第5話 消えてしまいたい
ひとり暗い階段を上る。
ユングヴィは、いまさら、エルナーズに申し訳ないことをした、と思った。親切心で連れ回していたがお節介だったかもしれない。
人間には独りになりたい時がある。
ユングヴィは今誰にも話し掛けられたくなかった。もしかしたら怪我をしたばかりの頃の弱っていたエルナーズもこんな気持ちだったかもしれない。
とにかくどこかへ逃げたい。
目的地はなかった。ただ部屋を出たかった。ベルカナやエルナーズから離れて追及を逃れたかったのだ。
しかし、階段を上り切り、屋上に出た時、ユングヴィは後悔した。
真冬のタウリスは昼間でも寒い。アルヤ地方の中でも北に位置していて、エスファーナより気温が低いのだ。湖から山へ吹き上がる風は冷たく湿気ていて、周辺の山々には雪が積もる。熱帯のラクータ帝国に程近い東部州の南で生まれたユングヴィには
そう言えば、エルナーズはしきりに体を冷やすなと言っていた。今になってようやく意図が分かった。
冷えると子が流れるかもしれない。
「ま、いっか……」
屋上の真ん中に歩み出た。強い風がユングヴィの頬を叩いた。
積極的に子供を殺したいわけではなかった。けれどそれならそれでもいい。全部なかったことにできるのならそうしたい。
何事もなかった顔をして戦場に戻りたい。
怪我が治ればまた銃を持てると思っていた。子供がいたら銃どころか日常のことでもできないことが増える。
何もかもがめちゃくちゃだ。
屋上の端、手すり壁に近づく。手すり壁の上に両肘をつき、頬杖をつくような形で手の甲の上に顎を置く。
タウリス城の裏手は険しい山地になっていて、敵軍には容易に近づけない、らしい。眼下にはただ山裾の崖がある。建物も人影もない。
「ユングヴィ将軍」
声を掛けられて我に返った。振り向くと、空軍の兵士が二人立っていた。見張りをしているようだ。
当然だ。今は戦争中なのだ。周りに誰がいるか分からないほど視野が狭まっている自分がおかしい。
自分が、おかしくなっている。
子供のせいだ。何もかも子供のせいでおかしくなってしまった。
「撃たれたとお聞きしています。お怪我に障るのでは」
何とか笑顔を作って「ありがとう」と答えた。
「でも、だいじょーぶ。すぐ部屋に戻るから見なかったふりして。私がここにいること誰にも言わないで」
「何かございましたか」
「んーん、何にも。ありがとう。大丈夫だよ。だいじょ――」
扉の開く音がした。
建物の内側から出てきたのはサヴァシュだった。
すぐに目が合った。
よりによって今一番会いたくない人間に見つかってしまった。気分は最悪だ。
「おい、何してんだお前」
しかもサヴァシュの機嫌もあまり良さそうではない。普段から愛想のある方ではないが、今は特に眉間に皺を寄せてユングヴィを睨むように眺めている。
「何にもしてない」
「じゃあ寝てろよ」
「部屋にいるとエルがうるさいんだもん」
「黙らせろ。お前ならできる。腕力で。どう考えてもお前の方がエルより強い」
「もーサイテー。そうなんだけど、女の子に、しかも怪我とかいろいろで弱ってる人間に言うことじゃなくない? いや、そのとおりなんだけどさ」
だが、ユングヴィはちょっと笑ってしまった。こうやって失礼なことをずけずけと言うサヴァシュが嫌いではないのだ。
「というか、最近のエルは何なんだ? お前に対してちょっと過保護になってないか? あいつと何かあったのか、あいつはもともとはああやって馴れ合う奴じゃないだろ」
「ほんとだよね、ほんとそう。普段どおりにしてくれていいのにさ」
「今もだな、エルが、お前が部屋からいなくなったと言って騒いで。それで、十神剣総出でお前を捜してた」
「十神剣総出で、って、私除いて六人でしょ。規模おっきいんだかちっさいんだか」
「大事件だ、この俺が参加してる」
「そうだね! サヴァシュが十神剣として活動してるなんて! たいへんたいへん!」
「サイテーはお前だバカ」
大股で歩み寄ってきた。
「ほら、戻るぞ。こんなところにいたら凍死する」
死にたいわけでもない。むしろ自分は死んではいけない。自分がいなくなったら赤軍が困る。だが今はいても困るだろう。どっちにしろ自分は荷物になる。
どうしたらいいのか分からない。
動けずにいるユングヴィを見て、サヴァシュが大きな溜息をついた。
おもむろに自分の
そして、ユングヴィの肩にかけた。
内側に毛皮が縫いつけられている。温かい。
「え、すご……チュルカ人の服ってこういうふうになってんの」
服の前身ごろをつかんで、合わせ目を重ねた。
安心してしまう。
「散れ」
周りで見ていた兵士たちにサヴァシュが命じる。兵士たちが顔を見合わせる。
「消えろと言っている。しばらく二人きりにしろ」
「ですが――」
「俺がいいと言ったらいいんだ」
強く言われると逆らえないらしい。何せ相手はアルヤ最強の男だ。兵士たちはすごすごと引き下がり、建物の中へと入っていった。
屋上に二人きりになった。
黙って見つめられているのが怖くて、ユングヴィはうつむいて他愛もないことを口にした。
「寒くないの?」
「寒い」
「返すよ」
「一緒に屋内に戻れば済む話だろ」
強い語調で「何があった」と問われた。
「エルに何か言われたのか」
「違うよ、エルは何も悪くない」
つい、「強いて言えば」と漏らしてしまった。
「私が悪いんだよ。ちゃんと自己管理できてないから」
それを、サヴァシュは「そうだな」と肯定した。
一瞬、この男はこんな時には甘やかしてくれないのか、と落胆しそうになったが――
「できないもんはできないんだからしょうがない。割り切って誰かの手を借りろ。なんなら俺が手を貸してやる」
きっと、こういうことが平気で言えるから、この男は最強なのだ。
「自分一人でどうにかしようとするな」
やはり、甘やかされている。とろけてしまいそうだ。
「お前は何でも自分だけで何とかしようとする。それは、もう、やめろ。何か、何でもいいから言え。俺がどうにかしてやる」
優しい。大事にされている。
涙が溢れてきて視界がぼやけた。
「泣くのかよ」
「ごめんなさい」
「泣いてもいいがどうして泣くのか説明しろ」
「ごめんなさい……っ」
「怒っているわけじゃない。謝らなくていいから、泣いていいから、説明しろ」
涙が喉に詰まったのかもしれない。言葉が声にならない。
いっそのこと打ち明けてしまおうと、自分の中にいるもう一人の自分が言う。
甘えてしまえばどうか。本人が話せと言っているのだから、ありのまま自分の身の上に起こっていることを説明してみてはどうか。
そんな自分を、さらにまた別のもう一人の自分がたしなめる。
迷惑だろう。自由を何よりも愛するサヴァシュだ、好き好んで異民族の女子供の人生を背負おうと思うだろうか。もしもチュルカ平原に帰りたくなったら、あるいはサータム帝国に行こうと思ったら、荷物になってしまう。だいたいしょせんからだだけの関係だ。しかも自分は見せびらかして自慢できる美しい妻ではない。
こんなことで悩まなければいけないのがつらい。
嗚咽が漏れた。
サヴァシュにとって、自分や子供は邪魔かもしれない。
初めて、死んでしまいたいと思った。もう何も考えたくなかった。消えてしまえればきっと楽になれる。
「……何なんだよ」
サヴァシュが手を伸ばしてきた。
ユングヴィは反射的に逃げたくなって少し身を引いた。だが、サヴァシュは逃げることをゆるさなかった。ユングヴィの手首をつかむと、抵抗できないほど強い力で彼の方へ引き寄せた。
胸が、彼の胸にぶつかった。
途端、抱き締められた。
「俺には言えないのか? 俺にも言えないのか? どっちだ」
温かくて、暖かくて、涙が止まらなくて――
「言ってくれ」
その声が、祈るようで、縋るようで、願うようで、いろんな思いが込められているように聞こえて――
「どんな小さいことでもいいから。絶対、わらったり、馬鹿にしたり、しないから。頼むから」
サヴァシュからそんな声が出るのかと、サヴァシュがそんなことを言うのかと、そう思うと、心が引き千切られそうで――
「全部、俺がどうにかしてやるから」
ユングヴィは顔を上げた。何か、当たり障りのないことを言ってサヴァシュの言葉を止めようと思ったのだ。
「なんか、不安で」
「何がだ」
「漠然と、未来のことが全部。この戦争の中で私は何をしたらいいんだろ、とか。この戦争が終わったらこの国はどうなるんだろ、私はどこで何をするんだろ、とか。私、この先どうやって生きてくんだろ、とか。頭に浮かぶこと全部が、悪い方悪い方にいっちゃって、つらくて」
その言葉を口にすると急に楽になれた。
「つらくて。ほんとに、すごくつらくて」
サヴァシュの大きな手が、後頭部を包むように撫でてくれた。
「戦争ぐらい俺が終わらせてやるから安心しろ」
瞬間、ユングヴィは決心した。
「外野のことは全部俺がやってやる。だから、とにかく生きろ」
この子を産もうと思った。
自分はこの最強の男の子供を身ごもるという幸運に恵まれたのだ。
そうと決まれば早い。この子を守るために自分ができることを最大限選んでいけばいい。
「ここ、寒いね。中に入ろう」
「やっと分かったか」
体を離した。
ユングヴィは笑顔を作った。不自然でない笑顔を見せることができたはずだ。今はもう笑うことができる。
もう、大丈夫だ。
サヴァシュも少しだけ笑った気がした。
戦争は彼に任せておけばいい。自分はどこかで勝手に一人で彼の子供を産もう。そして彼の子供を育てて暮らすのだ。子供が育つ頃にはきっと平和な世の中がやってきている。彼がきっと平和な世の中をつくってくれる。
何もかも、大丈夫だ。
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