第15話 強い国、正しい国

 気がついたら、蒼軍の本部、幹部の執務室のある棟の回廊を歩いていた。


 すれ違う蒼軍の兵士たちがフェイフューの顔を眺めている。きっと殴られた頬が腫れて目立っているのだろう。


 蒼軍の兵士たちはフェイフューを見てくれる。

 やはり、注目されていたかった。世界に自分が存在していることを知ってほしかった。いないものとして扱われたくなかった。

 世界に溶けて消えたくない。


 やがて奥の方から小走りで近づいてくる影が見えてきた。後頭部で長い黒髪が尾のように揺れている。ナーヒドだ。


 ナーヒドはフェイフューの目の前で立ち止まった。

 フェイフューだけを、黙って見つめている。


「兄上に殴られました」


 自分から申告した。ナーヒドはすぐに「さようか」と頷いた。


「鏡を見ていないので分からないのですが、僕は怪我をしていますか?」

「唇が切れて血が出ている」


 ナーヒドが「とにかくこちらへ」と言ってきびすを返した。奥には蒼将軍の執務室がある、おそらくそこへ導きたいのだろう。


「すぐに医者を――」

「結構です。痛みなどはないので」

「しかし手当ては必要にござるな」

「ではあなたがやってください」


 ナーヒドは蒼将軍であり、中央守護隊の隊長であって、王族の世話係ではない。ナーヒドがしている武官の仕事は本来王族とは直接関係ないのだ。それでも自分の仕事を放り出して王子の傷の手当てをするだろうか。

 ユングヴィならするだろう。将軍としての職務を放り出して、手当てをして、抱き締めたり頭を撫でたりして慰めようとするだろう。

 ナーヒドなら、どうするだろう。


 次の時、フェイフューは後悔した。


「かしこまった。いずれにせよこちらで立ち話というわけにはまいらぬ、将軍の部屋にて手当てをさせていただく」


 言いながらナーヒドは歩き出した。


 フェイフューは表向きこそ素直に「はい」と頷いていたが、叫び出しそうなのをこらえていた。


 自分はなんと矮小なのだろうと思った。甘えであり、同時に真心への疑念だ。ナーヒドはあの女よりもずっと真剣にフェイフューのことを考えてくれている。こんなふうに試すべきではない。


 だが、抱き締めたり頭を撫でたりはしてくれないのだ。


 そういう幼稚な発想を抱いた自分自身が何よりもいとわしい。恥ずかしくて、情けなくて、みっともなくて、あさましくて、愚かで、本当に愚かで、認められるべきものではない。おとなの男としてありえていいことではない。


 すべて呑み込んだ。




 出血はすでに止まっていた。念のためにと唇に薬を塗って木綿布の切れ端を貼ったが、正直に言って大袈裟である。


 ナーヒドは新兵に氷水を張った金だらいを用意させた。

 氷水に布を浸す。硬く絞り、フェイフューの頬に押し付ける。

 その冷たさをフェイフューは気持ちがいいと感じた。自分で認識しているより腫れて熱をもっているらしかった。


「ご自身で押さえられるか?」


 問われて、フェイフューはすぐ「はい」と答えた。布越しとはいえナーヒドに頬を押さえられているというのが気恥ずかしかったのだ。ナーヒドの手とぶつからないよう布の端に指を這わせて、ナーヒドの手が離れると同時に自分の手を移動させ、手の平で布全体を押さえた。


 布が本当に冷たい。

 まだ寒い春先だ。冷たい氷水の中に手を突っ込んで布を絞るというのはそこそこの苦役だっただろう。

 ナーヒドはそれでもやってくれた。

 それで充分ではないか。


「ソウェイル殿下と喧嘩をなさったのか」


 左手で左頬の布を押さえたまま、フェイフューは上半身を長椅子の背もたれに投げ出した。


「喧嘩ではありませんよ。兄上が突然一方的に怒り出したのです」

「殴り返しなさったのか」

「いいえ」

「では、フェイフュー殿下だけがお怪我なさったと?」


 何と答えるのが正解なのか一瞬考えてしまった。

 『蒼き太陽』に怪我をさせたとなれば大ごとだ。首を刎ねられても仕方がない。そうならなかったことに安心してもらえるのだろうか。

 あるいは、やり返せ、と叱られるのではないかとも思った。昔まだ手習い所にいた頃、フェイフューが学友と喧嘩をするとナーヒドはしばしばそんなことを言った。相手に自分より弱いと思われたら侮られてしまう。そんなフェイフューの態度を非難するかもしれない。


 ところが、ナーヒドはフェイフューがまったく予想していなかったことを言った。


「ソウェイル殿下は案外すぐ手を上げられるようだな。臣下の者に安易に暴力を振るうのは君主たる者としていかがなものか」


 フェイフューは心が軽くなるのを感じた。

 ナーヒドがソウェイルを批判した。

 ソウェイルが間違っているのだ。


 上半身を起こして話し始めた。


「ユングヴィが訪ねてきまして。ユングヴィが仕事を辞めると言うので、僕はそれは道理に合わないと思ってユングヴィを批判したのです。そうしたら兄上がユングヴィにそういう口を利くなと怒り出しました」

「仕事? 何やら武術の稽古をなさっているとお聞きしたが、それのことか」

「そうです、それです。少し前からユングヴィの都合で休止状態だったのですが、今日正式に辞めたいとの申し出がありました」

「なぜそのようなこと。殿下は熱心になさっているとテイムルから聞いていた、年少者の面倒見のいいあやつがそう簡単に放り出すとは思えぬのだが――」

「それがですね」


 拳を握り締める。


「妊娠したのだそうですよ。子供ができたから、仕事はできないのだそうです」


 ナーヒドが一人腕組みをして瞬いた。


「聞いていないぞ」

「ナーヒドもですか」

「よりによって今か。あの夫婦は何を考えているのだ」


 ナーヒドとまっすぐ向き合う。


「僕はなんだかないがしろにされたように感じたのです。だからといって、そのような感情的な理由でユングヴィを非難したのかと言われたら、それはまあ、不徳の致すところと言わざるを得ないのですが……、でもそう感じる僕は間違っているでしょうか」


 すぐに「いな」と返ってきた。


「一度引き受けた仕事があるのならば最後まで責任をもって取り組むべきだ。まして相手がいるのならばなおのこと途中で辞めるべきではない。身重になれば武術などできないのは分かり切っていること、子を作りたいのならば最初から受けるべきではなかったのだ」


 そして断言した。


「これだから女に責任のある仕事をさせるべきではない」


 フェイフューは「そうですよね」と頷いた。


「そもそも人前に出てくること自体問題なのだが――女は後方にあってしかるべきだ。家を守って外に出てくるべきではない」

「最近カノが算術をやっているのですが、女に必要なのはそういうことですよね」

「なるほど算術か。まあ家庭も小さな経済社会にござれば、家計を把握できる女がいれば男が戦場に行ったあとの留守の役に立つかもしれぬな。カノはまともな教育を受けている、女子教育とはそうであるべきだ。それに比べてユングヴィは、子があって将軍としての仕事ができない時ほど勉強しろと言ってあるのに、体調が悪いだの子が泣くだのと言い訳をしてやらない」


 眉間にしわを寄せる。


「だいたいあやつは昔から頭が悪い。異民族の男などと子を作って。しかも相手は遊牧民で、逃げられたらどうする気なのか知れない。現実的でないし、道徳的でない。アルヤ人女性として間違っている」


 胸のすく思いだ。


「まことに頭のいい人間は相手に自分が間違っているかもしれないなどとは思わせずにうまく自分の筋を通すものだ。殿下に自分は間違っているかもしれないと思わせた時点であやつの負けなのだ」

「そう、きっとそうですね」


 確信して、頷く。


「僕は間違っていません」


 ナーヒドも、頷いた。


「兄上はそれでも女がいるから戦争に勝てるのだとおっしゃるのですよ。女がいれば労働力が倍になると信じておいでです」

「残念だが、女がいようがいまいが戦争はできるが、男がいなければ戦争はできないのでな」


 何もかもナーヒドの言うとおりだ。


「男がすべて戦場に行ったとて女だけで社会を回せるかといったらけしてそうではない。女がいたとて労働力は単純には倍にならないのだ。働くといっても家事手伝いの奉公に行くのがせいぜいだろう」

「兄上が間違っているのですね」

「そうと申し上げるほかなさそうだな」

「何が、女を尊重できない男は国を滅ぼす、ですか。兄上の腑抜けた考え方の方がずっと危ないですよ」


 そこでふと、ナーヒドが笑った。


「殿下ならばどのような国がいいとお思いか?」


 フェイフューはすぐ答えた。


「強い国がいいですね。男女の別をはっきりさせた、女が男の戦争の邪魔にならないような国がいいですよ。みんなもっとわきまえた、道理にかなっていて、現実的で、仕事のできる国でありたいものです。女に振り回される弱い国はだめです。強くて正しい国でなくてはなりません」

「そういう政治を御自らの手でなさりたいとお思いになったことはござらぬか」


 問われて初めて考えた。


「僕が自らの手で政治を?」


 書物の話だと――部屋の中だけ、机の上だけの話だと思っていた。


「『蒼き太陽』でない僕が政治をやって、国は乱れませんか」


 フェイフューのその問い掛けを聞いて、ナーヒドは顔色を変えた。フェイフューに背を向け、不自然に窓の方へ歩み寄ってから小声で「あまり深くお考えになるな」と言った。


「ただ……、その、なんだ。女を甘やかして忠臣を殴るような王では、お諫めする立場の人間が必要ではあるまいか、と」

「それは、まあ……、そうかもしれません、ね」


 それきりナーヒドは何も言わなかった。


「僕が、政治を、ですか……」


 いったい何が正解なのだろう。


 フェイフューは、また一歩、未来に向かって踏み出した。






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