第29話 しかしこちらはまだ冬

 ユングヴィとサヴァシュが格子の方を向いた。アフサリーも、ホスローを抱いたまま、向こう側を見た。

 格子の向こう側には、ひとつのひつぎが納められている。


「……バハルにも、抱っこしてほしかったな」


 ユングヴィが、呟くように言った。


「あれだけさんざん、心配させて、迷惑かけて。一番、バハルに、無事に生まれて育っていることを知ってほしいなあ」


 その棺の中に横たわるむくろには首がない。ナーヒドがサータム帝国に返してしまったからだ。胴体だけを回収して、エスファーナの代々の黄将軍が眠る廟に収容した。


 バハルが帝国軍の人間であったことを知っているのは、十神剣とアルヤ軍のほんの一握りだけだ。彼はタウリスでアルヤ軍の人間として戦死したことになっている。一般民衆は本当はどういう経緯で死んだのか知らない。人の口には戸はかけられないので、もしかしたら知っている人間もいるかもしれない。だがとりあえず今のところは話題になっていない。知っていてもアルヤ人は軍神と仰いだ者が敵国の人間だったとは思いたくないかもしれない。


 バハルは故郷の村に親族がいると言っていた。どこまで本当かは分からないが、もしそうであれば、その親族に返してやりたい、という話にもなった。だがバハルは出身地の正確な位置を誰にも教えてくれなかった。サータム帝国の皇帝直轄領かもしれない。アルヤ人たちにはどうしようもなかった。


 せめて首だけでも遺族のもとに届いていたら、と思う気持ちと、首だけになって帰ってきたバハルを出迎える家族の気持ちを思ったらそれすらしない方がいいのではないか、という気持ちと――アルヤ人たちは考えることを放棄してサータム帝国軍が後片付けをしてくれることを祈った。


「なんかもう、ほんと、無事に生まれて育っているからいいけど、今となってはこの子には聞かせられないような無茶ばっかりした妊婦生活だった……」


 反省してうなだれるユングヴィに、アフサリーが「過去のあやまちから学ぶことはいいことですよ」と声を掛けると、サヴァシュが「そうだ、次に活かせばいいだろ」と言った。つまり二人目の話だろうか。あまり深く突っ込まないでおきたい。


「バハルにお礼、言いたいなあ。バハルがいなかったら、この子は今頃ここにいないかもしれない」

「きっと伝わっていると思いますよ」


 根拠のない発言だったが、他の誰でもなくアフサリーがそうであると信じたかった。


「どんな気分なんだろうな」


 今度はサヴァシュが呟いた。


「ホスローを見てると、バハルのやつ、最期はどんな気分だったのか、考えちまうな」

「そうです?」

「バハルのやつ、最期に言っていた」


 アフサリーは目を丸くした。


「実家に息子がいる、と」

「……今までそんなこと一言も言っていなかったではありませんか」


 初めて聞く話だった。バハル本人はもちろん、バハルの臨終の場面に居合わせたはずのナーヒドも話さなかったことだ。


「バハルは何と」


 サヴァシュが遠くを見ながら答える。


「サータム帝国領の実家に、息子が一人いるんだと。カーヒルという名前で、帝国軍人になりたがってる、っつってた」


 彼は「どんな気分なんだろうな」と、繰り返した。


「その息子、今、何歳なんだろうな。……俺は、息子を置いて死ぬとか、考えられねえな」


 ユングヴィが声を怒らせた。


「なんでそんな大事なこと黙ってたの」

「だって、分からねえだろ。どこの村の話なのかも説明がなかったし、会える確率はほぼない」

「そうじゃなくて。そんなこと、あんた一人で背負ってたの。なんで私に話してくれなかったの」


 サヴァシュはしばらく答えなかった。


「まあ、ナーヒドのやつも、その場にいたけどな。あいつが話さないことを、俺が話しても、なあ」

「でも――」

「俺も、正直、分からなかった」


 そして、彼らしくなくうつむく。


「子供が、と思ったら。俺も、どう受け止めていいのか、正直なところ、よく、分からなかった。だから、説明できなかった」


 アフサリーは、溜息をついた。アフサリーも四人の娘の父親で、その娘たちがそれぞれ嫁いだおかげで孫までいる身だ。サヴァシュの気持ちは想像できなくもないのだ。


「サヴァシュも、ユングヴィも。自分を大切に。私の身にもなってください、自分より若い人間がこうして命を散らすのを見るのはなかなかつらいものがあります」

「アフサリー……」

「私はずっと北部にいて何もできなかった。バハルの話を聞いてやることもできなければ、バハルの最期の時に居合わせることもできなかった。無力ですよ。いまさらこんなことをしたって何にもならない。しかし――」


 うつむく。


「せめて、他のみんなが無事で、私より長く活躍してくれることを祈ります」


 そこで口を開いたのはソウェイルだ。


「神剣と話をした」


 唐突だったので驚いた。ソウェイルの顔を覗き込み、「どういうことです?」と問い掛けた。

 ソウェイルは真剣な顔をしていた。


「黄の神剣と。どうしてバハルじゃなきゃだめだったのか、きいた」


 そう言えば、『蒼き太陽』には神剣の声が聞こえるらしい。まさか会話が成立するのか。


 ユングヴィが「ソウェイル」と動揺した声を出した。


「あんたまで、なに、急に。そんなこと今まで一度も言ってなかったでしょ」


 ソウェイルが頷く。


「俺も、いつどうやって話したらいいのか、分からなくて……。でも、今、いい機会だ。それにここにはバハルもいる。今、話そう、と思った」


 ソウェイルが顔を上げ、まっすぐ棺を見る。


「黄の神剣は、後悔してる」

「後悔……?」

「もうそういう時代じゃないと思った、って。アルヤ人とサータム人が争う時代は終わるって、だからアルヤ人のこともサータム人のことも分かっている人間を十神剣に入れたいと思った、って。言ってた」


 その細い指で格子をつかんだ。


「でも早かった。まだそういう時代じゃなかったんだ」


 格子に、額を押し付ける。


「そういう時代に、俺が、しなきゃいけないんだ」


 だいぶ育ったとはいえ、その両肩は、まだようやく数日後の正月ノウルーズに十一歳になる少年のものだ。


「黄の神剣は、争いごとがきらいだから。同じ神剣と戦わなきゃいけなくなったことが、ほんとに、つらかった、って。だからもうしばらく将軍を選びたくないって言って黙ってしまった」


 そして、今は、蒼宮殿の神剣の間に安置されている。


「次の黄将軍は、当分、決まらない。と、いうことでしょうか」


 問い掛けると、ソウェイルは頷いた。


「たぶん」


 その蒼い瞳は、物静かで、穏やかで――それでもどこかに、悲壮な決意を秘めている。


「次の黄将軍は、俺が、選ぶことになる」


 ソウェイルが、「カーヒルかあ」と呟いた。


「もし、会えたら。友達に、なってくれるだろうか」























 カーヒルは差し出されたものを受け取って絶句した。

 家を訪ねてきた軍人の青年たちも、悲痛な顔をして沈黙している。


 カーヒルの抱えているものを包んだ布を、祖母が震える手で払い除けた。

 出てきた髪を、乾燥して様子の変わりつつある顔を見た。

 悲鳴を上げた。


『バハル! バハル!!』


 祖母の絶叫が耳に残る。


 世界が絶望の色に染まっていく。

 何も言わない父の首を抱き締めて、カーヒルは、心が冷えていくのを感じた。


 これが世界の真実だ。これが、世界を統べる、ことわりなのだ。


 アルヤ人とは、分かり合えない。

 永遠に、分かり合えない。

 彼らは邪教を奉ずる野蛮で恐ろしい異民族だ。


『……殺してやる』


 自然と口から言葉が流れ出た。


『みんなみんな、殺してやる』


 強い軍人になろうと、決意を新たにした。

 けれどそれは、サータム帝国の平和のためだ。

 サータム帝国を害する、アルヤ王国を滅ぼすためだ。


『アルヤ人を皆殺しにしてやる』


 そうして、カーヒルは一歩、踏み出した。






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