第2話 カノの観察眼

「フェイフュー!」


 ウードを抱えて宮殿の北の庭をさまよい歩いていたところを、後ろから呼び止められた。


 呼ぶ声の方に顔を向ける。

 回廊の重々しい屋根の下、柱と柱の間にカノが立っている。


 今日の彼女は春らしい恰好をしていた。丈の長い桜色の服の上に黄色の帯を締め、白地に小花柄の刺繍のマグナエをしていた。


 服装の軽やかさや華やかさに反して、彼女の表情は浮かない。もともと喜怒哀楽の激しい娘だが今日は特に分かりやすく悲しげな顔をしている。ともすれば泣きそうだ。


 フェイフューは面倒臭く思いながらもカノに歩み寄った。

 放っておいて泣かれたらもっと面倒臭いことになるから話し掛けるのだ。

 傍を白軍兵士たちや王族付きの女官たちが見て見ぬふりをしながら通り過ぎていく。人の口に戸は立てられない。


 フェイフューにはカノが今ここで泣こうとしている理由が分かっていた。今日こうして相まみえる前からカノが突っかかってきた時には彼女が何をどう言ってこようと突っぱねると腹に決めていた。予定どおり鉄の意志をもって彼女に相対した。


「何か用ですか」

「そんな言い方ないじゃん」


 声がすでに震えている。


「なんで勉強部屋来ないの。ユングヴィとの武術の稽古は辞めたんでしょ。来れない理由はないんじゃないの」

「行きませんよ、絶対」

「絶対ってなに。てゆうかなんでそんなに怒ってんの、あたしに当たらなくてもいいじゃん」

「怒りますよ、泣き落としで僕を従わせようとして、かわい子ぶって泣いたり笑ったりすれば男は気分よくはいはいと言うと思っているのでしょう、僕は騙されませんからね」

「思ってない、フェイフューはすぐ泣く女の子嫌いってあたし知ってる、だから今一生懸命我慢してるんじゃん、これがソウェイルだったらあたし今頃とっくにびーびー泣いてる」


 言っている間に涙が一筋こぼれた。カノは眉間にしわを寄せてうつむき、涙を隠すように頬を押さえた。


「いいから仲直りしてよ」


 哀れっぽく震える声が耳障りだ。


「何があったのか知らないけどさ。フェイフューが一言謝れば済む話だと思う」


 苛立ちのあまり自分の頭を掻いた。


「何があったのかも知らずに、僕を悪と決めつけて僕に謝罪をさせよう、と。そういうつもりでここまで来たのですね」

「そうじゃない、そうじゃないよ。あたしの話を聞いて」

「聞いてやっているではありませんか、僕はわざわざこうしてあなたと向き合っているというのにあなたの方が泣いていて話せないのではありませんか」

「そうだけど、そうなんだけどさ。あたしだって泣きたくて泣いてるわけじゃないし」

「僕が泣かせているみたいになっているでしょうが」

「あんたが泣かせてるんでしょ!」


 それを皮切りに彼女は両手で顔を覆ってしまった。面倒臭いことこの上なかった。だが放って立ち去れば逃げたとみなされるだろう。周囲を行き交う女官たちの目が気になる。女とは本当に厄介な生き物だ。ウードの首を握る手に力がこもる。


「知らないけど、何となく、分かっちゃうんだもん」


 だいぶ間を開けてから、大きくしゃくり上げながら言う。


「たぶん、フェイフューがあの部屋に来た最後の日。あたしが夕方に行ったら、テイムルとユングヴィがめちゃくちゃ深刻な顔で何か話し合ってて。あの部屋で、テイムルとユングヴィが、だよ? そんな状況ふつうソウェイルとフェイフューが喧嘩してテイムルとユングヴィが仲裁に入ったんだって察するじゃん」


 フェイフューは唇を引き結んだ。女の勘は侮れない。フェイフューの中ではあの騒動は喧嘩に分類されないが、あの日あの場所でソウェイルと揉めたのは確かである。カノはそれだけの状況でそこまで見抜いた。鋭い。


「ソウェイルめちゃくちゃ怒ってるし。あのソウェイルがめちゃくちゃ怒るって、フェイフューがユングヴィに何かソウェイルの癪に障るようなこと言ったな、って思って。ソウェイル自分のことじゃあんなに怒らないもん、ユングヴィに何か変なこと言ったんでしょ――武術の稽古がなくなったのもそのせいでしょ」


 思わず唸ってしまった。


「まるで見ていたかのようですね……」


 しかしカノはそこでこんなことも言った。


「違ったら違うって言っていいんだからね」


 虚を突かれた。


「全部あたしが自分で見た状況から判断したことで根拠らしい根拠はないんだから。間違ってたらフェイフューは違うって言っていいんだからね」


 何度も「いいんだからね」と繰り返して念を押す。


「あたし……、あたし、フェイフューの味方だから。フェイフューの話全部聞くから」


 そう言われると心が揺らいでしまう。

 カノは馬鹿ではないのだ。面倒臭い女だが、自分が思い込みの激しい女であることはちゃんと自覚していて、ひとの話を聞いて軌道修正を試みるだけの頭はあるのである。

 それに、フェイフューは、味方だとか、話を聞くとか、そういう言葉に少し弱かった。

 世界に注目されていたい。


「――でも、カノは僕に、兄上に謝れ、と言うわけですよね」


 涙が引いてきたようだ。彼女は先ほどより少し落ち着いた表情で頷いた。そして、「ごめんね」と呟いた。


「あたし何の話してたのか知らないし、ひょっとしたらフェイフューは真っ当な抗議をしたのかもしれない。けど折れてほしい。悔しいけど……、申し訳ないけど」

「なぜです? 僕には道理を通すことは許されないのでしょうか。僕は正義や信念を曲げてまで兄上に頭を下げるべきなのでしょうか?」


 カノは、また、頷いた。


「そこ、あたし、ソウェイルよりフェイフューの方が大人だと思ってて」


 意外な言葉だった。


「どういうことです?」


 純粋に不思議に感じて訊ねた。

 カノはおずおずと説明を始めた。


「ソウェイル、めったに怒らない代わりにって言ったらなんだけど、一回怒ると絶対許さないじゃん。すごい頑固。ああなっちゃうとだんまりになって対話なんて無理。フェイフューは怒っててもなんで怒ってるのか説明してくれるからソウェイルより大人だと思う」


 なかなかの観察眼である。


「でもソウェイル謝ればすぐいいよって言うから。フェイフューが呑み込んでくれたら解決しちゃうと思うんだよね」


 彼女の言うとおりだ。


「あたしは、道理がどうとかっていうんじゃなくて、とりあえず空気が丸く収まってまたやり取りできるようになったら関係は修復できるって思ってる」


 だがそれは承服できない。根本の原因が解決しないまま表面を取り繕えばまた同じことを繰り返すだろう。第一他人の正義や信念を曲げさせたまま次へ進もうとする人間など信頼できるだろうか。


 ここでフェイフューは言葉を選んだ。まともに自分の意見を述べるカノの姿勢は評価したいと思ったのだ。内容は納得できないものだったが、議論するには足ると感じる。わざわざ突っぱねる冷たい言葉を投げつけることはないと考えた。


「フェイフューがソウェイルに譲ってくれたら――」


 カノがぽろぽろと口から言葉を漏らすように呟く。


「それに……、なんか、こんなこと、あんまり言いたくないけど――」


 次の言葉を聞いて、フェイフューは顔をしかめた。


「ソウェイルは、なんだかんだ言って、『蒼き太陽』だから。『蒼き太陽』に逆らって生きるの、フェイフューがしんどくなるんじゃないかな」


 『蒼き太陽』はどんなわがままでも許されるのだ。

 両手に力がこもる。

 フェイフューの正義は、『蒼き太陽』という圧倒的な力には勝てないのだ。


 さて、どうしたものか。


 その時だった。


「あら、何かございまして?」


 まったく第三者の声が割って入ってきた。


 花の香りがした。何の花の香りだろう。嗅ぎ慣れた薔薇ではない。フェイフューには花も香も皆無と言っていいほど知識がなく薔薇以外を嗅ぎ分けることができないが、とにかく、薔薇ではないことだけは分かる。

 もっと甘く、もっと深く、夜を思わせる――月夜の浪漫を掻き立てる、ひょっとしたら――フェイフューにはよく分からないが、もしかしたら――淫靡な、という言葉がふさわしいかもしれない。


 心が、揺らぐ。


 声の方に顔を向けた。カノも顔を上げ、同じように声の主を見た。


 回廊の奥の方から、長身の人物が歩み寄ってきていた。


 フェイフューは目が奪われたのを感じた。


 均整の取れた長身痩躯にまとう服は藍染の薄手の絹で、胸元の大きく開いた形状をしている。分厚い肩掛けは女性もので、漆黒の生地に銀糸の刺繍が施されていた。首には空色を基調とした色彩豊かな襟巻を巻いている。手にも絹と思われる空色の手袋だ。その辺を歩く一般人ではまず見られない変わった恰好だった。彼にしか着られない服装だ。

 耳元には空色の石が埋め込まれた大きな金の耳細工をぶらさげている。あまりにも重そうで耳がちぎれないか怖いが、彼が歩くたびに揺れる様は非常に優雅だと感じる。

 少し明るい色の、まっすぐの艶やかな髪は、前髪だけが顎までと長く伸ばされていて、後ろ髪はカノのような断髪だった。これもまた、彼だからこそ似合う不思議な髪形だ。

 長い前髪は額の右側で分けられていて、顔の左半分を覆い隠している。

 あらわになっている右半分は、高い鼻筋、はっきりとした眉、薄く赤い化粧を施した目元――端正で、だが不敵に釣り上がった唇はいやらしくて、妙に気を惹かれる、邪悪な美貌の――


「エル!」


 カノが呼ぶと、彼は右目を細めて微笑んだ。


御機嫌ようサラーム、フェイフュー殿下、カノちゃん」


 西方将軍――くう将軍、エルナーズだ。


 すさまじい存在感だ。一目ですべてを持っていかれる。美貌も髪形も服装も宝飾品も何もかもが、エルナーズ、という強烈な存在を印象付けるためにあるのだと思わされた。





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