第5話 本を読む猫と古都の蝶は仲がいい?

 礼拝堂は蒼宮殿で一番飾り気のない施設だ。いにしえの宗教で火の燈るところならどんなに質素でも祈るにふさわしい場所となるといわれていたためだと聞いている。草原だろうが沙漠だろうが聖火を燈す台が置かれれば光が届く範囲はすべて聖別されたとみなされるのだ。

 煉瓦を漆喰で固めただけの白い壁の部屋の中、数十名の男たちが中央の聖火台を中心にして円を描くように腰を下ろしている。アルヤ王が取り仕切って行なう国家規模の儀式のための部屋にしては狭い。隙間なく座ってもせいぜい百名くらいしか入らないのだ。信徒であるアルヤ人男性しか入れないので今のところ問題はないらしい。

 入り口からでもラームテインの姿がよく見えた。聖火台の近くにいる。周囲の人間は彼を避けて小さな空間を作っていた。

 華奢な背中はそれでも一本筋が通っていて姿勢が良く均整が取れているように見える。白い横顔は絵に描いたように滑らかだ。全体的に清楚で慎ましやかだった。聖火に照らされるとなおのこと近寄りがたい。誰もラームテインに話し掛けようとしない。

 フェイフューが入ってきたことに気づいた貴族たちが次々と立ち上がった。

「おめでとうございまする」

 フェイフューは適当に「ありがとうございます」と答えながら間を掻き分けて聖火の方へ移動した。

 ラームテインの左隣に立つ。

 これだけの人がフェイフューに挨拶をしているのだ、フェイフューが来たことに気がつかないわけがないのに、ラームテインは知らん顔をして聖火を眺めていた。こういうところは女のようで面倒臭く感じなくもない。だが、相手が王子であっても意地を通そうとする我の強さがいじらしくてどうも嫌いになれない。

「怒っているのですか」

 問いながら腰を下ろした。わざとラームテインの左膝の上に座るか座らないかの至近距離に座り込んだ。膝と膝とが触れる。

 ほのかにいい香りがした。薔薇の香りだ。しかし嫌味なほどではない。あくまで控えめにひっそりと咲く薔薇なのだ。

「怒ってなどおりませんよ」

「いいえ怒っています」

「怒ってなど。怒る理由がございますか」

「そうですよ、何を怒っているのです? 教えてくださいよ」

 肘で腕をつついた。

「麗らかなる春の日の 蒼き空爽やかなり

 清らかなる気に満ち 咲く花鮮やかなり

 土くれの騒ぎ遠く 炎たりとて声立てず

 花よともに歌わむ 今や我がむね静かなり」

 ラームテインは肘でフェイフューの腕を押し返した。

「去る年よ哀れなり 我がむねざわめきにけり

 冬の日は遠からず されど君気に酔いて歌いたり

 咲く花よ哀れなり 水足りず枯れゆきにけり

 春の日は暖まらず されど君知らず時過ぎたり」

 思わず目をまたたかせた。

 去年冬の間にラームテインの身の上に何か面白くないことが起こったらしい。王立図書館に引きこもる前のことであろうか。ひょっとしたらそれが原因で気を病んで引きこもってしまったのかもしれない。ただ、どうやらフェイフューは知らないことのようである。ラームテインは何も知らずに春で浮かれているフェイフューにとやかく言いたい気持ちなのだ。

 それでもフェイフューはラームテインを憎めない。

 詩を詠むとすぐに返答の詩を詠んで返す――これは頭のいいラームテインとだからこそできるやり取りだ。貴重な相棒を失いたくない。

「そんな意地悪は言わないでくださいよ、何があったのです? 話しなさい」

 ラームテインの腕の上に身を乗り出すようにして訊ねた。顔と顔とが近づいた。それでもラームテインはまだ澄ました顔で「どうしようかなあ」と呟いている。

「僕がどれほど心を砕き身をすり潰してお仕えしてもフェイフュー殿下はエルの方がいいの一言で僕を捨てて本気でおひとりで帰ってしまわれるんですものね」

「あの状態のあなたを連れて帰ったところでお互い恥をかくところだったと思いますが?」

 「いえ、よしましょう」と微笑む。

「過ぎた時のことを話すのはやめにしましょう。ラーム、今のあなたは美しいですよ。ここにいる他の誰よりも」

 ラームテインがやっとちらりとフェイフューの顔を見た。

「本当に? 僕のこの一週間の自分磨きの日々は報われています?」

「それはもう、川の女神アナーヒタのごとく」

「エルにも同じことをおおせなのではなく?」

「何を言いますか、アナーヒタは処女神で――」

 ふわり、と。夜の花の香りがした。ひとの欲を掻き立てる花の香りだ。

「俺が、なに?」

 ひとのぬくもりを感じた。背中に覆いかぶさるように、だ。耳元にも吐息が吹きかけられた。

 ぎょっとして振り返ると、すぐ左斜め後ろでエルナーズが膝立ちをしていた。

 秀麗な右半分の顔がいたずらそうに笑っている。柳眉の下の目は細められ、薄紅色の唇の端が持ち上がっていた。

 今日のエルナーズも奇抜な恰好をしていた。薄絹の手袋と空色の石に金細工の耳飾りは先日と一緒だが、首に巻かれる襟巻は朱の生地に青系の糸で刺繍されたものになっていた。着ている丈の長い服は女物で、春らしく色とりどりの刺繍で覆われている。その下に履いている長靴ブーツは乗馬をするための男物だ。頭にのせている臙脂の帽子には黒い羽根が刺さっていた。

 聖なる礼拝堂にこの恰好で来るのもなかなかの度胸だと思うが、彼の場合はなぜかこれが正装だと言われても頷いてしまうから不思議だ。

 エルナーズの右手が、フェイフューの左の二の腕をつかんでいる。

「俺をお呼びです?」

 フェイフューは思わずラームテインに身を寄せてしまった。エルナーズが「あらやだ、そんな反応しなくても」と笑った。

「いつの間に……っ」

「たった今さっきですわ。お二人の姿が見えたから、つい」

 つい、でこの距離感は困惑する。

 不意に後ろから腹を抱きかかえられた。見るとラームテインがフェイフューの腹に腕を回して自分の方へ引き寄せていた。

「殿下に馴れ馴れしいようですね。いくら十神剣といえど王子にその態度はいかがなものでしょうか」

 エルナーズが「あらあらぁ?」と意地悪そうに笑う。

「あんたと殿下の距離の方がよっぽど近くない?」

「僕は殿下に忠誠を誓った身、誰よりもお傍近くでお仕えすることを許されているのです」

「とか何とか言っちゃってやらしいわ、誰よりもお傍近くでってなに? 殿下の身の回りのお世話は十神剣の務めに入ってないわよ」

「さすがエル、すぐいかがわしいことを連想するんですね。何につけても僕の気持ちは真心であなたの気持ちは下心であるということをお忘れなく」

「真心であれば殿下にお触れしてもいいわけ? というかあんたの言うところの真心って何、独占欲?」

 フェイフューは笑ってしまった。

 こういう応酬ができるということはエルナーズもなかなか頭がいい。ラームテインがああ言えばエルナーズはこう言えるというほど口が達者で話がうまいということなのである。

 正直なところフェイフューはエルナーズのことをあまりよく知らない。一年のほとんどをタウリスで過ごすエルナーズとは接点がないのだ。正月ノウルーズをはじめとする季節の行事の時にしか王都に来てくれない。王都にいてもどうもするりするりとかわされているようで一対一で話をしたことはない。

 エルナーズのことをもっとよく知りたい。

 フェイフューが笑うと、ラームテインが黙った。エルナーズはフェイフューのすぐ傍に座り「やだ、面白いです?」などと訊いてくる。

「ラームとこんなふうにぽんぽんと会話をするなど、頭が良くてなおかつラームのことをある程度理解していなければできないことだと思うので。またひとつエルのことを知れたようで嬉しく思います」

「あら、光栄ですわ」

「もっとエルのことを知りたいです。話を聞かせてくれませんか」

「喜ん――」

 そこでエルナーズが「いったぁ」と呟いて後頭部を押さえた。続いてラームテインも「いっ」と声を上げて肩をすくめた。

 後ろを見るとテイムルが引きつった笑顔で拳を握り締めていた。

「フェイフュー殿下は君たちのおもちゃじゃないからね?」

 ラームテインもエルナーズも何かを言い掛けたが、テイムルはフェイフューの手をつかんでフェイフューを起こそうとした。

「さ、殿下、王族はあちらです」

 視線の先ではソウェイルが面白くなさそうな顔をして待っている。

 ソウェイルがいる。つまり、もうすぐ儀式が始まるのだ。

 フェイフューは慌てて立ち上がってラームテインとエルナーズから離れた。

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