第8章:紫の猫と空色の蝶

第1話 本を読む猫の主な生息地

 エスファーナの、東西で言えばほぼ中央、南北で言えばやや北に位置する町の一角に、アルヤ王国最大の図書館がある。

 この図書館の敷地内を歩いている時、フェイフューはアルヤ民族の歴史を感じる。

 ここはもともとは古代宗教の神殿の跡地だったのだそうだ。年間を通して絶やすことなく火が焚かれ、古きエスファーナに住んでいたアルヤ人を照らし続けていた。

 いにしえのアルヤ帝国はサータム人の手で滅ぼされた。当時はまだ今のサータム帝国に当たる国は存在しなかったが、ともかく今サータム帝国で国教とされているあの宗教の信徒たちが押し寄せ、大帝国アルヤは一度滅亡の憂き目を見た。ここにあった神殿は一度サータム人の宗教の礼拝所として改築された。

 今から数えて二百年ほど前、ソウェイルと名乗る蒼い髪の青年が突如として現れた。彼はかつてのアルヤ帝国の中でもアルヤ語が優勢だった地域を自らの支配領域としてエスファーナを首都と定めた。そしてかつての古代宗教の火とひとつになり太陽と呼ばれ始めた。この経緯はあまりにも神話的でフェイフューには少し信じられないのだが、何はともあれソウェイル王は古い宗教と自分を結びつけることで新しいアルヤ王国を打ち立てることに成功した。礼拝所になっていたここは僧侶のための学問所として再度造り直された。

 正式に図書館になったのはソウェイルとフェイフューの祖父に当たる王の時代だ。祖父は膨らみ続ける蒼宮殿の蔵書の移譲先を求めた。白羽の矢が当たったのが由緒正しい土地に立派な建物のあるここだ。蒼宮殿からも遠くなく、エスファーナ大学はすぐそこである。王は学問所を買収し、無数の書棚を据え付けさせ、維持費を王族のための予算から捻出した。

 アルヤ王国がサータム帝国に敗北し属州に転落した時、アルヤ属州総督となったウマルはこの図書館を手厚く保護した。とりわけ貴重な書物は本国へ疎開させた――というていで実質的には接収した――が、捨てたり焼いたりなどはしなかった。

 四年前――そろそろ五年前といった方がいいだろうか、のちにタウリス防衛戦と呼ばれる戦争でサータム帝国軍に勝利したアルヤ人の軍隊はアルヤ王国の再興を果たした。そして、王立図書館の管理の権限も取り返した。王国議会は総督ウマルに取り上げられた書物の返還を求めた。皇帝は要求に応じて次のアルヤ王の即位の時に明け渡すと約束した。

 そして現在に至る。

 歴代の王が威信をかけて増改築を繰り返した王立図書館は今やアルヤ建築を代表する施設となっている。

 柱という柱が、蒼、青、白、金の石片タイルの幾何学模様で埋め尽くされている。窓にはアルヤ硝子ガラスがはめ込まれている。壁に石片タイルで描かれた巨大な宗教画――金色の日輪に彩られた蒼い太陽が蒼い空と青い大地を照らしている。庭には均等な幅で造られた水路があって水が涼しげに流れており、植えられた木々は等間隔に並んでいた。飲食物の屋台が散見されるのが少し下品に感じられるが、一日じゅう図書館に滞在する人間がたくさんいるので仕方がない。

 この図書館は、住もうと思えば住める。

 住みついてしまう人間も結構な数いる。

 大半は貧しい浮浪者だ。住まいを失った者が風雨をしのぐために忍び込む。図書館の管理に携わる役人たちはそんな連中を寺院など他の適切な施設に移したり住み込みの働き先を斡旋したりして何とか図書館から排除してきた。

 だが、貧しくもないのに図書館をすみかにしようとする連中も一定数いる。

 本の魔力に取りつかれた変態たちである。

 彼らは往々にして社会的には高位の人間だ。僧侶であったり、大学生であったり、貴族であったりする。潤沢な財産と優秀な頭脳は余らせ、常識や理性は持ち合わせていない。役人に袖の下を渡して見逃してもらう者もおり、役人には口を利くことすらおそれ多い地位を振りかざす者もいる、と聞いている。実態は不明である。図書館の利用者たちから大華たいか帝国の伝説になぞらえて仙人やら賢者やらと呼ばれている彼らは書棚の陰にひそんでなかなか出てこない。

 そのうちの一名、王立図書館の中でも最深部にもぐり込んで出てこないアルヤ猫を引きずり出すのが本日のフェイフューの仕事である。

 重い鉄の扉を開け、薄暗い地下への階段を下りた。

 ここは一般人には出入りできない書庫だ。表の閲覧室には出せない、非常に重要な資料が格納されている。

 この書庫に出入りできるのは特別な許可のある人間だけだ。許可を出せるのはアルヤ王――今は総督イブラヒム――のみで、出す対象となれる者も限られており、王族、上級文官、白軍幹部、そして――

 書庫の奥の奥、真っ暗な闇の中で、ほのかに光る明かりが見えた。

「見つけましたよ」

 フェイフューの声に反応して、明かりが揺らいだ。

 逃げる隙を与えぬよう、しかし図書館を利用する者の礼節としてけして走る速度にはならぬよう、大股で歩み寄った。

 書棚の角を曲がって、奥の空間を手に持っていた油灯ランプで照らし出した。

 床に積み上げられた書物の山が作る谷の真ん中で、ひとりの男が西洋風の角灯ランプを抱えてうずくまり、震えていた。

 華奢なその身にまとっているのは薄汚れた寝間着のような服だ。適当に長く伸ばされた髪は脂ぎり、毛先が四方八方を向いている。長い前髪の下は整えられた感じがまったくないひげと眉、目元は寝不足なのか光不足なのかくまを作っていて、首は垢で汚れていた。全体的に血色が悪く亡霊のようだ。

 もはや誰か分からない。

「あ、あ、殿下、どうしてここに」

 長い間出していなかったのであろう声は少しかすれて不明瞭だった。

 フェイフューは、右手で油灯ランプを持ったまま、左手で自らの額を押さえた。

「いえ、僕も読書は好きなので、気持ちは分からなくもないのですよ。嫌なことがあった時は戯作でも読んで気を紛らわす、そんな時もあります。ですがあなたの場合度が過ぎるのですよ。ここまでくると一周回って馬鹿です」

 「今日が何月何日か分かりますか」と問い掛けた。男が肩を縮め込ませた。

「……第十の月デイの十神剣会議に出たところまでは記憶があるんですけど――」

第十二の月エスファンドの! 二十三日!」

 フェイフューの声だけが地下室に響いた。

「いい加減になさい、ラームテイン!」

 男が――ラームテインが、角灯ランプを抱えたままその場に正座をした。

「本気で二ヶ月ここにいたのですか!?」

 小声ではあったがすぐに「はい」と答えられた。フェイフューは「阿呆が!」と怒鳴った。

「まさかまさかと思ってイブラヒム総督に訊いてみればこれですよ! 総督もすっかり忘れていたそうでそんな何週間も前の話あるかみたいに笑っていましたがあるのですよねあなたの場合は!」

「はい……すみませんあります……さすがに今回は最長記録を更新したようですが一ヶ月くらいならわりと頻繁に……」

 歩み寄るとひどい臭いがした。香水と体臭が混ざった、何かが腐ったような臭いだ。二ヶ月も入浴しないとこうなるのだろう。知りたくなかった臭いだ。

「臭いです……過去最低のラームを見ました」

「意図せず最低になりました……心よりお詫び申し上げます……」

「情けないですよ。十神剣ならここに出入りと知った途端これとは――昔はこんなことなどありませんでしたのに」

 過ぎ去りし時に思いを馳せながらかつてちまたで流行した詩を朗唱する。

「世に名だたる美しきもの

 西のエルナーズに都のラームテイン

 いにしえに伝え聞く天使を思う

 百万の宝石いしよりなお国の宝としてる」

 フェイフューにとってはお気に入りの詩だったが、ラームテインは「その詩は何度聞いても気持ちが悪いですね」という評価を口にした。

「十神剣一の美男はエルで結構です。僕がそう言ってほしいと思ったことはいまだかつて一度もございません」

 その返答を聞いてフェイフューも少し考えた。

 本人の言うとおりだ。フェイフューは彼が少年時代その美貌に振り回されて嫌な思いをしてきたことも知っている。大学に行かなくなってしまったのも通っていた講義の博士に性的な嫌がらせを受けたからだ。ただ、十神剣になったばかりの頃は自由に使える金銭を得て着飾ることを楽しんでいた。あの頃のラームテインが一番輝いていたように思う。とはいえそれもフェイフューの押しつけかもしれない。

「だからといってこんな暮らしをしていたら健康を害しますよ。まともなものを食べ、運動し、風呂で垢を落とし、睡眠をとる。規則正しい生活が健全な精神をはぐくむのです。そして健康な肉体と健全な精神が副産物として美貌をもたらすこともある、ただそれだけのことです」

「なかなか厳しいことをおっしゃる。僕が夢の世界に行かないのではなく、なぜか朝の方が来るのです」

「いずれにせよもうすぐ正月ノウルーズ、将軍としての仕事がたくさんあるでしょう。人前に出ずっぱりです。せめて会った人間に不快感を与えぬ程度に身なりを整えてください」

 書物の山を抱えて「嫌だ、出たくない」と主張したラームテインの脇に腕を通した。そして、抱えて出入口の方へ歩き始めた。ラームテインの体は軽くフェイフューの力でも充分運べる。書物の山が崩れたが気にはしていられなかった、あとで係の者に言いつけて片づけさせることにする。

「ほら! お立ちなさい!」

「お許しください、何とぞお見逃しください」

「ああ、もう!」

 地下書庫を出て、鉄の扉の前に辿り着いた辺りで廊下に放り出した。

「分かりました、もういいです。ラームを連れて歩くのはやめにします」

 ラームテインが長い前髪の下で「えっ」と目を丸くした。

「この正月ノウルーズはエルとつるみます。どうせなら見目麗しい方がいいので」

「殿下、そんな――」

「さようなら」

 ラームテインに背を向けて歩き出した。本気で彼との縁を切るつもりはなかったが、少しは反省してくれることを祈る。

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