第19話 膝を屈する勇気

 サヴァシュの足取りに迷いはなかった。まっすぐだった。まるでラームテインが来る前からこうすることを決めていたかのようだ。少し速足で大股だった。行き先の予測ができない分追い掛けるのが大変だった。


 どこへ向かっているのだろう。何をするつもりなのだろう。

 一切言わない。


 サヴァシュはけしてユングヴィが不利になることはしない。ユングヴィが不安がる必要はない。

 そうと分かっていても、ユングヴィは、十神剣同士で喧嘩をするのは嫌なのだ。

 バハルを騙して陥れる真似はしたくない。

 それなのに、よりによってサヴァシュが、バハルに対抗しようとしている。


 サヴァシュの背中に手を伸ばした。サヴァシュを引き留めようとした。これで何度目だろう。


 だが、ユングヴィも心のどこかで分かっている。

 バハルがサータム帝国の間者だったら、ここ半年どころか、数年前から続くアルヤ軍の逆境が説明できる。

 気づかなかったことにしたい。


 やがて城の中でも政務に使用されていた区画についた。今はアルヤ軍の本部として使っている辺りだ。

 サヴァシュは何もためらわなかった。無言で軍の司令室になっている部屋の戸を開いた。

 部屋の中にいたのは、蒼軍の幹部たち、そして、ナーヒドだ。


 ナーヒドは機嫌が悪そうだった。機嫌のいいナーヒドなどユングヴィはいまだかつて見たことはないが、今日はとびきり不機嫌そうだ。

 それもそのはず、彼はアルヤ軍が負けたのは黒軍と空軍のせいだと思っている。

 実際蒼軍は士気が高く当初は帝国軍を押していた。それが、空軍の崩壊を機に、撤退せざるをえなくなった。

 ナーヒド自身も無傷だ。剣を抜いたのは、蒼軍のみんなを奮い立たせるため、突撃直前に一回わざと抜いて見せた時だけだったらしく、一度も敵兵とぶつかっていない。

 城に戻ってきた当初、サヴァシュが傷の手当てを受けていると聞いた直後は、「将たるもの全体を俯瞰して指揮すべきで最前線で敵と直接干戈かんかを交えるとは」と怒っていたが――そしてユングヴィにはいまだに干戈を交えるという言葉の意味が分からないが――ベルカナが「サヴァシュがばりばり戦ってるってのに自分は何もせずに見てましたじゃかっこつかないから怒ってんじゃないの」と言っていた。ユングヴィもそう思う。


 蒼軍の幹部は白軍の次に行儀がいい。ナーヒド以外の面子は、サヴァシュ、ユングヴィ、ラームテインの三人の顔を見てすぐにひざまずいた。こうべを垂れ、直接視線がぶつからないよう配慮している。ユングヴィの方が緊張する。


 ナーヒドは部屋の真ん中で一人腕組みをしてこちらを睨んでいた。


「何の用だ」


 言葉がとげとげしい。


「大事な作戦会議中だ。チュルカ人や女の相手をしている暇はない」

「ではアルヤ人で男の僕ならいてもいいんですか」


 ラームテインも少しとげのある言い方だ。ユングヴィは彼が怒鳴られるのではないかと心配した。

 ナーヒドは少し語調をやわらげて答えた。


「そうだな、おとなしく話を聞いていられるならの話だが、ラームは受け入れる」


 反応に困ったらしい、ラームテインが何とも言えない顔でサヴァシュとユングヴィを見上げる。ユングヴィも困って、ただ苦笑してラームテインを見下ろした。


 サヴァシュが一歩前に進んだ。

 ユングヴィは慌てて視線をサヴァシュの方に向けた。

 何をしでかすか分からない。

 きっとまたナーヒドと喧嘩になる――止めなければならない。

 そう思ったのに――


「その作戦会議、俺も交ぜてくれないか」


 言い方が、少し下手に出ているような気がした。


 さすがのナーヒドも察したのだろう、いつものような大声は上げなかった。比較的落ち着いた声音で問い掛けてきた。


「貴様を入れて何の益がある?」


 嫌味だろうが、どことなく、単純な疑問も含まれているように聞こえた。


「なくはないと思う。少なくとも俺は――というかたぶん黒軍は、助かる」

「ほう。具体的には?」

「お前に頼みがある」


 次の時だ。

 ユングヴィは驚愕した。目の前で起こっていることが信じられなかった。自分は夢を見ているのではないかと思った。

 サヴァシュがその場に膝をついた。

 ナーヒドに対してひざまずくかのように、その場で腰を落とした。


「俺をお前の下に入れてくれ」


 ナーヒドも驚いていた。目を丸くして、口をうっすらと開けていた。

 部屋の中の空気が、時間が、一瞬、止まった。

 サヴァシュだけが、冷静な、いつもと変わらぬ声と顔で話を続けている。


「黒軍を蒼軍の騎兵隊の一部として扱ってほしい。基本的には俺はお前の指示に従う、お前の立てた作戦どおりに動く。俺が目の前の戦闘にかかりきりになったらお前が俺の代わりに状況判断をしてくれ。それで、黒軍が危なくなったら、蒼軍で助けてくれ」


 ユングヴィは思わず「どうして」と言った。その声が裏返ってしまった。

 サヴァシュが、ナーヒドに、頼みごとをしている。それも、サヴァシュが、ナーヒドの部下になると言う。

 サヴァシュがナーヒドに対して膝を折った。

 サヴァシュがナーヒドに屈した。

 信じられなかった。

 受け入れられなかった。

 夢だと思いたかった。


「なんでそんなこと言うの」


 ユングヴィの顔を見ることもなく、サヴァシュは静かに答えた。


「十神剣の身内だったら、まず、俺とこいつとじゃ連携取れない、って思うだろ。間違いなく、蒼軍と黒軍はばらばらに動く、ってことを前提にものを考えるだろ。ましてしょっちゅう仲裁に入ってる奴ならなおさらな」


 ユングヴィもだ。ユングヴィもサヴァシュとナーヒドが手を組むなど考えられない。


「だから協力する。俺とこいつとで手を組む。それなら、アルヤ軍の身内は誰も損をしないし、帝国の裏をかける。それで――」


 続く声も普段どおりだ。


「どうしてもって言うなら俺が折れる。俺は何が何でもこの戦争に勝ちたい、だから、ナーヒドに頭を下げてもいい。何を言われても、何をさせられてもいい。戦争を終わらせるためだったら、俺は何でもする」


 ユングヴィは歯を食いしばった。

 それでも涙は次から次へと溢れてこぼれ落ちた。

 ユングヴィが、戦争が不安だと言ったせいだ。

 彼はユングヴィに戦争ぐらい終わらせてやると宣言した責任を果たそうとしているのだ。

 悔しかった。


「やめて」


 ユングヴィも膝をついた。サヴァシュのすぐ隣に座って、サヴァシュの手首をつかんだ。


「私のためならやめてね」


 サヴァシュの腕に額を寄せた。頬を伝って顎から滴った涙がサヴァシュの手の甲に落ちた。


「私、そんな、サヴァシュに窮屈な思いしてほしくない。サヴァシュに不自由な生き方をしてほしくなくて、一人で産んで育てるって思ったくらいなのに」

「お前は一個勘違いをしている」


 ユングヴィは、つらくて、苦しくて、悔しくて、叫び出したいくらいなのに――


「自由ってのは好き勝手生きることじゃない。自分で自分の生き方を決めることだ」


 サヴァシュの声は、力強く、安定していて、頼もしいくらいで――


「俺は自分の意思でお前を選んだ。俺自身が決めたことだ。お前のためになるなら何かを制限されてもそれを不自由だとは思わない」


 一生、一緒に生きていこうと思った。

 ユングヴィも、自分の意思でサヴァシュを選んで生きていこうと思った。


 正面を向いた。

 ナーヒドが、唖然とした顔で、焦点があっていないかのように見える目でこちらを見つめていた。


 サヴァシュから離れて、床に両手をついた。


「私からもお願いします。蒼軍の作戦に黒軍を加えてください。サヴァシュに協力してください」


 床の絨毯に涙が染み込む。


「赤軍も何でもするから……! 副長に言って聞かせるから、ナーヒドの指示に従って、って。だからナーヒド、お願い」

「おい、やめろ」


 ナーヒドの声が震えている。


「待て。顔を上げろ」


 ナーヒドの言うとおり顔を上げてナーヒドを見た。

 彼はひどく傷ついた顔をしているように見えた。


「それでは、俺が狭量みたいではないか」


 ユングヴィは首を横に振った。正直なところ狭量という言葉の意味が分からなかったが、とにかくナーヒドにとって喜ばしい状態ではないのだろうと判断した。ナーヒドを責めたくて、追い詰めたくてやっているのではない。


「この、俺が。将軍である貴様らを、ひざまずかせて。そうやって、むりやり押さえつけてアルヤ軍を支配しているみたいではないか」


 すぐにサヴァシュが否定した。


「お前が上に立つんじゃなくて俺が下につくんだ。傍目から見れば俺が押さえつけられているように見えるかもしれないが、俺の意思であって、お前がむりやりやっているんじゃない」


 ナーヒドが拳を握り締めた。けれどその拳はただ意味もなく少しだけ持ち上げられただけで、どこにも振り下ろされなかった。そういう理由のない動作をするほど混乱しているということだ。


 ナーヒドに何か掛ける言葉をと悩んだユングヴィの一歩後ろで、ラームテインが言った。


「僕からも頼みます」


 ナーヒドが目を丸くした。


「これは、金も時間もかからない、策です。サヴァシュとナーヒドさえ、納得できたら。最善の策です」


 唇を引き結んだ。眉根を寄せ、一度まぶたを下ろして、顔をくしゃくしゃにした。


「承知した」


 ユングヴィは安堵のあまり「うう」と声を上げて泣いてしまった。


「だが二度とこのような真似はするな。他の幹部や、女子供の見ている前で。二度と、このような情けない真似をするな」

「分かった」


 サヴァシュも、何となく、力が抜けたように見えた。


「悪かったな、ナーヒド。すごく、助かる」


 ナーヒドがきびすを返して後ろを向いた。こちらに背中を見せた。


「とにかく、その女をここから連れ出して、泣き止ませろ。続きは夕飯のあとにする、夕飯が終わったらまたここに来い」

「了解。ありがとな」


 サヴァシュが立ち上がった。

 ナーヒドは顔を見せなかった。







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