第3話 エスファーナ大学西洋政治哲学研究室

「――しかれどもひとたびこれを倒し、ふたたびいくさすることのあたわぬほど戦場いくさばにて叩ければ、きみの血のほか気にかけるものなし」

 フェイフューが朗々と読み上げる。

 それを数名の青年たちが傾聴している。

 青年たちはフェイフューよりはるかにこの書物に精通している。いまさらこの章の話をされても面白くはないだろう。だが、彼らはフェイフューのやる気をかってくれている。ずっと年下の新参者であるフェイフューでも真剣に相手をしてくれるのだ。

 ここはアルヤ王国の最高学府エスファーナ大学だ。すべての学ぶ者を庇護する場所、学問を愛する者を愛する場所だ。

 まことに学問を志す者は新しく学び始めた者をけしておとしめない。

「逆に言えばまずは血統を断つべきです。帝国は骨の髄からアルヤ王国を支配したければ兄上と僕の首を刎ねるべきでしたよね」

 述べたフェイフューに対して、浅黒い肌の青年が「第三巻」と鋭く指摘する。

 机の上に置かれた、表紙に三という数字の添えられた書物を手に取る。章題で察する。

「ことば、ならわし、おきての異なりし国々を得た時――」

「サータム人とアルヤ人とではことばが違う。暦も違う――向こうは太陰暦でこちらは太陽暦、年でいうと十日もずれるようなところだ。もっとも恐るべきこととは?」

「民の恨みを買うことです」

「アルヤ王国におけるアルヤ王とは血による古いおきての守護者だ。力にも運にも左右されない強固な地盤があり、アルヤ王がいかなる施政者であっても臣民は王の権利が侵されれば自分たちの権利が侵されたと考える」

 別の、あごひげをたくわえた青年が「宗教君主国の章を読んだ方がいい」と投げ掛けた。

「西洋のハアサ教なる宗教の最高司祭、いわゆる教皇というものについて論じている。そもそもアルヤ王国の多神教であるところの拝陽はいよう教とは文脈が異なり、むしろ一神教のシャリア教の方に通じるところがあるが――」

 「異議あり」という声が上がった。

「シャリア教徒の国であるサータム帝国には皇帝と教主カリフが合一された経緯がある、今は世俗と宗教の権威がひとつになっている。サータム帝国の君主制は西洋諸国よりアルヤ王国に近い形態だ」

「そうだ、皇帝にも教主カリフにも教皇のような任期はないし、そもそも教皇は世襲制ではない。まったくの別物だ、同じ次元で語るべきではない」

 まったく別の角度から切り込む者が現れた。

「いや、待て、宗教君主国は十一章だ、まだやっていないだろう」

 最後の一言をきっかけに、「教室に来る前にすべて目を通すよう言ってある」「通読することと査読することは違う」「間を飛ばして必要な章から勉強すればいい」「述べられている順番にも意味があるはずだ」と教室内が喧々諤々けんけんごうごうの騒ぎになった。

「そもそもそんな枝葉末節を論じて何になる? 卿は宗教君主国を論外としている」

「書かれていることすべてが重要だ、ないがしろにしていい文などない」

「ないがしろにしているだと? この俺が、この書を?」

 フェイフューは慌てて叫んだ。

「あー、もう、分かりました! やりましょう! 読みました、全部読んでいます、大丈夫です! どの章でもやりましょう!」

 碧眼の青年が「いいですか殿下、まずはですね――」と言いながら立ち上がる。隣のひげ面の青年も立ち上がって「急いては事を仕損じるぞ」と主張した。

 浅黒い肌の青年が「みんな戻れ、学問の仕方について議論したいのではない、君主と家臣の関係について議論したいのだ」と怒鳴った。

 全員が一瞬黙った。

 遠くから笑い声が聞こえてきた。

 笑い声のした方――教室の後方、扉の方を見た。

 頭にターバンを巻いた恰幅のいい壮年の男性が教室に入ってきたところだった。

「博士」

 学生の一人が博士に「何か面白いことでも?」と問い掛けた。博士はなおも笑いながら答えた。

「諸君らは先輩になったのがよほど嬉しいと見える。新入生が来てからというものずいぶんと賑やかになった。しかも黙って聞いておれば新人に学問の作法の何たるかを教え込みたいようだ、諸君らもなかなか俗物だな」

 ひとりが「こいつが一から手取り足取り教えたいと言うから」と言って仲間を指差すと、差された者は「若者を導くのは先人の務めだ」と反論した。別の人間が「導いている? 聞いてもらっているの間違いではないのか」と揶揄する。

「おのが知識をひけらかしたいのだ」

「ほら、また学問とは何かという議論に戻ってしまう」

 その言葉が出た途端、一同はどっと爆笑した。

「なんだ、進まないなあ」

「まあ、いつものことだ」

 打って変わって和やかな雰囲気だ。議論を離れると皆元の気性は朗らかなのだ。

 博士が教室の前方までやって来た。どっかりと床に腰を下ろして、足と足を組み合わせた。

「月日の流るること矢のごとしとはよく言ったものでございますな。殿下が教室にいらしてひと月、皆すっかり慣れて自分が出てきた。最初は王子様相手に論をぶつけるなど不敬ではないかとびくびくしておったのに」

 そして、微笑む。

「今だから申し上げますがね、ここに王族を受け入れるという話が出た時はそれこそたいへんな議論を致しましたぞ。皆が皆三日三晩は寝ずに考えました。私もです」

 手にしていた本を机の上に置きつつ、フェイフューは「迷惑でしたか」と問い掛けた。博士は目を細めて首を横に振った。

「西洋政治哲学の研究室ですからな。何でも、しろ軍に過激思想の学生が集まるともくされているとのこと」

「ご存知だったのですね」

「この教室は代々そういうところにございます。私が室長になる前からずっとね。もとより覚悟のある者だけが入ってくるのです」

 フェイフューもそしられることなど恐れていない。学びたいことがあるなら人目を気にせず跳び込むべきだと思ったからここにいる。

「俗世のまつりごとと学問の政は別です」

「そうと思わない民のいかに多きことよ」

 「されどもこの教室を出て官吏になる者もございます」と語りつつ、自らのあごひげを撫でる。

「学問とは手段。真理に、そして自らの思うおのれに近づくために修めるもの」

 フェイフューは胸をつかれたような気がした。

「殿下はこの書を読み通したのちどうなさるおつもりで?」

 視線が泳いでしまった。机の上に置いた手を握り締めた。

「学問をするために学問をしてはいけませんか」

「それもまたよきかな。真理に近づくためのものであり真理に到達するためのものではございませんからな、一生涯追究しても足りませぬよ。私などは生涯学問に尽くすと決めたがゆえにここでこうしてあるのであって――」

 「しかし」と言う目は優しくも厳しい。

「王族というお立場は俗世の政から離れられるものではございますまい」

「ですが俗世の政のいたたきに立つべきは『蒼き太陽』であり、僕は――」

 言葉が詰まった。

「僕は……、」

 続かなかった。視線を下に落とした。

 先輩たちは皆まっすぐフェイフューを見つめていた。フェイフューはその目に確かに心配の色が滲んでいるのを感じ取っていた。

 これではいけない。

 強くあれ。勇ましく高貴であれ。

 フェイフューは顔を上げ、笑みを浮かべてみせた。

 自分はえあるアルヤ民族の長の系譜に連なる者、たとえ王にならずとも民にうれいを見せてはならない。憂えていると思われてはならない。それは血への冒涜ぼうとくであり太陽への侮辱だ。仮に末席へ据えられたとて誇りを捨ててはならない。

「必ずや『蒼き太陽』の御世の役に立ってみせます。帝国にうとんじられようとも、『蒼き太陽』に疎んじられようとも。僕は自分がアルヤ王国のために正しいことをしていると信じて自分の道を探します」

 博士は「ふむ」と笑った。

「不合格」

 ぎょっとして「なぜ」と問うと、博士は笑みを絶やさぬまま「まあまだひと月ですしよいでしょう」と告げた。

「のんびりとその道とやらをお探しになるといい。学問をしている限り大学は殿下にお味方しますぞ」

 どうもはっきりとしない返事だ。フェイフューは不満だが、自分で探せと言った以上はいくら追及しても答えを呈示することはないだろう。

「焦ってもよいことはございますまい。まことに刻限が迫っているのであればイブラヒム総督も何か申し上げるに違いない。どうぞ、ごゆるりと」

 彼が「さて、今日は何章の講義をするかね」と言って本を手に取ったのでこの話はこれで終わりだ。

 溜息をつきながら床に座った。

 分かっていないことなど分かっている。

 おそらく誰よりも、感じている。その時が――刻限が迫りつつあるのを、フェイフュー自身が一番身に沁みて感じ取っている。それでもなおここで悠長に学問をしていていいのか、フェイフュー自身が一番気にしている。

 どんな書物を開いても答えは載っていない。

 これでいいのだろうか。

 けれど他に何をしたらいいのかフェイフューには分からないのだ。

「では七章を音読してもらおうかね。殿下、いかがですか」

「はい」

 一刻も早く答えが知りたい。

 自分は生まれた時からずっと不合格のままだ。

 いったい、何をすれば合格なのだろう。

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