第8話 寂しいだろ

 つわりも休んだら良くなるものなのだろうか。

 寝台の上に座り込み、たらいを抱えたまま背中を丸める。

 たった今またもどしてしまったわけだが、それでもこの数日少し楽になってきた気がする。ひたすら寝かせてもらったからかもしれない。


 そのままの姿勢で、考え込む。


 もう少し耐えれば終わるのだろうか。それとも、楽になったと感じるのは気のせいで、実は産むまで続くものなのだろうか。


 ユングヴィには妊娠出産に関する知識がない。身近に妊婦がいなかったからだろう。強いて言えば弟妹を妊娠していた頃の母親くらいだ。

 彼女は確か妊娠中もずっと働いていたはずだ。すでにおぼろげな記憶だが、とりあえず休んではいなかった。吐き気や倦怠感はなかったのだろうか。

 訊いてみたい。

 けれどもう会える気はしない。

 母はきっとユングヴィが妊娠するなど想定していなかっただろう。ユングヴィには商品価値がなく嫁にはやれないものとして扱っていた。一生父や弟のために働くはずだったのだ。そういう知識は必要ないと考えていたに違いない。


 心細くなってきた。

 こんなに無知なのに誰の手も借りずに産めるのだろうか。産んでも育てられるだろうか。娘が生まれたら自分も娘を嫁にやるのは面倒だと思うのではないか。娘に何を教えてやれるだろう。その娘はこんな母親で困らないだろうか。


 自分はすでに相当子供を乱暴に扱っている。存在に気づかず、タウリス近郊のあちこちを歩いて、家に火をつけ、銃を撃ち、縫い合わせる規模の傷を負った。自覚してからも寒い屋外を薄着でうろついた。ろくな母親になれる気がしない。

 子供は不幸かもしれない。


 戸が叩かれた。ユングヴィは顔を上げ、たらいの縁を強く握り締めた。


「誰?」

「ベルカナよ」


 一度歯を食いしばった。


「何の用? 私はもう用ないけど」


 冷たすぎると思った。自分がそんな言葉を突きつけられたら震え上がるだろう。

 だがどうしても会話をしたくなかった。


「止めたって無駄だから」

「分かったわよ、あんたの好きにさせたげるから、そんなに警戒するのはおやめ」

「子供の父親のことだって絶対話さないからね」

「もう訊かない、しつこく問い詰めて悪かったわ」


 彼女は「敵じゃあないのよ」と言った。


「あたし、一度だってあんたから子供を取り上げるなんて言ってないでしょ。あんたたちが心配なの。あんたが無事に産んで育てられる方法を一緒に考えたいから、あんたの情報が欲しいのよ」


 そう言われると心が揺らいだ。

 ベルカナ自身は独身だが、ベルカナの部下たちは次々と退職して子供を産んでいる。ベルカナにはユングヴィにない知識がありそうな気がするのだ。

 なくてもいい。根拠はなくてもいいから、誰かに傍にいて大丈夫だと言われたい。


 甘えてはだめだ。

 ひとりで首を横に振った。

 こんなことだから騙されるのだ。


「何をいまさら」


 みんな口では優しいことを言うのだ。


「三年前のエスファーナ陥落の時助けに来てくれなかったくせに。私がどんだけ怖くて痛い思いしたのか知らないくせに」


 ずっとずっと、ユングヴィは独りだったのだ。


「私はひとりでソウェイルの面倒を見たんだ、ソウェイルのこと何だって全部ひとりでやったんだ。今度だってひとりで赤ちゃんの面倒を見れる、もう誰にも期待しない」


 でもその方が強くなれる。ひとりでも戦えると思えば立ち続けていられる。走り続けることができる。


「私のことずっとほっといてたくせに。私ももうほっとかれたままのがいい」


 少しの間、静かになった。これだけひどい言葉を投げつけたのだ、諦めて去ったのだろう。


 疲れたと、もう一度吐いてすっきりしたいと、そう思いたらいを見た。


 無言で戸が開けられた。

 ちょうど胃の中身が逆流しているところで何の対処もできなかった。

 ベルカナは、戸を半開きにしたまま小走りで歩み寄ってきて、ユングヴィの背中をさすった。


「すっきりした?」


 彼女は苦笑していた。困っている感じは見受けられたが、怒っている感じではなかった。


「汚くない?」


 首を横に振る。


「あたしが片づけたげる」


 そう言われた途端何度目かの涙が込み上げてきた。


「ごめんなさい」

「いいのよ。むしろ、そういう本音を聞けてよかったわ。強いて言えば、もうちょっと早く言ってほしかったけど」

「普段からこんなことを考えてるわけじゃないんだ。ほんとだよ」

「もしホントは普段からそんなこと考えてたとしてもよ、あんたにずっと我慢させてきたのはあたしたちなんだから、あんたは謝らなくていいの」


 彼女は優しく囁いた。


「弱ってる時はそう言って。助けてほしい、ひとりにしないでほしい、って。そう言って、反応を期待してちょうだい」


 肩を抱かれた。


「何とか、何とかするわ。今度こそ、あんたをひとりにしないからね。どうしてもひとりで産みたいって言うなら止めないから、せめて、あんたが本当に無事かどうか念入りに確かめさせて」


 涙が止まらなかった。ベルカナの細く長い指が腕を撫でるのを拒むことができなかった。

 左手で、今度はユングヴィの髪を撫でながら、右手でユングヴィの腕からたらいをはずすように取り上げた。


「一回しか訊かない。どうしても答えたくないなら答えなくてもいい。でも、ひとつ訊かせてちょうだい」

「何を……?」

「赤ちゃんの父親とは今後の話をしてないの?」


 手の甲で頬の涙を拭いつつ頷いた。そのくらいなら答えてもいいだろうと、誰か特定のひとの名前を挙げるわけではないなら迷惑はかからないだろうと思ったのだ。


「どうしてかしら。そいつはあんたがこんなに泣いてるって知ってもあんたがどうしちゃったのか心配しないような男かしら」

「ううん、心配はするかもしれない。優しいから」


 だからこそ責任を負わせたくない。


「私はみんなが喧嘩するトコ見たくないんだよ。私がこのひとがお父さんですなんて言ったら、みんなあのひとになんで妊娠させたんだって言うでしょ。揉めるくらいなら何も言わない。そういうのもうごめんなんだよ」

「せめて本人にだけそっと打ち明けるとかは?」

「いい。もう私なんていなかったことにしてほしい。お荷物になりたくない。世話してほしいんだと思われたくない」


 自由でいてほしい。


「これ以上迷惑かけたくない」


 そこで、ベルカナは、「そう」と呟くように言って頷いた。

 そして戸の方を見た。


「――だって。このコはあんたとのことそんなふうに考えてるみたいよ」


 ユングヴィは目を丸くした。

 サヴァシュが戸を静かに足で押して開けていた。


「いつからいたの」

「お前が三年前ソウェイルをひとりで面倒見てどうこうと言い出した辺りから」


 ほぼすべて聞かれていたようなものだ。

 血の気が引くのを感じた。

 ベルカナはサヴァシュが戸の傍まで来ていることを知っていて、その上で、自分に喋らせたのではないか。


「騙したの」


 ベルカナが不敵に「あらあたしは全部本心で話したわよ」と笑う。


「何一つ訂正するトコなんてないわ。ただサヴァシュも聞いてただけ」


 震える手で口元を押さえる。


「なんでベルカナがサヴァシュとのこと知ってんの」

「俺が喋った。もうベルカナどころかここにいる十神剣みんなが知ってる」


 唖然としているユングヴィに、彼は「そもそも」と言う。


「俺は最初から隠す必要なんて感じてなかったけどな」


 頭の中が真っ白になった。自分の置かれている状況が見えなくなった。


 サヴァシュが部屋の中に入ってきた。寝台のすぐ傍、机に備え付けの椅子に少し乱暴に腰を下ろした。


「お前、俺がいつ迷惑だと言った?」

「でも……、だって、子供の面倒見ようと思ったらサヴァシュこの国から出てけなくなっちゃわない?」

「出ていく予定だと言ったおぼえがない。もしくはお前は俺を追い出したいのか?」

「出てかなくないの?」

「ソウェイルを王にするまでは。ソウェイルが王になってしばらくしてアルヤ王国が落ち着いたら、お前を連れて草原に帰ろうと思っていた」

「私を、連れて?」


 ベルカナは黙ってユングヴィから離れた。彼女はたらいを抱えたまま忍び足で戸の方へ向かった。戸を出て、外から静かに閉めた。


「俺にはお前の世話をさせてくれないのか?」

「赤ん坊がついてくるんだよ」

「俺は今から二人目三人目を作る気満々だぞ。いや、ソウェイルを入れたらその子でもう二人目だな」


 あれだけ泣いたのにまだ涙が出てくる。


「とりあえず最初は女の子を産め。俺は自分の娘に将来お父さんと結婚すると言われるのが夢なんだ」

「なにバカなこと言ってんの」

「お前、俺から俺の子を取り上げるのかよ。俺の夢を叶えてはくれないのか」


 腕を伸ばした。

 サヴァシュに縋りついた。

 サヴァシュはそれを黙って受け止めて、受け入れて、ユングヴィの体を抱え込んで、ユングヴィの後頭部を撫でた。


「ひとりになるな。俺が寂しいだろ」


 ユングヴィは声を上げて泣いた。






 廊下は暗いが窓から差し入る夕陽はまぶしくひとびとが歩くのに不便を感じることはない。


 壁にもたれ、一人腕組みをして待っていたベルカナのもとへと、サヴァシュが歩み寄る。


「ユングヴィは?」

「泣き疲れて寝た」

「ちょっとは話せた?」

「話したが、あいつが疲れ切っていてろくなことを言わないから、細かいことはまた明日話し合うと約束した」


 立ち止まる。


「いずれにせよ戦争が終わらないと何も動かせない」

「そうね。戦争、終わらせてちょうだいね、お父さん」

「ハイ。どうにかします」


 そして、二人揃って深く息を吐き出した。


「思い出したか?」

「何を?」

「カノを妊娠した時のこと」


 ベルカナが苦笑する。


「正直言ってちょっとうらやましいわね。あたしはホントのホントにひとりでカノを産んだから」

「そうだったな」

「だからこそあのコをひとりにしたくないの、どんだけ心細いか分かるもの。これはあたしの意地でもあるわ、十神剣でも産む時は産む、それを、男どもに分からせなくちゃ」


 体を起こして、「大丈夫よ」と言う。


「あたしはあんたの味方でもあるのよ。だって、カノを産んだ時おめでとうって言ってくれたの、あんただけだったんだもの」


 サヴァシュは頷いた。


「お前がそう言うんじゃどうにかなりそうだな。それもこれも俺の行ないがいいからか、よしよし」







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