第9話 腐ってもお姫様 1
足の先から臍まで覆う黒い
膝丈までと裾の長い、葡萄酒色の
赤毛を後頭部でひとつにまとめる。肩まで伸びた髪は最近小さな尾を作れるようになった。その尾をさらに丸めて、挿し櫛を少し強引に挿して団子状にする。長らく憧れていた髪形だ。
最後に、臙脂色の生地にからし色の糸の縫い取りのあるマグナエをかぶって、端を顎の下で結んだ。
手が震えた。
エルナーズに見立ててもらったのだ、けしてちぐはぐではないだろう。ひとに見られて恥ずかしい恰好ではないはずだ。
それでも、この自分が、と考えると、不恰好ではないかと思えてきてしまって怖い。
おそるおそる、鏡を覗き込む。
自分は、今、普通のアルヤ人女性に見えるだろうか。
「おい」
不意に後ろから声を掛けられた。肩を大きく震わせてしまった。
振り向くと、サヴァシュが三歩後ろで一人腕組みをしてユングヴィを眺めていた。
ユングヴィは唾を飲んだ。一度唇を引き結んで、覚悟を決めてから問い掛けた。
「変じゃないかな」
サヴァシュのことだ、きっと嘘偽りのない本音を言うだろう。笑いはしないだろうが、おかしいとも似合わないとも言うかもしれない。
しかしそれはそれで客観的な事実として受け入れる。サヴァシュの意見を求めるのは、ユングヴィにとっては、そういうことだ。
彼はいつでも本気でユングヴィに向き合ってくれる。何を言われても受け止めるつもりだ。
しかし――彼は言った。
「古都タウリスのお上品な若奥様って感じだな。市場を歩いていても違和感がない」
少なくとも不自然ではないということだ。
安心して満足したユングヴィに対して、彼はさらに続ける。
「少し緊張する」
「何が? サヴァシュでも緊張するとかあるの?」
「俺ほど繊細な男はいねーぞ。それに、お前、これからアルヤの貴婦人を連れて歩くんだと思ったら、俺だって、ちゃんとしないと、とかいろいろ考えるだろ」
もう一度唇を引き結んだ。顔のどこかに力を入れていないとうっかり涙が流れそうな気がしたのだ。
今の自分は、夫にちゃんとしなければと思わせられるほど、ちゃんとした妻なのだろうか。
叫びたくなるほど嬉しい。
「用が済んだら少し市をぶらつくか」
商魂たくましいタウリスの商人たちが城内のあちこちに絨毯を敷いて簡単な店舗をつくり闇市を形成している。今ユングヴィが履いている靴もその市の中のエルナーズに紹介された店で作ってもらったものだ。
「お前の体調が良ければの話だが」
「何か欲しいものでもあるの?」
「いや、お前を見せびらかすだけ」
たまらなくなって抱きついた。サヴァシュは無言でユングヴィを受け止めた。それから、おそらく髪形が崩れないよう気を使っているのだろう、首の後ろ辺りを撫でた。
だが、そんなことばかりをしていられるわけでもない。
タウリス城の庭園、
なぜ赤軍兵士たちの前に出るためにこんな恰好をしたのだろう。
最初は、今までとは違うのだと――若奥様は兵士のみんなと一緒に土だらけになって戦場を駆け回ることはできないのだと、そういうことを暗に示そうと思ってやったことだった。将軍が女であることを分からせようと思っていたのだ。
だが、彼らは国じゅうで一番ユングヴィを馬鹿にしてきた連中だ。
めかし込んでサヴァシュと出掛けることに浮かれていると言われた場合、どんな対応をすればいいのだろう。
立ち往生したユングヴィの手首を、サヴァシュがつかんだ。そして引いた。
ユングヴィは足に力を込めて抵抗した。
サヴァシュの方が力が強いので少しだけ引きずられて地面に靴の跡を残した。
「じゃあ俺が一人で行ってくるか」
「待って。だめ。めんどくさいことになるから。うちの連中ほんとどうしようもない絡み方してくるから、絶対喧嘩になるから」
「ならどうすりゃいいんだ」
「うっ……ごめんなさい……」
ついつい「私今めんどくさい女だね」と呟いた。サヴァシュは律義にも拾って「本当に、まさしく、自覚があって助かるくらいには」と真顔で言ってきた。
「お前が行くと言ったんだからな。俺は一人でもまったく平気だ。邪魔をするくらいなら部屋で待ってろ」
「でも私にはサヴァシュがみんなと喧嘩になる未来が見えるんだよ」
「安心しろ、お前がいようがいまいが喧嘩になる時は喧嘩になる」
「なんで穏便に済ませるって言えないわけ!?」
「サヴァシュ将軍?」
声を掛けられてサヴァシュがユングヴィの後ろの方を見やった。ユングヴィも振り向いた。
赤軍の若い青年が二人立っていた。いずれも年齢はユングヴィより少し上程度だが、入れ替わりの早い赤軍では彼らも立派な古参兵士で小隊長級の人材だ。
最初のうち、彼らは愛想の良さそうな笑みを浮かべていた。片方など小指を立てて「将軍のこれスか」などと笑っていた。
二人とも、ユングヴィの顔を見て笑みを消した。
「あれ? うちのじゃないスか」
サヴァシュが顔をしかめた。
「何だ、その言い方。お前のものじゃねーだろ」
兵士二人がサヴァシュを睨んで黙った。
もう不穏な空気だ。
「副長はいるか? 話がある」
「サヴァシュ将軍が、っスかね」
「そうだ」
「何の用スか。うちの副長ヒマじゃないんスけど」
「俺が遊びに来たように見えるのか?」
ユングヴィは思い切って
真ん中に脚の長い卓を置き、その周囲を十人ほどの男が囲んでいる。どいつもこいつも洗ってなさそうな服に伸び放題の髪とひげの男たちだが、一応みんな赤軍の幹部である。
奥から白髪交じりの頭の大男が出てきた。怪我をしたらしく左手を首から下げた布で吊るしているが、眼光は鋭く、威圧感を放っている。
「何だお前、女みたいな恰好しやがってよ」
予想どおりの反応だ。
ユングヴィの後ろから、サヴァシュも中へと入ってきた。
サヴァシュの姿を見た途端、副長の表情が険しくなった。
副長が手を伸ばした。ユングヴィの右肩をつかんだ。そして、ユングヴィをサヴァシュから引き離し、自分の背後に押しやるかのように
サヴァシュと副長が向き合った。
「何か用ですかい」
直接そうとは言わないが、ユングヴィには、彼がサヴァシュに帰れと言っているように聞こえる。ついてきてよかった。
「お前ら、本当にこいつのこと自分らの所有物だと思ってるんだな」
よせばいいのにサヴァシュもこういう物言いだ。
「あ? こいつ、って、何ですかね。こいつ、って。これ、うちの将軍なんですがね」
「お前だってお前と言ったくせに」
「ああ? ンだとコラ」
赤軍兵士たちが一斉に寄ってきた。誰も彼もがサヴァシュを睨み始めていた。いつもの赤軍だった。ユングヴィは彼らを統率できない自分を不甲斐なく思った。
「ちょっと、みんな、話聞いてよ」
副長の腕をつかむ。副長がユングヴィを振り向く。
「お前、体調はどうした。うろうろしてていいのか」
「その件なんだけど――落ち着いてきたんだけど、落ち着いてきてケツに火がついたっていうか――」
「何だよ、はっきり言えよ」
急に、副長の手をつかんでいるのとは反対の手をつかまれた。つかんだ手の主を見る前に引きずられた。サヴァシュのしわざだ。
そのうち腕がサヴァシュの胸にぶつかった。サヴァシュがユングヴィの肩を抱いた。
「こいつは俺のものだ」
冷や汗をかいた。
「こいつは俺が引き取る。お前らもあわせて黒軍で面倒を見る。これから赤軍の一切を俺が仕切る」
「はあ?」
誰かが「テメエユングヴィに何すんだ!」と怒鳴った。それを皮切りに
声が、聞こえてくる。
「汚ェ手で触んじゃねーぞ馬糞野郎!」
想像していなかった罵り言葉に、ユングヴィは言葉を失った。
「この国じゃどんな身分かまだ分かってねェようだな!」
「ちょっと強いからってナメてんじゃねーのか!? よそもんのくせによ!」
こういう言い方をするということは、彼らも自分たちよりチュルカ人であるサヴァシュを格下に見ているということだ。
そう言えば、赤軍にはチュルカ人がいない。街でチュルカ人に遭遇することはあったが、彼らがひとに乱暴な口を利くのなど当たり前のことだったので、具体的にどんな罵声を浴びせているのかにまで注目したことはなかった。
サヴァシュが「赤軍想像以上にガラ悪いな」と呟いた。ユングヴィはいたたまれなくなって縮こまった。
「ご……ごめん」
「お前が謝ることじゃない。お前もこんなところでよく五年も耐えたな、アルヤ人の十代の女の子がいるところじゃねぇ」
「そんな、そこまでじゃない、んだけど……普段はもうちょっと……いつもこんなってわけじゃ……」
副長が一歩前に出る。
「こんなところたァよく言ってくれる」
サヴァシュと至近距離で睨み合う。
「うちの将軍を返してもらおうか。あんたらにとっちゃあアルヤ女なんてみんな一緒かもしれねェが、俺らにとっちゃあこの世で唯一の紅蓮の神剣の主でな。うちの女神様でいてもらわなきゃ困る」
求めてもらえるのは嬉しいがその前に余計な言葉をつけすぎだ。もう口を利くなと怒鳴りたくなる。
けれど今口を開いたらユングヴィは泣いてしまうかもしれない。
赤軍兵士の前で弱い姿を見せたくない。
サヴァシュもサヴァシュで火に油を注ぐ。
「できない相談だ」
「何だと?」
「どうやらこいつは俺の子を身ごもっているようでな」
場が静まり返った。
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