第5章:白き番犬と砂糖菓子

第1話 この世の楽園は風呂場にある

 ようやく訪れた冬の日、気温は少々冷えてきたが、窓から差し入る強い光は今日も床に影を描いていた。透かし彫りの窓がつくる幾何学模様、連なる多角形は星のようであった。夜空を織り込んだ白黒の絨毯が敷き詰められているかのようだ。

 壁を彩るは花やつるを模した石片タイルである。蒼い空、青い大地に色とりどりの花が咲き乱れている。アルヤ文化の技術の粋が凝らされているのだ。

 侍童たちが窓の更紗を引いた。日の光が弱まり、幾何学模様がぼやけた。

 部屋の中が湿気で満ちた。空気が柔らかくなった。

 部屋の中央には湯の噴水が設置されている。その周囲は円を描くように掘り下げられ、噴水から出た湯を溜められるようになっている。

 テイムルはその湯を木の桶ですくうと、敷き物の上に座ってテイムルに背を向けている蒼い頭に注いだ。

「お湯加減はいかがですか」

 ソウェイルは、その手で自分の顔を拭ったのち、小さな声で「だいじょうぶ」と答えた。

「いいから、早く終わらせて出よ……」

「ゆっくり温まりましょうね」

「いいから……いいけど……」

 ソウェイルが溜息をついた。

 ソウェイルはいったい何が不満なのだろう。テイムルには想像がつかない。強いて言えば、こどもなど皆洗われるのを嫌がるものの気がする。そういうわがままならテイムルは許さない。ソウェイルを清潔に保ってやらねばならないのだ。ソウェイルの健康にとって必要なことなのである。本人が少し嫌がった程度で中止の判断はない。

 サヴァシュとナーヒドがベルカナを緩衝材にして三人で発ってからというもの、テイムルはこうして毎日ソウェイルを洗っていた。

 香油が練り込まれている高級石鹸を手に取り、たっぷりと泡を立てた。少し前にまだ戦場になる前のタウリスから取り寄せておいたものだ。ソウェイルのために使うのであればいくら金がかかろうと構わない。

 泡を、蒼い髪に撫でつけ、掻き混ぜる。頭皮を押すように、髪をこねるように掻き回す。

 テイムルの手の動きに合わせて、ソウェイルの上半身が揺れる。洗いにくいのでソウェイルの腕をつかんで固定しようとする。

 ソウェイルの腕の細さにぞっとする。

 皮膚の下は骨しかないのではないか。無駄な肉どころか必要な肉もないのではないか。強く握り締めたら折れてしまうのではないか。

 大事にしなければならない。守らなければならない。

 彼を傷つけようとするすべてのものから遠ざけて、いいものだけを与えて、きれいにきれいに育てるのだ。

 とはいえ、テイムルも分かってはいる。おとなが良いと思うものだけを与えればいい子が育つというのなら、誰も苦労はしないだろう。

 毎日光や風に当てた方がいい。自分でできることはさせた方がいい。

 でも嫌だ。

 皮膚を焼く光も皮膚を荒らす風にも晒したくない。刺激の強いものは一切与えたくない。常に柔らかで滑らかな絹のようなもので包み込んでおきたい。味の濃いものでさえ食べてほしくない。汚いものに触れさせたくない。地に足が触れるのも許せない。

 腕を引っ張り、こちらを向かせる。

 石鹸の泡で全身を包む。首の付け根から胸、腋の下や脇腹、腕、指の一本一本や谷間、腰、腿、足の付け根――すべて、本当にすべてを手で撫でて洗う。何もかもを拭い去るつもりで洗い落とす。

 ユングヴィはソウェイルに蒸した手ぬぐいで体を拭いて清潔を保つよう教えていた。髪も井戸から汲んできた水で洗っていたらしい。少し髪が傷んだ程度では死なない。それで健康が保てるのなら勝手にそうさせておくべきだ。

 あるいは、侍従官たちにやらせた方がいい。ソウェイルと同じくらいの年の侍童から、ソウェイルの乳母代わりの女官まで、ソウェイルの生活に関すること、身の回りの世話をする人間はいくらでもいる。テイムルは武官で近衛隊長だ。やらねばならないことは他にたくさんあった。ソウェイルの衣食住に手を出して仕事を増やしている場合ではない。

 頭では分かっている。

 でもだめだ。

 ソウェイルに触っていたい。

 ソウェイルを風呂に入れている時、テイムルは、楽園はここにある、と思う。

 この世にあるすべてのつらいことや悲しいこと、苦しいことや汚いことが遠い。そこかしこで武力衝突が相次いで荒れ放題のエスファーナの治安も、サータム帝国に解散させられていたのが最近過激な貴族たちの手によってゆがんだ形で再開されようとしている議会も、バハルからの連絡が途絶え何がどうなっているのかよく分からなくなったタウリスの戦況も、何もかもが全部どうでもよくなる。

 肩から湯をかけて泡を洗い流した。

 ソウェイルの肌は白く滑らかだ。あまり日に当たっていないからだ。毎日洗っているからか皮膚病の気配もない。屋内で大切にされている証拠だ。

 ただ、骨が浮いている。やはり肉が足りない。もっと食べさせて、少し運動をさせた方がいいのではないか。

 戦争になる前はサヴァシュが剣術を教えていると言っていた。だが今はほぼずっと自分の部屋に引きこもって本を読んだり絵を描いたりして過ごしている。いけない。剣術の稽古を続けさせた方がいい。

 頭ではそう分かっているのに、ソウェイルを撫でているとだめになってしまう。

 このまま部屋に閉じ込めておいてもいいかもしれない。そうすれば誰にも傷つけられずに済む。

 ソウェイル自身が強くたくましくなる必要はない。

 ソウェイルは何とも戦わなくていい。自分が守るからだ。自分がソウェイルのために戦うからだ。

 太陽のために生まれ太陽のために生き太陽のために死ぬ――十神剣の中で白将軍だけに与えられた幸福な宿命だ。

 自分は『蒼き太陽』のために死ぬことができる。

 なんと幸せな人生だろう。

 もう一度、今度は反対の肩に湯をかけた時、ソウェイルが口を開いた。

「なあ、テイムル」

 名前を呼ばれたことが嬉しくて、テイムルはすぐに明るい声で「はい、何でしょう」と答えた。

「お湯、もったいなくない……? こんなにざぶざぶかけて、みんな流れていってしまう」

「ご心配には及びません。蒼宮殿のすべての水が殿下に使われるためにあるのですから」

「でも、町では、みんな、井戸から水をくんでいるんだ。水を運ぶのはたいへんで、水を使うのはすごいことなんだ。だから、水を、だいじにしなきゃ――」

「アルヤ王国のすべての水が殿下のためにあるのです」

 ソウェイルが黙った。何となく面白くなさそうな顔をしている気はするが、気のせいかもしれない。ソウェイルはもともと表情が乏しい。ふだんからこんな無表情だ。もっと喜怒哀楽が激しくてもいいのに、とは思うが、あまり激しすぎるとフェイフューみたいになるから、テイムルの太陽はこれでいいのである。

 泡がすべて落ちたのを確認してから、ソウェイルを抱き上げた。

 浴槽の中にそっと下ろした。

 腰を落ち着けたソウェイルは、湯の中に手を突っ込み、ひとすくい分持ち上げて、指の間を流れ落ちていく湯を眺めた。特に何ということもない仕草だったが、言葉を失うくらい可愛い。

「テイムル、あの、」

 ソウェイルが振り向く。大きな目がテイムルを見る。

「このお湯、いつも終わったあとどうしているんだ?」

「捨てています」

 ソウェイルの蒼い瞳が真ん丸になった。

「使わないのか……? こんなにいっぱいあるのに……?」

「時々捨てる前に洗濯の女たちが使っているそうですよ」

「ときどきじゃなくて、いつもそう、はできない……?」

「はあ、できますが」

 何となく、ソウェイルが浸かったあとの湯を使うことが変態行為に思えて気持ちが悪い、とは、言えなかった。ソウェイルにはそういう汚らわしいことは一切考えてほしくなかった。

「すごくもったいないから……使うほうがたいへんならいいけど……でも、なんか、捨ててしまうのは……おれ、あんまりすきくない、かな……」

 言葉遣いがあまり上品ではない。ユングヴィの口調がうつっているのだ。どうにか矯正したいが強く言うのも気が引けて悩む。

「承知しました、再利用するように手配します」

 ソウェイルの肩から力が抜けた。

「フェイフューが言ってた、水はシゲンだって」

「サータム帝国には塩水しかありませんからね。こうして水が使えるのはアルヤが豊かな証拠です」

 だからこそソウェイルには惜しみなく使わせたい。少し無駄遣いをしていると思うくらいの贅沢を味わってほしい。

 この世のすべてをソウェイルに消費させたい。

 それにしても、作業が終わってしまった。あと少ししたらのぼせないうちに湯から出さなければならない。

 テイムルは溜息をついた。

 あと少しで、今一日の中で一番楽しいことが終わってしまうのだ。

「おれ、おふろすきくない……」

「今日はもう終わりです。また明日」

「ええ……明日も……? まあ……いいけど……」

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