してる。テイムルが知らないことを他の十神剣が知ってるってことはまずない」

「王子お二人が十六歳になる直前に王を決めるという話は去年の第十の月デイの十神剣会議で共有していました。ですがその時にはどういう方法で決めるかまでは話題にならなかった。おそらくイブラヒムがこの二ヶ月の間に独断で決めたものと思われます。フォルザーニー卿の反応からしても議会を通過してはいないようです――今日あの感じでは通過したようなものですが」

「やるわね。自分の手を汚さなくてもアルヤ王国は今日から内戦状態だわ」

「軍事衝突にならなければいいのですが。王都で内乱が起こった時白軍に勝てる部隊はありませんから――そして白軍は確実にソウェイル殿下につく。フェイフュー殿下についた勢力はテイムルによる粛清を受けるでしょう。ユングヴィよりサヴァシュよりテイムルが一番厄介です、立場上大晦日までは何も言わないと思いますけどね」

「それでもフェイフュー殿下を選んだ理由は?」

 ラームテインは苦笑した。

「殿下のあの顔、見ましたか」

「顔?」

「世界に誰一人味方なんていないかのような、絶望した顔をなさっていましたよ」

 「僕は知っています」と、深く息を吐く。

「将軍になる前――帝国に売られそうになった時。僕はたぶん同じ顔をしていたと思います。――そう思ったら、いても立ってもいられなかった。フェイフュー殿下に、誰にも助けてもらえないと思ってほしくなかった」

「そんな感情論?」

「そうですよ。策も何もありません。一時の情で動きました。バカです」

「……まあ、自覚しているだけマシなバカということにしておいてあげるわ」

「勝算がまったくないわけではありません。いえ、本当に勝算と言うべきかは疑問ですが、とりあえず現状では突然弾圧を受けることはないでしょう。総督の意思ですから――幸か不幸か僕やナーヒドは今総督に守られているわけです、言い換えればすなわち大晦日までは見守ってくれるということですからね。大晦日までに殿下のご意思を確認して、策を立て、こちら側に有利な方へ話を進めればいい」

「ふむ」

「別にフェイフュー殿下が王にならずともいいのです、勝利条件は生き残って地位を確保することであり王になることではありません。ただ、今のままならフェイフュー殿下は断頭台でしょうね。それを回避するためにソウェイル殿下を断頭台に送るという選択肢をとる必要はあるかもしれない」

 エルナーズが黙った。まっすぐラームテインを見つめた。

「あくまで可能性の話です。ただ、あらゆる可能性を想定しなければ。想定の範囲内であれば僕は動けます」

 ラームテインも表情は変えなかった。

「まだ分かりませんよ。ただ生存することだけを狙うならソウェイル殿下を王に立ててフェイフュー殿下の地位を約束するようソウェイル殿下を脅迫する方が手っ取り早い気もします」

「ただ生存することだけを狙うなら、ね」

「そう。すべてはフェイフュー殿下のご意思次第です。まずは殿下にお考えをまとめていただかねば」

 そこで、ラームテインは「エルは」と問い掛けた。エルが「俺?」と呟きながら身を起こす。

「僕はここまでついてきてくれたからといってあなたも味方だと思い込めるほどの楽天家ではありません。あなたはどちら側なのか教えていただきたいです」

「さすがね」

 一人腕組みをする。

「今はまだ決められないわ。というか決めたくないわ。責任を負いたくない。そもそも王国の政治に関与したくないのよ」

「そう言うだろうとは思っていましたよ」

「今後の話し合い次第で流れていくことにする。どちらについた方が有利かみんなの顔色を探りながら決める」

 「でも」と言って自分の顎に触れる。

「好き嫌いの感情論で決めていいなら。フェイフュー殿下についてもいいわ」

 ラームテインは安易には喜ばなかった。

「フェイフュー殿下を気に入っているんですか?」

「そう、自分がはっきりしてる子の方が好きだから」

 そして苦々しく笑うのだ。

「俺は今でもタウリスを二回も焼いたのは『蒼き太陽』だと思ってる。ましてあんなろくすっぽ会話もできない子なんて、ねえ」

 「俺に責任がなかったらむしろ楽しい状況なのにね」と呟く。

「ソウェイル殿下が嫌いだから、フェイフュー殿下についてもいい」

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