第6話 髪を見るのはすけべなことだ

 フェイフューを彼の部屋に押し込めて戻ってきたところ、扉の隙間からソウェイルとシーリーンの声が聞こえてきた。完全に閉まっていなかったらしい。暴れるフェイフューを担いでいたせいだろう。


「いっこお願いしてもいい?」

「はあい、何でしょう」


 部屋の中を覗き込む。

 部屋の真ん中に、ソウェイルとシーリーンが座っている。二人とも機嫌が良さそうだ。


「マグナエをとってくれ。かみの毛が見たい」


 シーリーンは少し驚いたらしい。目を丸くしてソウェイルを眺めた。

 だがすぐにちょっと笑って、「はい、かしこまりました」と言い、自らの顎の下に手を伸ばした。

 顎の下、マグナエの端の結び目をほどく。左回りにといていく。

 長い前髪の端がほろりと胸に落ちた。

 飴色の髪は後頭部でひとつの団子にまとめられており、いつかテイムルが贈った銀の挿し櫛がさされていた。

 挿し櫛をはずすと、緩く波打つ豊かな髪がふわりと広がった。長い毛先がはらはらと降るように床へ届いた。


「さわってもいい?」

「どうぞ」


 ソウェイルが両手を伸ばした。

 シーリーンの胸の辺り、右手で左胸の上の、左手で右胸の上の部分を優しくつかんだ。

 髪を自分の方へと引き寄せる。握り締め、それぞれの拳を自分の頬にあてる。


「いいにおい」

「ありがとうございます」

「おれ、シーリーンのかみの毛、すきだ。ユングヴィとぜんぜんちがう。ユングヴィのかみはごわごわでつんつんだけど、シーリーンのかみはさらさらでふわふわだ……」

「嬉しいお言葉ですが、それはけしてユングヴィ将軍の御前でおっしゃってはなりませんよ」

「だいじょーぶ、シーリーンがナイショにしてくれたらナイショだ」

「あら、あら」


 ソウェイルがほうと息をつく。


「どうしてかくしてしまうんだ? いつも見ていたいのにな」


 シーリーンが「困りましたねえ」とさほど困っていなさそうな声で言った。


「いいですか、殿下。髪を外に出すというのは、女にとっては裸を晒す行為なのです。髪を見せるには相手の方と家族になってもいいという覚悟がなければなりません。家の外では慎まなければならないことです」


 慌ててシーリーンの髪から手を離した。


「はずかしいこと? 今、シーリーンははずかしい? おれシーリーンにいやなことさせたか?」

「いいえ、殿下は特別です。殿下は『蒼き太陽』でいらっしゃいますから、国じゅうの娘からマグナエを取ってもいいのです。その代わり、からだを見るのと一緒のことなのですから、責任をとってお嫁に貰わねばなりませんよ」

「えっちだ」

「そうです、そういうことですよ。慎みましょうね」

「ごめんなさい……。しまおう……」


 シーリーンの手からマグナエを取り、自ら彼女の頭に巻こうとする。彼女は小さく笑ってされるがままにした。


 扉を軽く小突いて音を出した。ソウェイルとシーリーンがこちらを向いた。


「失礼します」


 大きく開けて中に入ろうとする。

 珍しくソウェイルが「来るな」と怒鳴った。


「えっ、だめなんですか」

「まだいいって言ってない」


 立ち上がり、シーリーンを隠すように強く抱き締める。シーリーンが今度こそ本当に困った顔をして「あら」と呟く。


「かみを見たらいけないんだ。テイムルのすけべ」

「はあ、すみません」

「本気で悪いと思ってないだろ!? 女の人にとってはかみを見られるのはたいへんなことなんだ、けっこんしないといけなくなったらどうするんだ」


 テイムルは、立ち止まり、自分の口元を押さえた。


「殿下としては、テイムルとシーリーンは結婚してはいけませんか」


 ソウェイルがきょとんとした。


 しかし、さて、何をどう話したらいいのか。何から説明すべきか。説明、というより、釈明、だろうか。どこからどう語り聞かせればソウェイルに現状を理解し許してもらえるだろう。


 テイムルが悩んでいるうちに、シーリーンがそっとソウェイルから体を離した。手早く髪をまとめて、挿し櫛をつけ、マグナエを巻いてしまった。「はいおしまい」と微笑む。


 ソウェイルはまだテイムルとシーリーンを交互に見て混乱した様子を見せていた。けれどシーリーンが何事もなかった顔で「どうぞ、テイムル将軍、おいでませ」と言うので、テイムルは部屋の真ん中に移動して二人のすぐ傍に座った。


「フェイフュー殿下はすんなりお部屋に戻られました?」


 問われて、溜息をついた。


「フェイフュー殿下はいつもああなのかな」

「ええ、ほぼ毎日ああですよ。お外やお友達のお宅で遊ばれたあとこちらにいらしてお夕飯の時間までここで過ごされます」


 ソウェイルの方を向き、「嫌なら嫌とおっしゃらなければなりませんよ」と言うと、ソウェイルはうつむいて「べつにいやじゃないけど」と口ごもった。


「学校に通い始めてたくましくなったかなとは思っていたけど、少したくましくなりすぎているのでは」

「わんぱくなのは今に始まったことではありませんが、知恵がついたと申しますか、何と申しますか……もう私では言い負かされてしまうのです」

「ラームが悪いんだな、ラームが余計なことを教えるから。辞書のひき方もたぶんラームが教えたんだ」

「悪くはありませんよ、私はラームテイン将軍が悪さを教えているとは思いません。遅かれ早かれ身につけなければならないことなら早いうちから知って馴れ親しんでおいた方がいいのです。けれど――」


 ちらりとソウェイルを見る。暗に、フェイフューに比べてソウェイルの成長が遅い、と言いたいのだろう。シーリーンにはソウェイル本人を前にして直接口にはしない分別がある。


「ユングヴィがちゃんとしていたらな」


 もう何度目になるか分からないぼやきをまた口にしてしまった。


 憤りをこらえきれない。

 ユングヴィはソウェイルに最低限の生活しかさせてこなかったのだ。生きるのに必要なぎりぎりの衣食住しか与えず、年相応に成長させることは考えていなかったのだ。

 ソウェイルは、三年間、ユングヴィ以外の人間と会話をすることすらなく過ごしてしまった。


 テイムルには何となく分かっている。

 ユングヴィ自身がそういうぞんざいな扱いを受けて育ったのだろう。

 彼女は都の地下で暮らし始めるまでどこで何をしていたのか語らない。どこで生まれ、どんな親兄弟がいたのか、十神剣では知っている者はおそらくいない。

 だからこそ逆に彼女の親がどんなふうに彼女を育てたのかが想像できてしまうのだ。


 そんなユングヴィである、テイムルはソウェイルを教育してほしかったとまでは言わない。


 助けを求めてほしかった。

 一言現状をほのめかしてくれれば誰かは察して手を差し伸べただろう。少なくともテイムルは全力でソウェイルを守ったしユングヴィを批判的に見ることもなかった、二人のために何とかしようと必死で考えただろう。


 彼女の心の奥底にはきっと闇が広がっている。十神剣も赤軍兵士も誰一人立ち入ることのできない闇だ。あのベルカナでさえ安易には踏み込まない。


「テイムル将軍」


 顔を上げると、シーリーンが首を横に振っていた。


「王妃様に信頼していただけなかった私たちが悪いのです」


 意識して深く息を吐いた。


 ソウェイルの前でユングヴィを非難するのは厳禁だ。ユングヴィがどんな人間であってもソウェイルにとっては三年間唯一の親だったのだ。


 ユングヴィがタウリスに行ってから、ソウェイルは少し情緒不安定だ。ユングヴィがすぐ会える範囲にいなくて不安らしい。

 テイムルはこのままユングヴィに帰ってきてほしくないと考えているとは口が裂けても言えなかった。テイムルがユングヴィをそんなふうに思っていると知ったら、ソウェイルは今度こそ本格的にテイムルを嫌うだろう。


「そうだね。ちゃんとしていなかったのは僕だ」


 ユングヴィをひとりにしなかったら――ナーヒドと行動を別にしていたら――真っ先に後宮ハレムの様子を見に行っていたら――王よりソウェイルを取っていたら――


「これからやり直しましょう」


 シーリーンが表情を緩める。


「三年かければ。いえ、もしかしたらもっとかかるかもしれないですけど。シーリーンは、いつまでも、いつまでも、お付き合いしますから」


 テイムルも表情を緩めた。


 そこで、それまで黙っていたソウェイルが突然口を開いた。


「なあ」


 一瞬胸が冷えた。ユングヴィに対して批判的な言葉を口にしたかどで責められるか、あるいは、三年前のことで彼しか知らない何かを告白されるか、と予想したのだ。


 ソウェイルは想定外のことを言い出した。


「テイムルとシーリーンって、ひょっとして、仲がいいのか?」


 テイムルもシーリーンも同時に「えっ」と漏らした。

 ソウェイルの、大きな真ん丸の瞳が、自分たちを見ている。


「シーリーンはべつにテイムルならかみの毛を見られてもいいのかと思って」


 心臓が破裂しそうだ。


「あらら? どうしてでしょうか」


 シーリーンが笑みを取り繕う。


「シーリーンはそんなこと一言も申し上げておりませんよ」


 うっかり、テイムルの男心が傷ついた。


「シーリーンはテイムルがすきくない?」

「好きですよ」


 一瞬浮上したが――


「まあ、シーリーン、みんなのことがすきだもんな」

「そうですね。シーリーンは誰のことも嫌いではないです」


 叩きのめされた。けれど今度こそ本当に私的なことなのでテイムルには何も言えなかった。






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