第二部:清《さや》かなる想いの中で

第7章:紅蓮の女獅子と日輪の御子

第1話 総督イブラヒムの善政

 ナーヒドが右手を真上から垂直に振り下ろす形で机を叩いた。机が割れたのではないかと思うほど大きな音が響いた。

 イブラヒムはまったく動じなかった。座椅子にゆったりと腰掛けた姿勢のまま、机の上、ナーヒドの右手を見ていた。


 ナーヒドの一歩後ろで、テイムルは深く溜息をついた。


 イブラヒムはこういう展開も予測していたのかもしれない。すべて織り込み済みで話を進めていたのかもしれない。


 彼が前総督ウマルの後任者としてサータム帝国からアルヤ王国首都エスファーナのそう宮殿に派遣されて以来、すでに四年が経過したところだ。

 やって来た当初こそ「私はウマル公と違って貴公らとは馴れ合わない」と豪語していたものだが、なんだかんだ言って十神剣じゅっしんけんの扱いに慣れてきたと見える。何をすると誰がどんな行動に出るのか、きっとおおよそ把握しているのだ。


「王家には口を出さない約束だったはずだ。忘れたとは言わせんぞ」


 ナーヒドが唸る。しかし、イブラヒムは眉ひとつ動かさない。


「約束をたがえたつもりはない。私はけしてどちらかを選んだわけではないのだ。どちらを王として選ぶかはあくまで君たちアルヤ人次第であり、私はその期限を明確にしたに過ぎない」

「急かしている。王位継承に干渉している」

「もともと皇帝陛下が最初にお認めになった猶予は王子二人が成人する十五歳までであった。アルヤ王国がまだ帝国の属州であった頃の話だが、以後アルヤ王国が復してもなお改める提案はなされなかった。ゆえにこの契約は現在も有効であると私は考える。繰り返すが、私は契約をもとに期限を明確化しただけであり、君たちに新たな要求を突きつけたわけではない」

詭弁きべんだ」

「君がそれを言うのか。他でもなく、フェイフューが十五歳になったらアルヤ王にすると言い出した君が、それを言うのか」


 押し黙ったナーヒドを、イブラヒムが冷徹な目で眺める。


「むしろ感謝していただきたいところだ。正月ノウルーズの満十五歳まで残りふた月しかないところを、十六歳になる直前まで待つ、と言っている。双子が十五歳と三百六十四日になるまでおよそ十四ヶ月もある。ゆっくり議論するがいい」


 そこまで言うと、彼は背もたれからゆっくり上体を起こした。そして、ナーヒドに人差し指の先を突きつけた。


「ナーヒド、君は本当は分かっているのだろう」


 ナーヒドは拳を握り締めたまま震えている。


「王を決めたくないというのがアルヤ王国の民の総意であるならば、我々帝国と君たち王国の間で緩衝材となっているえあるアルヤ王国議会議員たちがこの案を議会で差し止めるだろう。帝国は王国議会が決めたことには異を唱えないという絶対の契約がある以上は、議会が私のこの提案を否決しさえすれば白紙撤回されるのだ。だが君は議会ではなく発案元の私に苦情をつけに来た。つまり君は分かっているのだ――審議にかけられれば議会はこの案を可決する。ソウェイルとフェイフューが十五歳であるうちに決着をつけることを議会は支持するのだ。君はそれを予感し恐れている」


 述べるイブラヒムの声はなおも冷静だ。


「君は決着をつけたくないのだ。理由は知らないし興味もないが」


 そして、手を引っ込め、また、座椅子の背もたれにもたれかけた。


 ナーヒドはしばらくの間沈黙していた。

 彼の後ろにいるテイムルからはその表情は見えない。どんな顔でイブラヒムを見下ろしているのだろう。


 イブラヒムがわざとらしく息を吐いた。


「皇帝陛下はけしてアルヤ王家の断絶など望んではいない。むしろアルヤ王が立って兄弟の契りを交わす日をお待ちなのだ。一日でも早くアルヤ王を抱き締めたい、そのために、即位の日を楽しみにしておいでだ」


 目を細める。

 

「やたらな悲劇はきっと神も悲しまれることであろう。前任者や他の帝国の高官は残った王子のむくろを求めたかもしれないが、私個人の話をするなら――同い年の娘がある、十五の少年を殺してしまうのは忍びない。ここからは非公式の話として聞かなかったふりをしていただきたいが、別の将来を提案することも考えている」

「具体的には」

「今思いつく中ではふたつ」


 親指と人差し指を立てる。


「ひとつ。不具の身にすればいい。目を潰す、手足を切断する、去勢する――王位を継承できない体にしてしまえば誰も担ぎ上げての内乱など起こすまい」


 テイムルもナーヒドも絶句した。この男は当人も自分で言うとおりウマルより冷酷でアルヤ人の心情に寄り添う気持ちはないのだ。


 しかし――


「ふたつ。婿に出す」


 これを聞いた時、テイムルは、そういう未来はあるかもしれない、と思った。


「皇帝陛下には姫君も十七人ある。どなたかとご成婚されて帝国臣民となれば両国のよすがともなる。アルヤの王子が――アルヤ王のきょうだいがお手元にあると思えば陛下もご安心なさるはずだ」


 ナーヒドは嫌らしい。


「つまり人質に行くということではないのか。サータム皇帝の気まぐれで首を刎ねることのできる駒として帝都にとどめ置くということだろう」


 イブラヒムは「ばれたか」と言って唇の端を釣り上げた。茶目っ気を出したつもりなのであろうか。テイムルは背中が寒くなった。


「むろん帝国の外の娘との婚姻は許さない。アルヤ王国はサータム帝国の保護国だ、自由に外交できるとは思わないでいただきたい」


 そこで、「さて」と言って机の上の葦筆ペンを手に取った。


「これ以上ここで私と君が話しても無駄だ。先ほども言ったが、嫌なら議員たちにはたらきかけたまえ。もしくは――可愛いフェイフューをアルヤ王にするためにこの十四ヶ月でせいぜい工作することだ」


 ほくそ笑む。


「好きにしたまえ、妨害はしない、私はソウェイルだろうがフェイフューだろうがどうでもいいのだから」

「貴様――」

「君は不安のようだが――見たまえ」


 イブラヒムの目がこちらを向いた。正確には、テイムルではなく、テイムルの後ろ、扉の方を見たようだ。


「君はここに駆けてきたが、ユングヴィはいまだ現れない。つまり彼女はソウェイルを王位につけることについて不安がないのだ。彼女は十四ヶ月以内にソウェイルをアルヤ王にできると思っているから抗議をする必要がない」


 ナーヒドは「違う」と反論した。


「あいつは馬鹿だからこの案がおおやけになって議会で審議にかけられた時何が起こるか想像がつかないのだ」


 イブラヒムが嘲笑う。


「君はそう言って何度彼女に裏切られてきたのかね。彼女は君が期待しているほど素直で無邪気な女ではない」


 ナーヒドが完全に沈黙した。


 イブラヒムは平然と葦筆ペンで書類に署名をし始めた。ナーヒドに声をかけるどころか目もくれなくなってしまった。


 テイムルはそこで一歩前に出た。ナーヒドの隣、イブラヒムの机の正面に立った。


「お聞かせ願いたいのですが」

「手短に頼もう」

「イブラヒム総督がソウェイル殿下、フェイフュー殿下のいずれにも執着がないことは分かりました。けれど、皇帝陛下は? 陛下もお二人ともご覧になっているでしょう、いずれを王位につけたいとはおおせになりませんか」

「いい質問だ」


 一度、葦筆ペンを置く。


「陛下はソウェイルを王にしたいとおっしゃったことがある」


 その口元は、笑っている。


「理由は」

「単純な話だ。よりおとなしい性格だからだ。大人に従順で御しやすいとお思いだ」


 テイムルも黙った。


「参考になったろう」


 イブラヒムはふたたび葦筆ペンをとり、書類作りの続きを再開した。






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