第26話 正義と信仰を守るため
ベルカナが辿り着いた時には、事はもう終幕を迎えようとしていた。
後ろについてきた、これまでタウリスの市街地の廃墟に潜伏して工作活動を行なっていた桜乙女たちが、絶句して立ち止まった。戦場で傷ついた者を見るのに慣れているはずの彼女らも、神と仰いできた男のその姿には耐えられなかったようだ。
ベルカナにも、何も言えなかった。目の前で十神剣同士が騒動を起こした時は必ず間に入るようにしている彼女だったが、今度ばかりはどうにもできない。
間に入ってはならないと思った。
これ以上の役者は不要だ。もはやとどめは刺されている。
金属音が鳴り響いた。その音を聞いて、ベルカナは、ぼんやり、神剣も金属なのだ、と思った。
黄金の神剣が地面に転がった。
弾き飛ばしたのは太陽と同じ色の神剣だ。
ナーヒドに剣術で敵う人間などこの世に存在しない。彼が剣を抜いて眼前に立ちはだかった時点でもうすでにすべて終わったようなものだ。
まして今のバハルは傷つきすぎている。
右肩は裂けて肉が見えている。力が入らないらしく右腕がだらりと垂れ下がっていた。
左耳がない。左側頭部も穴が空いたかのようにえぐれていて赤黒い中身が見えている。
ここまで自力で移動してきたことすら奇跡だったに違いない。
そしてその奇跡にはおそらく続きはない。
「姐さん」
若い桜乙女が震える手でベルカナの腕をつかんだ。
「たいへん、このままじゃ――」
ベルカナは首を横に振った。
「お黙り」
胸が苦しくて涙すら出てこない。
「黙って見てなさい」
バハルが膝をついた。その場に座り込んだ。
ナーヒドはそれ以上剣を振るわなかった。右手でしかと柄を握り締めたまま、切っ先を下ろし、地面の方へ向けた。その表情は苦しそうで、ベルカナは、ナーヒドは本当に純朴な男なのだと思った。
しばらく沈黙したあと、彼は言った。
「――投降しろ」
静かな声だった。
「軍法会議にかける。……最終的な結論が出るまでは、命は保証される」
「結論が出るまでは、な」
バハルは笑った。その笑みは自虐的でとても彼らしくない。
しかしバハルらしいとは結局何だったのだろう。自分たちはいったい彼の何を見てきたのか。
「貴様には聞きたいことが山ほどある。そう簡単に死ねると思うな」
「俺に話せることなんてねえよ。分かるだろ?」
そして、目を閉じた。
「――楽にならせてくれ」
ナーヒドも一度まぶたを閉ざした。眉根を寄せ、何事かを考えた。
ゆっくり、目を開いた。その黒い瞳でまっすぐバハルを見つめた。
「誤解だと言え」
ベルカナは驚いた。それは彼が何よりも愛している正義に反することだと思ったのだ。
「俺たちの早合点だと言え。貴様は何事とも無関係だと、今までもそしてこれからも十神剣の一員として全力を尽くすと言え」
声が、震える。
「太陽の眷属として。アルヤ王家を守る者として。自分はアルヤの日の神に忠節を捧げる、と。告白しろ」
確かめるように一音一音区切って、「十神剣は」と、言う。
「十人いて。初めて、十神剣だ」
十神剣が十人であることを守るのも――太陽の眷属として、アルヤ民族の軍神として完璧でいるのも、彼の正義らしい。
その理屈を通してもいいなら、バハルの罪を見逃すことと彼の正義を守ることは矛盾せずに済む。
これで建前上は何とかなる――たとえ本音はどこにあろうとも、だ。
「自分はアルヤ人で、アルヤ軍とともに
ひょっとしたらと、ベルカナは一人自分の手を握り締めた。もしかしたらやり直せるのではないかと期待した。
ナーヒドの言うとおりだ。十神剣は十人で太陽を守るのだ。やっと十人揃ったところだというのに、ここで欠員を出したくない――その理屈は、きっとアルヤ人みんなが分かってくれる。
黄の神剣が転がっている。その刃は確かに黄金色に輝いている。黄の神剣が選んだのは確かにバハルなのだ。バハルの代わりはいないのだ。
ベルカナも念じた。
たった一言、バハルが自分はアルヤ人であると言ってくれたらいい。その一言で、すべてが丸く収まる――
バハルが目を開けた。
そして、言った。
「神は偉大なり」
帝国の宗教では日常的に唱えられる、信仰告白の言葉だった。
終わりだ。
ナーヒドが歯を食いしばった。
両手で蒼い神剣の柄を握り締めた。
振り上げる。
でもその手は震えている。
剣を上段に構えたまま、ナーヒドは固まった。
ともすれば泣き出してしまうのではないかと思った。
そんなナーヒドの肩をつかむ者があった。
サヴァシュだ。
「どけ」
その声は優しい。
「アルヤ人にできないことは全部俺がやってやる」
言いながら、黒い神剣を抜いた。闇色の、幾人もの血を吸ってきた禍々しい姿を見せた。
ナーヒドはためらったようだ。少しの間そのまま硬直していた。
ややして、剣を下ろした。
黙って一歩引いた。その顔からは彼が今感じているであろう敗北感が滲み出ていた。
かわってサヴァシュが一歩前に出た。
「最期に言い残すことはあるか。俺が聞いてやる」
バハルが穏やかに微笑んだ。
「ありがとな」
サヴァシュはいつもと変わらぬ無表情だ。愛想のない顔でバハルを見下ろしている。
「お言葉に甘えて。ひとつだけ、頼んでもいいか?」
「何だ」
「息子がいる」
初めて聞く話だった。
「帝国の東の端、ほぼアルヤ領みたいな山奥の村に、息子が一人いる。名前はカーヒルだ、顔は俺に似てるから一目見りゃすぐに分かると思う。こいつが大人になったら帝国軍人になってサータム人とアルヤ人の平和のために戦うっつってる」
「そうか」
「もし将来アルヤ民族の敵になったとしても殺さないでやってくれ。あいつの母親はアルヤ人なんだ」
繰り返し懇願した。
「殺さないでくれ。半分は、アルヤ人なんだ。せめて、アルヤ人同士でぐらい、殺し合わないでくれ」
ナーヒドが口元を押さえた。
サヴァシュが頷いた。
「確かに、この黒将軍サヴァシュが承った」
そして、闇色の神剣を持ち上げた。
「もう、限界だ」
それだけ言ってバハルがふたたび目を閉じた。
サヴァシュの神剣が世界を斜めに裂いた。
バハルの首が地に落ちた。胴体は、ゆっくり、倒れた。
ナーヒドが「殺したな」と呟いた。
「訊かなければならないことが山ほどあったのだが――」
「すまん。楽にしてやりたかった」
「いや」
顔を、背ける。
「俺もだ」
いつの間にか黄の神剣が消えていた。どこに行ったのだろう。
辺りを見回して探した。
バハルの胴体、腰に携えられている黄金の鞘に納まっていた。
あの神剣は、もう、抜けないのだろう。当分の間、自分たちがあの黄金色の刃を見ることはないのだろう。
こうして、十神剣はまた九人に戻った。
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