第2話 甘いひととき

 水滴を拭うと、テイムルはソウェイルを抱え上げた。

 これも毎日のことだった。

 せっかく丁寧に洗い清めたのだ、ここまで履いてきた靴をふたたび履かせたくない。新しい靴のある部屋まで一歩も地面を踏んでほしくなかった。


 蒼宮殿の北側、かつて大勢の妃たちがいた頃は後宮ハレムとして使われていた辺りに、双子の王子たちに居住の場として割り当てられた区画がある。

 王の子は基本的にその子を産んだ妃が育てるものとされている。王子も王女も結婚適齢期になるまでは基本的に後宮ハレムで育つのだ。双子もエスファーナ陥落以前は第一王妃の私室近くに居室を持っていて今もその辺を使うようウマルが手配したのである。


 今は双子しかいない。女は、妃も姫も誰一人としていなくなってしまった。

 後宮ハレムは本来男が入れる空間ではない。だが、今は特別だ。双子の護衛や教育のために許可された白軍兵士や家庭教師は出入りをしている。


 テイムルはソウェイルを抱えたまま後宮ハレムのソウェイルの部屋に向かっていた。

 中でも、ソウェイルの着替えのために使われている部屋へ向かう。

 その間、ソウェイルは黙って抱えられている。


 大きな蒼い瞳は、どこか一点を見るでもなく、ぼんやりと外を眺めている。おとなしい。当初は自分で歩けると主張して嫌がっていたものだが、いつしか慣れてきたらしかった。


 それにしても、軽い。九歳とはこんなものであろうか。テイムルには姉が四人おり、ソウェイルと同じくらいの甥や姪もいるが、その子たちを抱えてみたことはない。いつか比べてみようか。


 わざわざテイムルの親戚の子供たちなどと並べずとも、ソウェイルと同い年の子供が、一人、宮殿の中にいる。


 フェイフューの顔が頭に浮かんだ途端、胸の奥が痛んだ。


 ソウェイルとフェイフューだと、どう考えてもフェイフューの方が大きい。


 あまり深く考えてはならない。ソウェイルとフェイフューはあくまで同じ日に生まれただけのまったく違う生き物だ、そう何度も比較すべきでない。強いて言えば、きっとフェイフューの発育が良いのだ。ソウェイルは何も悪くない。


 こうして抱き上げるのも難しくなるくらいソウェイルが大きくなったらいい、と思ったり、フェイフューがどれだけ大きくなろうとソウェイルはいつまでも今の大きさのままでいい、と思ったり、気持ちはなかなか忙しい。


 ソウェイルの濡れた蒼い髪に頬を寄せる。


 ソウェイルを他の子供と比べるのがよくないのだ。ソウェイルは大きくなった。三年前生き別れた時のソウェイルはもっと小さかったはずだ。


 さらに言えば――テイムルはソウェイルを初めてこの腕に抱いた時のこともはっきり憶えていた。

 双子だからか、甥たちや姪たちが生まれた時より一回り小さな赤ん坊だった。それでも待望の第一王子だ。しかも髪の毛が蒼い。全アルヤ民族が待ち望んだ『蒼き太陽』である。

 テイムルの父と母も、先代の王と王妃も、誰もが口を揃えて言った。


 ――お前は白将軍としてこの太陽のために死ぬのです。


 やっと定まった自分の宿命をテイムルは喜んで受け入れた。当時テイムルは十四歳だった。


 扉の前に立つと、テイムルは声を張り上げた。


「シーリーン!」


 呼ぶ声に反応して、扉の向こうから甘い女の声が聞こえてきた。


「はあい、お待ちしておりましたよ」


 扉が内側から開いた。


 顔を出したのは一人の女官であった。

 禁欲的な真っ白のマグナエは飴色の長い前髪の一筋を残し頭部を顎まできっちり覆っている。二重のまぶたや柔らかい唇は穏やかかつ甘やかだ。ほんのり花の香りがした。


 彼女――シーリーンは、「どうぞこちらへ」と言って扉を大きく開けた。

 テイムルとソウェイルが入るとすぐに閉ざす。それから、二人の前を小走りで先回りをする。白い布が敷かれている絨毯の上に膝をつく。両手で毛足の長い手ぬぐいを広げた。


「はい、おいでください」


 テイムルがソウェイルを白い布の上に下ろすと、シーリーンは広げた手ぬぐいでソウェイルの蒼い頭を包み込んだ。


「さっぱりしましたか? 気持ち良かったですか?」


 シーリーンの問い掛けに、ソウェイルは目を細めて頷いた。シーリーンにはよくなついていてすぐ機嫌を良くしてくれる。うらやましいような、微笑ましいような――テイムルは複雑な気分で見つめているだけだ。


「うん」

「そうでございますか、それはようございました」


 ソウェイルの体から力が抜けた。


「お風邪をお召しにならないよう、ちゃあんとお拭きしなければ、ですね」

「うん」


 おっとりとした笑みや話し方に反して、白く柔らかな手はてきぱきとソウェイルに服を着せていく。機敏な動作は職人芸にも見え、かえって邪魔をしてしまう気がしてテイムルには手伝うの一言も言い出せない。彼女はソウェイルの身の回りのことなら何でも一人でできるのだ。


 彼女もソウェイルが生まれた時からソウェイルの世話係として奉公に来ている女性だ。年はテイムルのひとつ下、当初はもちろん未婚の少女であったが、身分の低い者も嫌がる世話まで笑顔でやり遂げる姿勢が高く評価され、長らくソウェイルの乳母として扱われていた。


 かつてソウェイルにはシーリーンの他に正規の乳母が三人つけられていた。だが、一人は戦乱の中投石の犠牲となり、もう一人はソウェイルを失ったことに耐え切れず自害して、最後の一人は夫に連れられてラクータ帝国に亡命してしまった。他の世話係たちも似たり寄ったりの状況だ。『蒼き太陽』の傍につきたいと言う者は大勢いるが、経験者としてソウェイルのもとへ戻ってきたのはシーリーンたった一人であった。


 座った状態のソウェイルの背後にまわり込み、ソウェイルの体を膝と膝の間に挟むようにして、ソウェイルの髪を櫛で梳き始める。


 ソウェイルの手がシーリーンの膝の上に置かれた。ソウェイルはシーリーンにはこうして自分から触れて甘えるのだ。やはり、シーリーンがうらやましい。


 テイムルも傍に膝をついた。


「これからお夕飯ですし、一度お縛りしましょうか」


 言いつつ、シーリーンの手がソウェイルの髪をまとめ始める。ソウェイルが「うん」と答えると同時に緋色の飾り紐で束ね始める。

 シーリーンなら、安心してソウェイルの神聖な髪を任せることができる。


「シーリーン、前は?」

「前、でございますか?」

「前がみ。目にかかる。じゃま」


 シーリーンが櫛でソウェイルの前髪を整えた。確かに、まっすぐ下ろすと、目を覆うほど長い。


「君、切ってさしあげたら?」


 ソウェイルもシーリーンもテイムルに驚いた目を向けた。


「あらまあ。いいのです?」

「殿下が邪魔だとおおせなんだから、取り除いてさしあげるべきでしょう」

「あれほど殿下の髪にはさみを入れたくないとおっしゃっていたあなたが!」

「殿下の視力にはかえられないからね。後ろはだめだよ、絶対に」

「はあ、では、私が切ってしまってよろしいのですね」

「むしろ今のうちにしてさしあげて。ユングヴィが帰ってきて手をつけようものならどこをどれくらい切るか分からないから」

「なるほど、承知いたしました」


 ソウェイルの前髪を人差し指と中指で挟んで引っ張りつつ、「お夕飯が終わったら切りましょうか」と微笑む。


「眉の辺りで揃えましょうか」

「そうだね、それくらいがいいよ」


 ソウェイルが珍しく笑みを見せた。髪を切られるのがよほど嬉しいらしい。


 甘い、甘ったるい、この上なく甘美な時間だ。ソウェイルとシーリーンがいる空間に、何をするわけでもなく、いる。溶けてしまいそうだ。


 このままではだめになるのではないかと思った頃、廊下から声が聞こえてきた。


「将軍! テイムル将軍、どちらにいらっしゃいますか!? テイムル将軍!」


 どうやら仕事になってしまったようだ。

 テイムルは溜息をつきながら立ち上がった。






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