第8話 フェイフューにとっては屈辱だ

 ユングヴィの首と顎の境目を狙った。関節のひとつであり人間の致命的な急所だと教わった部位だ。ここを掌底で突けば殺すことも可能だ。


 殺す気でかかってこいと言ったのはユングヴィの方だ。もしこれで怪我をして重大な後遺症が残っても自分のせいではない。

 それくらいの心意気で突っ込んでいったのに――


 ユングヴィは上体をフェイフューから見て左へわずかに逸らした。

 そして左の手刀でフェイフューの右肘を叩いた。

 また肘をやられた。


 腕が曲がる。直進できなくなる。


 一瞬動揺した。

 ユングヴィはフェイフューの動揺を見逃さない。すかさず跳び込んでくる。

 一足飛びに間合いを詰めた。フェイフューのすぐ胸元に迫ってきた。


 ユングヴィの存在をすぐ傍に感じてから、フェイフューは、しまった、と思った。

 胸ががら空きになってしまっている。このままではユングヴィに鎖骨をもっていかれる。


 左手で抵抗しようとした。

 けれどユングヴィはそれも見逃さなかった。

 左の手首をつかまれた。

 ユングヴィの方へ引かれた。

 胸がユングヴィの胸に衝突した。


 まずい。この距離では身動きが取れない。


 後ろから首を押さえられた。

 頭を抱え込まれる。首、頭の付け根をつかまれているので顎を上げられない。強制的に下を向かされる。

 額がユングヴィの胸に触れた。

 柔らかい。

 そう感じた次の瞬間――ユングヴィの右膝が、フェイフューの顎に触れた。


「――この辺にしときましょうか?」


 胸の奥が冷えた。

 危うく膝蹴りで顎を割り砕かれるところだった。

 ユングヴィはその気になればいつでもフェイフューを殺せる。


 だが――やられてばかりではいられない。


 フェイフューはその体勢のままユングヴィの腰に腕を回した。

 骨盤を押さえれば動きを封じられるはずだ。そのまま後ろに突き飛ばして、地面に押さえつけてやる。


 頭の中では完璧なのに――ユングヴィは片手でフェイフューの帯の後ろをつかむともう片方の手でフェイフューの後頭部を上から押した。

 フェイフューの頭はユングヴィの胸の柔らかさを味わった後地面に落ちかけた。

 肩がおかしくなりそうなのを感じてつい腕を離してしまった。


 ユングヴィの手がフェイフューの帯を彼女の方へ引っ張る。腰が浮く。頭が自分の股の間に入って尻が彼女の方に向く。


 足が地から離れた。

 天地がひっくり返る。

 浮遊する感覚。

 しかしその感覚も一瞬のことだ。

 気がついたら、地面に転がされていた。

 いったいこれで何度目だろう。


 呆然としているとユングヴィが腰の上にまたがってきた。フェイフューの無防備な左手首をつかんで持ち上げ、肘を捻ってから、手を背中に触れさせた。腕がねじれる。

 痛い。

 だが痛いと喚くのは悔しい。


 動く方の手で地面を叩いた。


「こ……っ、降参です……っ」

「よしよし」


 ユングヴィが手を離した。左手の痛みがなくなってようやくフェイフューは息を吐いた。


 ユングヴィが体の上から退く。


 すぐに上半身を起こした。


「もう一回! もう一回やらせてください」

「いいですけど、ちょっと休憩してからにしましょうよ」


 ユングヴィは顔色ひとつ変えない。いつもと変わらぬへらへらとした笑顔でフェイフューを見つめている。


 悔しい。


 ユングヴィと稽古を始めてかれこれ一週間が過ぎたが、毎日こんな調子で一回もユングヴィを倒せない。それどころか、表情を変えさせることすらできない。

 こんなはずではなかった。

 女のくせに、強すぎる。


 悔しい、悔しい。


 理屈の上では完璧のはずなのだ。筋力も――彼女も一度つかんだら離さない強靭な握力の持ち主ではあるが、それでも――自分の方が多少は上のはずなのだ。第一しょせん女だ。触れる肉体は柔らかくて薄い。ひとつでも攻撃が決まればどうにでもできるはずなのだ。


 何にもできない。

 毎日地面に転がされている。


 悔しい、悔しい、悔しい。


「もう一回……っ」

「焦ってもいいことないですよ。むしろ、焦れば焦るほど隙ができるってもんですよ。休憩です、休憩。深呼吸をして」

「僕は休憩は結構です。ユングヴィが休みたいと言うのなら別ですが、僕を気遣ってのことでしたらよしてくれませんか」


 次の時だった。

 ユングヴィが突然、「ふふっ」と声を漏らして笑い始めた。

 馬鹿にされた。


 口元を押さえつつ――だが目は細めて楽しそうな表情をしたまま――「ごめんなさい」と呟くように言う。


「殿下は負けず嫌いなんですね」

「それが、何か?」

「いやあ、なんだか、男の子って感じで、可愛いなあ、と思って」


 頬が真っ赤に染まった。

 あまりのことに絶句して震えてしまった。

 侮辱だ。


 ユングヴィが明るい声で続ける。


「ソウェイルにもそれくらいの威勢があったらいいんだけどなあ、どうして二人で分け合ってとんとんにならなかったのかな。双子ってそういうものなのかなあ」


 こちらは毎度必死で向かっているというのに、この女はこうして笑ってその気持ちを踏みにじるのだ。

 悔しい。

 だが勝てない。

 どうやったら思い知らせてやれるのだろう。


「でもほんと、焦らないでくださいね」


 ユングヴィが手を伸ばす。

 フェイフューの金の髪を撫でる。

 殺してやりたいと思った。

 けれどいくら抵抗してもフェイフューの反撃はまったく通用しないのだ。


「殿下はすごくいっぱい吸収してると思いますよ。すごくおぼえが早い。素直で頑張り屋さんなんですねえ」


 言葉が出ない。


「ナーヒドもあれこれ教えてて楽しいだろうなあ」

「……どうも……」


 作り笑いもできない。


 どうして女は上からか下からかしか話ができないのだろう。対等な人間として会話している感じがしない。話していて不愉快だ。


「殿下はいいなあ」


 彼女はなおも微笑んでいる。


「普段は穏やかで品がいいのに、いざという時は譲らないでちゃんと向かってくる。それでいて、素直で頑張り屋さん。そういうの、ユングヴィはかっこいいと思いますよ。殿下、女の子にモテるでしょ」

「はあ?」


 とうとう素が出てしまった。慌てて笑って「そんなことはありませんよ」と言ったが時すでに遅しだ。


 ユングヴィが目を丸くする。


「自覚がないんですね」


 自覚も何も、ユングヴィの言うことは的はずれだ。品がいいのは王族として気品ある態度を心掛けているから当然だが、穏やかなどとはユングヴィ以外の誰にも言われたことがない。ソウェイルには定期的に「お前は頑固でずるい奴だ」と言われるので――無駄な努力をして時間や労力を浪費するより知識と論理で最短距離を走りたいだけなのにソウェイルの目にはずるく映るらしく――そちらの方が自分の本質に近い気がしている。


 女というものはどうせ自分にとって都合のいい上っ面しか見ないのだ。


 それでも、彼女から吸収できるものがある以上は、彼女をよく観察して挑まなければならない。

 彼女が自分より強いのはゆるぎない事実なのである。

 超えなければならない。


 ユングヴィが立ち上がった。


「今度は何をしようかなあ」


 まるで歌うようなその台詞に余裕を感じる。


 隙だ。この隙を突かなければ――そう思った。


 地面に座った状態のまま、ユングヴィの膝の裏を叩こうとした。

 ユングヴィが左足を持ち上げた。

 ユングヴィの左足がフェイフューの体に絡みつく。

 腋の下を膝で固められた。

 動けない。


 それでもユングヴィの腿をつかもうとした。つかんだところで関節ではない部分では何にもならないと分かっていても何かしたかった。


 ユングヴィの左手が伸び、フェイフューの右手をつかんだ。

 指と指の間に、ユングヴィの指が入ってくる。

 組み合わされる――そう思った直前に、ユングヴィの指が曲がった。

 指の第二関節を押さえられてしまった。

 指の付け根が痛い。このままでは指が折れる。


「い……っ」


 思わず声を漏らしてしまった。

 ユングヴィが笑った。


「ふふふ、いつでもどうぞ」


 悔しすぎる。

 フェイフューが抵抗をやめ体から力を抜いたのを見て取ってから、「でもやっぱちょっと休憩かなー」などと呟く。


「そうだ、殿下、明日ちょっと街に出掛けませんか」

「街、ですか」

「そうそう、息抜きに、ぶらっと。お昼、庶民の食べるおいしいものを何か紹介しますよ。屋台、楽しいですよ」

「息抜きでしょう? 修行になりませんよ」

「街をぶらぶらしながら、どういうところが危ないかとか、こういう時に襲われたらどう対応するかとか、そういうの考えるのもすごく為になりますよ」


 そう言われるとそんなような気もしてくる。

 惑わされてはいけない。


「とりあえず、テイムルに相談してみますね」


 できることならテイムルに断ってほしかった。近衛隊長のテイムルがだめと言うならだめなのだと主張をすることで、自分のせいではない形で破談になってほしかった。




 この日の夕方、テイムルは朗らかな顔で「いってらっしゃいませ」と言ってくれた。フェイフューは失望した。





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