第5話 フェイフューは大きくなりました

 フェイフューは、部屋に入るとまず、自然と机の前に向かった。

 本をまとめた帯を解き、中で一番分厚い一冊を取り出す。同じく、筆記帳ノートを開く。葦筆ペンをとり、先端を墨壺に突っ込む。

 開いた本――おそらく辞書――を見ながら、右から左へ単語を書き始めた。憂慮、憂慮、憂慮――尖った先端は小気味よいほど規則正しい音を立てて文字をつづった。

 勉強熱心は結構だが、ここはソウェイルの部屋である。

 ソウェイルは、当たり前のような顔で自分の机を使い始めた弟の背中を眺めて、部屋の真ん中で呆然と突っ立っていた。

 さらにその一歩後ろで、テイムルはシーリーンと顔を見合わせた。

 シーリーンが肩をすくめた。

 フェイフューの部屋は別にある。それも、寝室、勉強部屋、物置き兼衣裳部屋と、三部屋も用意している。人もいる。家庭教師も乳母も護衛官も侍従官もみんなちゃんとソウェイルとは別につけている。

 それでも彼の中ではだめらしい。

 ソウェイルが力なく座った。フェイフューが机の脇に放った残りの本――おそらくは何かの教科書――の表紙をめくった。その姿からは哀愁を感じた。

 シーリーンがテイムルに小声で話し掛けた。

「あなたからおっしゃってください」

「ええ、僕が?」

「フェイフュー殿下は女ではだめなのです。一般の従者や白軍兵士でもだめ。ある程度身分のある方でなければ」

「ナーヒド兄さんはいったいどんなしつけをしたんだ……」

「そのナーヒド将軍の義弟であるあなたの出番ですよ」

「無理だよ、だってそのナーヒド兄さんが僕を格下に見ているというのに、フェイフュー殿下が僕の話を聞いてくださるわけがない」

「いけません、毅然とした姿をお見せしてください。陛下亡き今白将軍が一番王子様がたに近いおとなの男性であるべきです」

 フェイフューが振り向いた。ソウェイルと同じ蒼い瞳でテイムルとシーリーンを見た。

「何か?」

 これは、自分が悪いとは微塵も思っていない顔だ。

「いいんだ」

 ソウェイルが消え入りそうな声で言う。

「おれ、ひまだし。つくえ、使わないし。フェイフューの勉強が終わったら、フェイフューの学校の話を聞くから」

 空気が読めないのか、それともあえて読まないのか、フェイフューが「もうすぐ終わりますよ」と朗らかな声で告げた。ソウェイルが「うん」と頷いてさらにページをめくった。テイムルとシーリーンは溜息をついた。

 フェイフューが学校に通うようになってから、半年が過ぎた。

 通わせることにしたのはウマルだ。日がな一日ラームテインと遊んでいるのを見て、年の近いこどもたちとやり取りさせて集団行動や王宮の外の生活を学習した方がいいのでは、と思ったらしい。

 当初はナーヒドが反対していた。下々の者たちと交わるのは王族としての威厳にかかわるとか、毎日宮殿の外に出るのは警備上の問題があるとか、次々と理由を見つけてきては嫌がった。

 だが、フェイフュー自身が宮殿の外に興味を示した。

 最終的に、フォルザーニー卿のすすめで、貴族の子弟が集まる、蒼宮殿からほど近い寺院の手習い所に入れた。

 フェイフューは気力も体力も有り余っている。朝から昼にかけて学校で活動した上で、帰宅後家庭教師から帝王学や武術を習う、という暮らしにもすぐに慣れた。

 通い始めたばかりの頃は問題もあった。

 学友と取っ組み合いの喧嘩をして相手に怪我をさせたことがある。聞くとどうやら相手は勉学ができすぎるフェイフューをやっかんでいたらしい。

 ナーヒドは突っかかってきた相手の方が悪いと断言した。ウマルは、男の子はそれくらい威勢がいい方がよい、と言って笑い飛ばした。結局テイムルが相手の親に頭を下げに行った。

 男児の世界の常で、フェイフューが腕っぷしも強いことを知った学友たちは以後変な絡み方をしなくなったようだ。しかし、それはつまりガキ大将の座を得て学友たちの上に君臨しているということでは、と思うと、テイムルにとっては悪夢である。

 そんなフェイフューに対して、ソウェイルはずっと宮殿にいる。

 これもウマルの判断であった。

 ソウェイルの学力の深度は三年前に止まっていた。簡単な文章の読み書きはできたが、長文は読めなかったし、掛け算や割り算もできなかった。社会や科学の知識も皆無であった。

 このまま同年代の集団に放り込んだら恥をかくのはソウェイルだ、したがって当面は宮殿で家庭教師から学ばせる――そう決めたウマルに、テイムルは心から感謝した。

 思えば、ソウェイルとフェイフューが宮殿に戻ってきたばかりの頃、双子の後見をする、双子の教育の世話をする、と言ったウマルへの風当たりは強かった。ナーヒドとユングヴィはもちろん、国じゅうの者、テイムル自身もウマルに反感を抱いていた。今となっては、少なくともテイムルとシーリーンの間では、ウマルは教育者として、あるいは親として、立派な人間だった、ということで一致している。

 テイムルには双子をどう教育したらいいのか分からない。特にソウェイルについては悩んでばかりだ。今から学校に通わせて大丈夫だろうか。フェイフューを中心に出来上がっているらしい教室は居心地が悪くないだろうか。そもそも、『蒼き太陽』であるソウェイルを宮殿の外に出していいのか。

 気がつくと、ソウェイルとフェイフューが部屋の真ん中に座り込んで向き合っていた。

「テイムル」

 フェイフューに呼ばれた。いつもどおりに「はい何でしょう」と答える。

「大学の件、学校でもうわさになっています。学校でぼくたちが話すくらいです、ちまたでは相当な話題になっているのではないでしょうか。サータム人に好きにされているということを一般民衆に知られるのなどいかがなものでしょう」

 まさか九歳のこどもに叱責される日が来ようとは思っていなかった。

「アルヤの民衆はサータム人にきぜんとした態度を見せられる強いアルヤを求めています。対応しているというかっこうを見せておいた方がいいのではありませんか?」

 テイムルの返事を待たずに、ソウェイルが口を開いた。

「そう言ったって、大学にずかずか入っていって、争いごとになるのはだめなんだろう?」

「そうです、大学は学問のためにある神聖な場所です。学徒に危険が及ぶようなことがあってはなりません、学問をする人間はなんぴとたりとも保護されなければなりません」

「フェイフューはどう対応したらいいと思う?」

「どう、と言うと……大学に介入していくことは難しい、としか……」

「こっちがどうこうするんじゃなくて、大学の学生さんとかに出ていってもらうように言ってもらうしかないんじゃないのか。学生さんがじゃまですって言えば、学生さんの勉強のじゃまはしたらいけないんだから……」

 思わず手を叩いた。大きな声で「それだ」と言ってしまった。驚いたらしいソウェイルが目をまん丸にしてフェイフューに身を寄せた。

「なんと、ソウェイル殿下、素晴らしいお考えです! ぜひとも白軍でそのように対応いたしましょう」

 大学側に白軍から協力要請の書面なり賄賂なりを送って白軍の介入を許可させればいいのだ。大学側から要請があったとなれば体面は保てる。

 ソウェイルが考えたことである。ソウェイルが言ったのだ。ソウェイルの知恵だ。

 ソウェイルにも政治を考えることができるのだ。

 嬉しい。

 フェイフューも「いい考えです」と笑った。

 直後だ。

「学生たちを巻き込みましょう。サータム人たちが学生に危害を加えたということになれば堂々と始末できますしね」

 テイムルもソウェイルも顔をしかめた。

 フェイフューは一人楽しそうに喋り続けている。

「いっそ学生側に武器を渡してもいいのです」

「いつそんなぶっそーな話になった……?」

「何が物騒ですか。何度も言いますが、サータム人たちに好き勝手をさせるわけにはいかないのです、このような騒動を起こした以上は処刑しなければなりません」

 これ以上ソウェイルに野蛮な話を聞かせるわけにはいかなかった。

 腕を伸ばした。

 フェイフューの体をつかんだ。

 抱え上げ、肩に担いだ。

「わあああ!? 何をするのですかあっ」

「フェイフュー殿下はもうご自分のお部屋に戻りましょう」

「なぜです!? ぼくはまだ兄さまと話し足りないですっ」

「またお夕飯のあとになさいませ。ソウェイル殿下はお疲れです、お休みが必要です」

「兄さまはそんなことはひとつも言っていないですうっ」

 フェイフューが手足をばたつかせた。こういう仕草は九歳児そのものだ。ソウェイルよりは一回り大きく重いがテイムルにとっては苦になるほどでもない。たかが九歳、されど九歳である。

「いやーですぅーっ」

 扉の方へ歩き出した時、ソウェイルがフェイフューに手を振っているのが見えた。さようならの合図だ。

 右肩にフェイフューを担いだまま、左手で扉を開けて部屋の外に出た。ソウェイルとシーリーンはそれを無言で見送った。

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