第21話 手紙を書こう

 決戦前夜のことだ。

 ユングヴィはナーヒドの部屋を訪ねることにした。

 くれぐれもサヴァシュを頼むと言い含めようと思ったからだ。

 ユングヴィがそこまでしなくても大丈夫だと思う。サヴァシュは簡単に前言を撤回する男ではない、一度ナーヒドと協力すると決めた以上は戦争が終わるまで貫き通すはずだ。しかもナーヒドはアルヤで唯一サヴァシュに対抗できる武人であり、一声で二万の大軍を動かす将である。この二人が手を組んで負けるはずがない。心配はしていない。

 それでも何かしたかった。

 自分もサヴァシュのために何かをしていると思いたかったのだ。

 夫のために根回しをする、これはいわゆる内助の功というやつではないか――そんな自分に酔いたくなったのである。

 サヴァシュはユングヴィに妻としてお節介を焼く楽しみまで与えてくれた。

 今、満ち足りている。

 そんな浮ついた気持ちで会ってナーヒドに怒られやしないかとも思った。けれど作戦の決行は明日だ。今夜、今しかない。

 ナーヒドが使っている部屋の戸を叩いた。

 すぐに反応が返ってきた。

「誰だ」

 髪を覆うマグナエを直し、唇の端を持ち上げ、背筋を正してから、「ユングヴィです」と答えた。たとえ拒まれても引き下がらず、愛想はいいがたくましい、上品で肝の据わったアルヤ人妻の姿勢を保つのだ。

 意外な言葉が飛び出した。

「ちょうどいい」

 ユングヴィはまたたいた。

「入れ」

 ナーヒドの方もユングヴィに何か用事があったのだろうか。最近は特に邪険にされがちなので驚いた。

 おそるおそる戸を開けた。

 複数の油灯ランプで明るい部屋に、ナーヒドとラームテインがいた。

 二人とも窓の方を向き、ユングヴィの方には背中を向けている。

 絨毯に座っているナーヒドの隣で、ラームテインがぴったりと寄り添うように膝立ちをしていた。

 ユングヴィは一瞬身構えた。夜、油灯ランプの炎が揺らめく部屋に、美しい酒姫サーキイと二人きり――いかがわしいと感じたのだ。あのナーヒドがラームテインを連れ込んで慰み者にしているのか。

 二人が振り向いた。

 ナーヒドは右手に葦筆ペンを持っていた。ラームテインは両手で紙を広げている。

 窓の下には文机が備え付けられていた。どうやら書き物をしていたようだ。文武両道のナーヒドと知恵のかたまりであるラームテインらしい。

 ユングヴィは自分が恥ずかしくなった。

「何があった。先に貴様の用件を言え」

 「用ってことのほどでもないんだけど」と手を振る。

「明日、サヴァシュのこと、よろしくね、って」

 ナーヒドが顔をしかめる。

「貴様、このに及んで俺があいつと揉めるとでも思っているのか? この俺が武人の意地を曲げてまでわざわざ頭を下げてきた者に無体を強いるような男に見えるのか」

 見える、とはさすがに言えなかった。

「そんな勘繰らないでよう……明日が当日! って思ったら、なんだか落ち着かなくて、何か、何でもいいから言ったりしたりしておきたかっただけなんだ……ごめん」

「それだけの用でわざわざこんな時間に出歩いているのか」

「そうだよ、それだけだよ。だってこんな時間に女が男の部屋に入るなんておかしいでしょ、ちょっと立ち話で済ますつもりだったんだよ」

「なんだ、貴様、分かっているではないか。多少は成長したようだな」

 どうやら褒めてもらえたようだ。ユングヴィは複雑な気持ちで適当に「はあ、どうも」と頷いた。

「ナーヒドこそ、私に何か、用事あった?」

 次の言葉を聞いた時、ユングヴィは目をまん丸にした。

「もうすぐ正月ノウルーズだろう」

 アルヤの暦の最初の日、昼と夜が等しくなり太陽が夏に向けて動き出す春分の日のことだ。

 今の代のアルヤ人にとっては、正月ノウルーズはただの新年の始まりではない。この世で唯一の『蒼き太陽』の誕生日でもある。

「貴様はソウェイル殿下のお祝いをどうするのかと思ってな」

 胸の奥がぎゅっと締めつけられた。

 忘れていたわけではない。けれど、

「今のところ、何にも……」

 罪悪感で小声になったユングヴィに、ナーヒドが「無礼な」と投げ掛けた。

「御年十の記念すべき年だぞ。本当にまったく何もご用意していないのか」

 突き刺さる。痛い。

 今までは、家でご馳走を作って祝っていた。正月ノウルーズは軍隊も休みだ。一日じゅうくっついて甘やかしていた。

 今は戦時中だ。エスファーナとタウリスで遠く離れている。ユングヴィの手はソウェイルに触れられないし、ユングヴィの声はソウェイルに聞こえない。

 ソウェイルはどう思うだろう。自分が生まれたことをユングヴィに祝ってもらえないとは思っていないだろうか。悲しくないだろうか。寂しくないだろうか。

 先日の、一人で子供を産もうと強がってしまった日々のことが、思い起こされた。

 あの時、ユングヴィの中にソウェイルはいなかった。ユングヴィはソウェイルを捨てて我が子を選んでしまった。それを知ったらソウェイルはどれだけ傷つくことだろう。自分がいらなくなったと思い込みはしないだろうか。

 今すぐ抱き締めたかった。もう誰にも引き離せないと思えるくらいにくっついて、自分が愛されていることを実感してほしかった。そして謝りたかった。一度でもソウェイルの存在を思考の外に追いやったことを心から詫びたかった。

「私……、ソウェイルのお母さん失格だね……」

 ナーヒドとラームテインが顔を見合わせた。

「というか貴様、ソウェイル殿下の母親役を務めているつもりだったのか。おそれ多い。ずいぶんと図々しい女だな」

「えっ? むしろナーヒドはフェイフュー殿下のお父さんをやってるとは思ってなかったの?」

 言ってから思い出した。

「あっ、ソウェイルが誕生日ってことはフェイフュー殿下もお誕生日ってこと?」

「当たり前だ」

 どうやら機嫌がいいらしい、ラームテインが油灯ランプの炎に照らされて白く滑らかな頬に笑みを浮かべている。

「今、フェイフュー殿下に手紙を書いているんです。お祝いの言葉と、エスファーナに戻った時のお誕生日祝い兼お土産のタウリス製品の目録と」

 ラームテインは筆まめで、何事も紙に書きつけてはフェイフューに送っているらしい。ナーヒドもよくテイムルに報告の文を送るついでにフェイフューにも何か書いているようだ。

 ユングヴィはうつむいた。

 自分もソウェイルに何か送ってあげたい、とは、思う。声を届けられるかもしれない、と思うと、どうにかしたい。

 だが、

「私……あんまり、言葉知らない……からなあ……」

 読み書きが満足にできない自分が恥ずかしくて、悔しくて、ユングヴィは視界が滲むのを感じた。妊娠してからというものどうも涙腺が弱い。

「何か……ソウェイルにも、書いてあげれたら、いい、のかもしれないけど……、ちゃんとしたつづりとか、書ける自信がないや……」

 情けなかった。こんな親ではソウェイルも恥ずかしくないだろうか。

 珍しく、ラームテインが素直に表情を曇らせて優しい声を出した。

「僕が代筆しましょうか」

 飛びつきそうになった。ラームテインなら賢いから、正しく美しい言葉を選んでくれるに違いないと思ったのだ。

 ナーヒドが「やめろ」と遮った。

 ユングヴィは一瞬、どうしてそんな意地悪を言うのかと食ってかかりそうになったが、

「たとえ誤字脱字だらけであったとしても受け取る相手は本人から手紙が来たと思える方が喜ぶものだろう」

 ナーヒドの言うとおりだと思った。ナーヒドは本当にいつも正しいのだ。

「これで反省して貴様もよくよく勉強することだ。戦争が終わったら子が生まれるまで時間があるだろう、何せ軍の仕事を放棄して休むのだからな」

「はあい。勉強します」

 「紙ちょうだい」と言いながらナーヒドとラームテインの間に入った。二人はそれぞれ左右に身を引いてユングヴィから距離をとった。

「何て書こうかなっ。お誕生日おめでとう、と、おうち帰ったらまたおやつ作るからね、と――」

「まずは、もうすぐ赤ちゃんが生まれてソウェイル殿下もお兄ちゃんですよ、では?」

「おい、ラーム、無礼だぞ。ソウェイル殿下はフェイフュー殿下がお生まれになって以来すでに十年弱お兄ちゃんだ」

 ユングヴィは笑った。

「ちなみにナーヒドはフェイフュー殿下に何て書いた?」

 ナーヒドはユングヴィの顔を見ることもなく手元の書面を見つめながら答えた。

「俺に万が一のことがあった場合は後のことをすべてラームに託すのでラームを頼るように、と」

 ユングヴィは唖然とした。まじまじとナーヒドの顔を眺めてしまった。

 ナーヒドの表情は真剣そのものだ。

 油灯ランプの炎が頬に睫毛の影を落としている。ナーヒドは睫毛が長い。横顔は端正でどこか女性的でもある。彼も幼い頃は美少年としてもてはやされていたであろうことを想像させられた。

「万が一のことって何」

「戦場に立つ以上はいつでも死を覚悟しているべきだ」

 「まして国運がかかっているとなれば」と語る声に迷いはない。

「たとえ俺自身が死すともアルヤ王国さえればフェイフュー殿下にご活躍の場を遺せる。殿下の御為を思うならば命を懸けるべきだ」

 ユングヴィは無意識のうちに首を横に振っていた。

「生きて帰らなきゃだめだよ。だって会いたいに決まってるんだから。一緒にいてこその幸せなんだからさ」

「貴様は甘い。そんな軟弱な考え方で国が守れるか。将来のことを考えて、未来を見据えて、優先順位を考えるべきだ。俺自身の命が殿下の未来より重いということがあってはいかん」

「たとえアルヤ軍が負けても生きて帰ってきて。みっともなくても、かっこ悪くてもいいから、生きて帰ってきてよ。生きて次の機会のことを考えて」

「次のことをラームに任せると言っているんだ」

「何を言って、ラームだってまだ十四歳なのに――」

「やめましょう」

 ユングヴィの目の前に、紙と葦筆ペンが叩きつけられるように置かれた。

「今話しても時間の無駄ですよ」

 ラームテインを見た。彼は何でもない顔をしてユングヴィを見ていた。

「ラームはそれでいいの」

「戦場に立たない理由ができました。僕はナーヒドの志を継いで必ずフェイフュー殿下のお傍に帰る。これは僕にとって名誉なことです」

 ラームテインからも顔を背けて、ユングヴィはうつむいた。

「やだよ……みんなで帰ろうよ」

 「お願いだよ」と言う声が震える。

「ナーヒドも、フェイフュー殿下の未来にいなきゃいけない人だよ。だから、絶対、命を粗末にしないでね」

 ナーヒドはそれ以上何も言わなかった。ただ手紙の続きを書いていた。ユングヴィも何も言えなくなってしまった。

 明日、決戦の日が来る。

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