第3話 なんだかんだ言ってお前もいい奴なんだな
次に気がついた時、傍にいたのはサヴァシュではなくエルナーズだった。
水の音が聞こえてきたので、ユングヴィは目を開け、顎を持ち上げて横を向いた。
寝台のすぐ傍、壁に備え付けられた机に向かって、エルナーズが何か作業をしている。
手元にあるのは金だらいだ。どうやらたらいに水を張っていて、その中で何かに触っているらしい。時々右手に握られた小刀が見え隠れする。
それにしても、エルナーズの立ち姿は美しい。手足は長く、腰つきは華奢で、肉の厚さは感じられない。細くしなやかな体躯を守るために毎日体操をして走り込んでいるらしい。破壊力や瞬発力を求めて太い肉を身にまとう兵士の体つきとは異なる。
顔に目をやる。
途端胸が痛む。
エルナーズは最近前髪を伸ばしている。顔の傷を隠したいのだろう。目の下、頬の途中までが前髪に覆われてしまった。それでもまだ隠し切れない部分には白い木綿布をあて、上から糊つきの紙紐を貼って留めている。形の良い、少し薄い唇だけが見える。
本当はユングヴィも泣きたい。大事な、アルヤ軍の宝物である美しい少年の顔が、二目と見られない状態になってしまった。できることなら抱き締めておいおいと泣きたかった。
しかし傷を負ったエルナーズは当初近づくことさえ許さないほど殺気立っていた。何とか徐々に落ち着いてきてはいるが、いつしかユングヴィの方が過干渉はするまいと思って耐えるようになった。本人が何も言わないのなら周りも騒がずに見守るべきだ。
なんだかんだ言ってエルナーズは強い子だ。このタウリスの闇の中でひとりからだを売って生きていただけあり、それでも生きてやろうという根性がある。ユングヴィよりたくましいかもしれない。だいたい金も払わずに抱き締めるのなど高級男娼だった彼に失礼だ。余計なことはしないに限る。
エルナーズが机に広げている白い布の上に小刀を置いた。そしてもう一度たらいの中に右手を差し入れた。
次の時出てきた右手には、赤い宝石のような粒がつままれていた。
エルナーズはそれを無言で自分の口の中に入れた。
ユングヴィは跳ね起きた。
「ちょっとそれ
「あら、おはよう」
たらいに両手を突っ込んだまま、エルナーズが顔の正面をこちらに向けた。長い前髪は額の右の方で横分けにされていた。この一、二年で多少男らしくなったとは言えやはり整っている右半分、長い睫毛の涼しげな目元が見える。微笑んでいる――というよりは、意地悪く笑っている。
肩や背中の痛みはだいぶやわらいでいた。胸のむかつきも、なくなったわけではないが、何か口に入れたい気持ちの方が勝る。何か――果物だ。水気が多くて酸味があるものを口にしたかったのだ。
「それ……それちょうだい……一口でいいから……」
「ええー、どうしようかなー」
「お願い……私それ食べれなかったらもうこのまま何も食べれなくなって死んじゃうかもしれない……」
エルナーズが笑った。
「冗談よ。あんたに食べさせようと思って用意してたの」
手を出し、水を切ってから、たらいの向こう側に伸ばした。次に持ち上げられた手には真新しい柘榴が握られていた。どうやら複数個あるようだ。
「わあ、わああ……! それ私が貰っていいのっ?」
「もちろん。何か、とりあえず何でもいいから食べられるものを食べさせてあげなきゃってずっと思っていたんだから」
やはりたらいの向こう側から深皿が出てきた。エルナーズはたらいの中にあった柘榴の粒を深皿に盛った。そして寝台の上に座ったままのユングヴィの膝の上にのせてくれた。
「おかわりもあるから、たんとお食べ」
礼を言うのも忘れて、手が汚れるのも構わずわしづかみにして口の中に押し込んだ。絶妙な酸味と甘みが広がった。おいしい。こんなにおいしい柘榴は生まれて初めて食べた。
涙が溢れてきた。
口元を拭うこともなく無我夢中で貪った。エルナーズが「落ち着きなさいよ」とたしなめてきたが返事もしないでとにかく口に入れ続けた。
おいしかった。
「……そんなにつらかったんなら、つらいって言えばよかったじゃない」
ふたたび小刀を手に取り、二つ目の柘榴を解体し始めたエルナーズが、呟くように言う。
ユングヴィは、皿に盛られた分を平らげてようやく少し冷静になった。
そう言うエルナーズは何があってもつらいとは言わない。顔が吹っ飛んだ時でさえ、つらそうにはしていたが、言葉にはしなかった。ユングヴィもバハルもラームテインもそのうち黙って命を絶つのではないかと心配したくらいひとりで抱え込んでいた。
つらいとか、悲しいとか苦しいとか、そういう感情は秘めておくのがタウリスの遊女の優雅なところなのだ。彼はきっとそんな自分を美しいと思っているのだ。
分かっていても、年下のエルナーズが言わないのに年上の自分が言うのは違う気がしてしまう。
ユングヴィはあえて笑って「おかわり」と言った。エルナーズが「はいはい」と言って左手で皿を取った。
「この時季に柘榴食べれると思ってなかった……。乾燥
「あんたがどうしても果物食べたいって言うからこの俺が一生懸命探してきてやったのよ。苦労して、昔の悪い仲間を探してつてを辿って歩き回って、今朝になってようやく買えたものなんだから。感謝して食べなさいよね」
「やだ、なんかエルがめちゃくちゃ優しい。私ほんとに大変に見えたんだね、よっぽどヤバく見えたんだね。でもだいじょーぶ、普段どおりでいいよ」
頬を引きつらせて「あんたそれ俺に失礼じゃない?」と言ってから、彼は溜息をついた。
「どっちにしろすることがないの。俺が珍しく十神剣らしいことをしようと思って気合い入れて軍議に顔を見せたら、ナーヒドが素人は邪魔だって言うから、やる気がごっそりお亡くなりになってね。じゃあ黙って去りますわ、って」
「うわあ、ナーヒドってなんでそういうこと言うかなあ……」
次の柘榴を受け取りつつ首を傾げる。
「でも、急にどうしたの? エルが十神剣に参加してくれること、嬉しいけど、今までなかったじゃない? 私が寝てる間に何かあった?」
エルナーズは、腰に手をあてつつ、苦笑した。
「あんたのせいよ」
「え、私?」
「あんた、言ったでしょ。こんな体でもできること探してやってるんだ、って。俺も、あんまり顔のことばっかり気にしてうじうじしないで、他にできること探そうかな、って思ったの」
また、泣けてきてしまった。
「別にいいよお、顔がどうなったってエルはエルなんだから、好きなことやんなよお」
「好きか嫌いか以前にやってみなきゃ分かんないことっていっぱいあると思ったの」
「うわーっ! エル、あんまり成長しないで! 私より大人になんないでーっ」
「あんたたまにものすごいひどいこと言うわね」
机の方に向き直る。三つ目の柘榴を小刀で割る。
「ま、軍人はやっぱり向いてないかもね。それに、あんたの言うとおり、こんな顔でも俺でいいって言う男が現れるかもしれないし。気長にあんたの世話をして時を待つわ」
「私の世話をしてくれるの?」
「そんな体のあんたをひとりにするわけにいかないでしょ。俺は人間ってひとりになる時間も必要だと思う派で、四六時中誰かと一緒にいた方がいいとは思ってないけど、でも、今のあんたはひとりにしたくないんだわ」
ユングヴィは鼻をすすった。
その言葉は、傷ついたエルナーズを見てユングヴィがバハルに言った言葉と重なっていた。
今のエルナーズはあの時のユングヴィと同じ気持ちなのかもしれない。
エルナーズが「あんたどんだけ泣くの」と言う。ユングヴィは手の甲で頬の涙を拭いながら「ごめん」と笑った。
「なんか目がバカになったみたい。さっき――昨日? 時間の感覚もバカになってるからちょっと分かんないんだけど、サヴァシュと一緒にいた時もすごい泣いちゃって」
「サヴァシュ? なに、サヴァシュがここにいたの?」
まずいと思った。何がまずいのかは分からなかったが、ユングヴィはこれ以上サヴァシュの話題をしてはいけないと思った。特にエルナーズは感覚が鋭い。とにかく違う話題に移らなければならない。
「これからはエルが私と一緒にいてくれるって?」
「あんたが嫌じゃなければ。いろいろ不自由なことあるでしょ、手ぇ出してあげる」
「じゃあさ、ねえ、さっそく一個わがまま言ってもいい?」
「なに? 聞いてあげるとは限らないけど、とにかく、言ってみたら?」
「タウリスことば聞きたい……! 西部弁で喋って……!」
「はあ? 何言うてはりますのん、外ではよう話しまへんさかい言わんといてくれはらしまへんやろか」
「んん! 可愛い! もっと!」
「嫌よ! 終わり! うわ、これ、すごい恥ずかしい! 俺今顔から火が出そう!」
「恥ずかしがってるエルも可愛いよお!」
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