第6話 みんな優しくしてくれればいいのに
扉の向こう側から声が聞こえる。ナーヒドの声だ。扉越しなので具体的に何を言っているのかまでは聞き取れないが、ユングヴィには予想がついていた。たぶん、サヴァシュを怒鳴っている。いつものことだった。
正直に言うとユングヴィは怒鳴り声が怖い。兵士たちが大声を出すのなど日常のことで、軍隊生活が長くなるにつれて次第に麻痺してきてはいたが、できれば聞きたくなかった。
特に今はいろんな感覚が過敏になっている。
本格的に軍隊を離れる決意を固めた。どこか遠い静かなところであまり他人とやり取りせずにおとなしく過ごそうと思った。自分は子供を怒鳴ることなく育てよう。優しく穏やかな声だけを聞かせて育てるのだ。
見張りの空軍兵士が声を張り上げた。
「ユングヴィ将軍がお越しです! 中にお入れすることを許可願います!」
そんな内容でさえ今のユングヴィにはもう大きな声だと耐えられない。
怒声がやんだ。一瞬静かになった。
ややして、ナーヒドの声で「入れ」と返ってきた。
兵士たちが扉を左右に開けた。
案の定、扉から見て部屋の奥、会議用の円卓をずらして、ナーヒドとサヴァシュが立った状態で睨み合っている。
ナーヒドの腕をバハルが、サヴァシュの肩をベルカナがつかんでいる。
ラームテインとエルナーズは、ひょっとして立たされたのであろうか、円卓の脇に突っ立って冷めた目をしていた。
不思議なものだ。こうしてみんなの顔を見ていると、安心で泣きたくなる。もうすぐ別れの日が来ると思えばなおさら、不機嫌そうなみんなの顔も目に焼き付けておきたくなる。
日常がいとおしい。
本当はみんなといたい。誰とも離れたくない。
みんな私に優しくしてくれればいいのにと、ユングヴィは愚かにもそんなことを思った。
バハルの腕を振りほどきつつ、ナーヒドがこちらを向いた。
「貴様は呼んでいないぞ」
ベルカナは「そんな言い方ないでしょう」と言ってくれた。しかし珍しくサヴァシュがナーヒドと同じことを言った。
「そうだ、お前は部屋でおとなしくしていろ。わざわざ出てこなくていい」
バハルも苦笑しつつ言う。
「まあ、ユンちゃん今、怪我もひどいし、体調悪いじゃんね。ユンちゃんには休んでてほしいわけ、部屋でゆっくりしててほしいわけ。ね? だからこっちは気にせず部屋に戻ろう」
バハルに「ほら、お前らも」と促されて、ラームテインとエルナーズが顔を見合わせた。
ラームテインが口を開いた。
「正直なところをはっきり申し上げますと、途中で体調を崩されたら対応に困るので自重してほしいですね」
バハルは「あちゃー」と言って自分の頭を押さえたが、エルナーズはそんなラームテインに続いた。
「無理して頑張るのがいいことだと思わないでほしいわ。周りも無理してあんたを庇うはめになるから」
ユングヴィは頷いた。
「分かった、すぐに出てくよ」
今すぐにでも城を出てどこか遠くへ行こう。
「でも、ひとつ、みんなに話したいことが。どうしても、みんなに、伝えておきたいことが、あって」
みんな目配せし合った。
「ちょっとだけ、時間が欲しいんだけど。みんながいる状態で、私の話を、聞いてほしいんだけど」
意外にも、最初に「承知した」と答えたのはナーヒドだった。彼は几帳面にも円卓を引いて元の位置に戻してから、「座れ」と言ってきた。彼自身も席につく。
「とっとと話せ。すぐに終わらせろ」
ナーヒドに続いて、ベルカナも椅子に腰を下ろした。それから、他の四人にも「座りなさい」と促した。
ユングヴィは、深呼吸をしてから、ナーヒドの真向かいに座った。
六対の視線が突き刺さる。全員が自分を見ている。
だが言わなければならない。黙って出ていくのは無責任だ、今自分がいなくなったせいで違う騒ぎになっては困る。自分の意思で出ていくことを理解してもらってからでなければならない。
それに――言ってしまって楽になりたかった。
緊張する。喉が渇く。
でも、今だ。
ここで根性を見せなければひとりで出産など乗り切れないだろう。
「大丈夫よ」
ベルカナの声がした。
「みんな聞いてるわ。みんな、あんたのこと待ってるわよ」
エルナーズもラームテインも、バハルもサヴァシュも、ナーヒドでさえ、ユングヴィを急かさないのだ。
本当は、みんな優しい。
離れたくない。
視界が滲んだ。直後頬に生温かい露がこぼれた。
一時の感情に流されてはならない。何が一番大切なのかを忘れてはならない。
「子供が――」
何があってもこの子だけは守ると決意した。優先順位の一番はこの子だ。
「赤ちゃんが、できちゃって」
ラームテインとバハルは、目を大きく見開き、驚愕の表情を作ってユングヴィを見た。ナーヒドは何を言われたのか分からないらしく変わらぬ顔をしていた。ベルカナとエルナーズは目配せし合っていた。
自分の腹部を、押さえるように撫でた。
あともう少し――
「だから、私はもう戦えない」
あともう少し話したら――
「もう、軍隊にはいられない。どこか――どこか、誰もいないところで一人でゆっくり赤ちゃんと向き合いたい」
あともう少し話すことを頑張れたら、あともう少し緊張や恐怖と戦えたら、あともう少し、あともう少しだけ――
「ごめんなさい。でももう決めたから。私はもう、支度ができたらすぐ、城から離れて、みんなの前からいなくなるから」
強くなれたら――
「こんな時に、こんなこと、って、自分でも思うけど、でも――ゆるして」
きっと、幸せになれる。
幸せになりたい。
ずっと欲しかった温かい家庭を、この手にしたい。
しばらくの間沈黙が場を支配した。誰も口を開かなかった。
だいぶ間を置いてから、ベルカナが言った。
「あんた何言ってんの」
怒られると思った。
何も言われたくなかった。何も聞きたくなかった。決意を揺るがすような言葉を突きつけられたくなかった。
もう説明することなどない。
ユングヴィは立ち上がった。
「もう決めたから! 私絶対赤ちゃん産むから!」
喉の奥から、心の底から、絞り出した。
「誰が何言ったって私産むから! ひとりで勝手に産むからほっといて!」
「待ちなさい、あんた――」
「待ってられない! のんびりしてたら生まれちゃう、もうあと半年くらいで生まれちゃうんだ、時間がぜんぜんないんだ!」
「落ち着――」
膝が震える。
「ごめんなさい」
これ以上ここにはいられない。
耐え切れなくなって扉に駆け寄った。
扉を押し開けた。
「赤軍のことはまた明日副長と話すから、あとはお願い」
「ユングヴィ!」
「ごめんなさい!」
小走りで部屋を出た。ベルカナが立ち上がったのを無視して強引に扉を閉めた。先ほどの見張りの空軍兵士たちは一度驚いた様子でユングヴィを見たがユングヴィが睨みつけると何も言わずに目を逸らした。
急いでその場を離れた。自分の部屋に向かって急ぎ足で歩いた。
やっと言えた。
これでもう解放される。みんなとお別れだ。
歩きながら途中でサヴァシュの反応を確認していなかったことに気づいた。だが、どう思われてもこの決意を翻すことはないのでこのままでいいと思った。
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