第17話 サータム帝国とアルヤ王国のはざま
草がわずかに点在している山肌を、一人の少年が山羊を引き連れて歩いている。
少年の姿を見て、バハルはほっと息を吐いた。
『カーヒル!』
少年が顔を上げる。
少年は、最初のうちこそ何が起こったのか分からないという顔でバハルを眺めていたが、やがて、笑みを浮かべて駆け寄ってきた。
『父さん!』
抱きついてきた少年を全力で抱き締める。世界中の何物も自分たちを引き離すことができないように、強く、強く抱き締める。
『背が伸びたな。なんだか急に大人っぽくなったみたいに見える』
『急にって、最後に会ったのは三年前だぞ』
頬を、胸に、すり寄せる。
『俺ももうすぐ十二歳だ。成長するに決まってる』
『そうだな。悪かった。なかなか帰ってこれなくて、お前には苦労をさせてるなあ』
だが少年はバハルを責めなかった。
『その分重大な仕事をしているということなんだろ』
体を離して、父の目を見つめる。父と同じ薄い色の瞳で、だ。
『俺は父さんにしかできない仕事をしている父さんを誇りに思ってる。父さんは他の誰にもできない任務に携わってるんだ』
その声は力強い。
『俺も父さんみたいな軍人になりたい。誰にも褒められなくていい、誰にも振り返られなくていい、サータム帝国のために働きたいんだ。サータム帝国と、それから、アルヤ民族の、平和のために』
バハルの手が震えたのも知らず少年は笑顔で続ける。
『十二になったら軍隊に入る。帝都に行って、軍学校の宿舎に入ることにした』
『本気か』
『ばあちゃんには許可を取った。ばあちゃんを一人にさせるのはつらいけど、俺がきちんと給金を貰えるようになったら帝都に呼んで一緒に暮らすんだ』
そして少しうつむく。
『この家は取り壊すことになっちゃうかもしれないけど……、それは、父さんに申し訳ないけど。父さんと母さんの思い出の家なのに――俺が守っていくって約束したのに』
バハルは首を横に振って少年の頭を撫でた。
『いいんだ。お前の好きにしろ』
『父さん』
『この家はもうお前のものだ。いつ帰ってくるか知れない父さんのことは待たなくていい。お前がそうと決めたなら――』
一度、息を飲む。
『俺は、反対はしない』
本当は泣き叫んで止めたい。
息子の無邪気な顔を見ていると、何も言えない。
『自分で自分の将来を決められるようになったお前を誇りに思う』
少年が笑った。
すぐ傍にある小屋のような家の扉が開いた。出てきたのは初老の女だ。頭を覆う布からはみ出た髪はほとんど白いが、ふくよかな顔や機敏な動きにはまだ若さが残っている。
『カーヒル、何を騒いでるんだい』
『ばあちゃん!』
初老の女が目を丸くした。
『バハル!? バハルや、お前、帰ってきたのかい』
変わらぬ様子の母を見て、バハルはまた、苦笑を浮かべた。
『たった今』
『でもあんた、今おかみがタウリスに攻め込んだって――』
『そう。戦線を少し抜け出してきた。だからすぐに帰る』
少年が笑みを消して悲しそうな表情を作った。
『やっぱり一緒にはいられないのか』
『……ごめんな』
『いや、しょうがない』
笑みを作り直す。
『今度こそ。今度の戦争が、終わったら。村に帰ってこれるんだよな』
『カーヒル……』
『この戦争で、アルヤ王国が、完全になくなったら。アルヤ王国の人たちが太陽を諦めて改宗すると言ってくれれば。みんなみんな、平和に暮らせるんだろ』
少年の瞳は、まっすぐだ。
『そうなんだろ』
溜息をついたのは老母だ。
『お前は少しあちらに行ってなさい。ばあちゃん、お父さんと大事な話をするから。食事の時には呼んであげるよ、少し山羊の世話をして待っていなさい』
不承不承ながらも、少年は頷いてその場を離れた。
遠ざかっていく背中を眺める。
彼の肩はまだ華奢だ。世界の
あの子は何ひとつ悪いことをしていない。母は亡く父も傍にいない祖母と二人きりの生活の中でもすさむことなくまっすぐに生きている。
耐えれば、働けば、世界は平和になると信じている。
今は神の愛を祈るしかない。
老母に導かれるまま、家の中に入った。狭い土壁の部屋の中、粗末な敷き物の上に二人向かい合って座った。
ここは静かだ。軍馬のいななきも銃声も聞こえない。まるで世界が平和であるかのようだ。
この山がちの村はサータム帝国領とアルヤ王国領のはざまにある。この村で暮らす人間はたいていサータム語とアルヤ語の両方ができる。サータム人でありながらアルヤ文化に明るい。
したがってアルヤ王国軍にも忍び込める。
バハルは十八の時老母と妻と息子を養えるなら何でもすると誓った。多少嘘をつくことになっても金になるならいいと判断した。
国境を越えるのは大したことではなかった。遠くの帝国の都より近くの王国のタウリスの方が家族も安心だろう程度に思っていた。
そもそも、この世に国境など存在しないと思っていた。この村はサータム帝国とアルヤ王国の間にあってどちらでもないしどちらでもある。大地に線など引かれていない。壁はひとびとの心の中にしかなく、その壁もほんの少しの思いやりで簡単に乗り越えることができる――そう信じていた。
すべての人間が神を愛し神に愛されて生きているのだと思い込んでいた。
『あの子はまだアルヤ人とサータム人は分かり合えると思ってるよ』
老母が涙声で言う。
『お父さんとお母さんが仲良く暮らしていたのを憶えてるんだよ。みんなああやって暮らせると思い込んでるんだ』
妻が生きていた頃のことを思い出す。
彼女は山向こうのアルヤ人の村から嫁いできた。サータム語を喋ってこの村に馴染もうとしていた。改宗もした。彼女は一度、神への信仰を告白した。
戦争が始まった時、山向こうの村から迎えが来たらしい。山向こうからやって来た彼女の親族の男たちは、サータム男のもとに娘をやったことについてどうかしていたと言った。誇り高いアルヤ民族の血を引く娘がここにいてはいけないと声高に叫んだ。
夫の親族と自分の親族に挟まれ苦しんだ彼女は、村の真ん中で、改宗は嘘だったと、今も太陽を崇拝していると言ってしまったのだそうだ。
怒った村の人たちは彼女に油を注ぎ火をつけた。
――邪教を信じる傲慢なアルヤの豚め、大好きな炎にまかれて燃えてしまえばいい。
『自分の母親があんな目にあって死んだのに、まだ、誰も憎めないんだよ』
バハルは拳を握り締めた。
『俺もだ』
妻が本当の意味で改宗したわけではないことも知っていた。彼女が礼拝を欠かすことがあるのにも気づいていた。
息子にとって良き母であるなら構わない。息子に太陽崇拝を強要しないならそれでいい。サータム語で暮らしてくれるなら頭の中ではアルヤ語こそ世界で一番美しいことばだと思っていてもいい。
壁など乗り越えられる。大事なのはほんの少しの思いやりだ。
『俺にはどうしても誰かを悪い奴だと思うことができない』
それでも、アルヤ人である妻を愛していた。
『向こうで暮らす時間が長くなるにつれて不安になってくる。俺はアルヤ人を追い詰めてるだけじゃないのか、やればやるほどサータム人から心が離れていくんじゃないのか? こんなことをして本当にひとつになれるのか、愛し合えるのか? 俺は嫁とどうやって暮らしていた、こんな乱暴なこと一度でも嫁にしたことあったか?』
いつか分かり合えるのだと、信じていたい。
『お袋、教えてくれ。俺はどれだけ殺せばいいんだ。どれだけ殺せばみんな平和になるんだ』
背に負っていた神剣を、床に放り出した。
『十七の若者と十九の女の子がひどい怪我をしている。もしかしたら今頃死んでいるかもしれない。いや遅かれ早かれ死ぬ、あの子たちが神に背いて帝国軍に刃を向けている以上俺はあの子たちのことを帝国軍に話さなければいけない。近々さらにもう一人殺す、十四のまだ子供っぽい顔をした少年が――あの子は俺が何をしているのかに気づいてる、早く殺さないと今度は俺が殺される、早く、早く殺さないと――』
神剣は黄金色に輝いていた。
『十代の若者ばかり三人も犠牲にして、俺は何をしたかったんだろう』
こんなことで、息子が誇れる仕事だと言えるだろうか。
『どうして俺が神剣を抜いたんだ。神剣はサータム人である俺に何をさせたいんだ』
母の手をつかんだ。
『神剣を抜いただけの俺が神剣を抜いただけの若者たちを殺さなければいけない? アルヤ王国に神の慈悲はないのかよ』
母は、バハルの手を握り返した。
『神様はきっとすべてご存知だよ』
その笑顔は泣きそうに歪んでいた。
『神様はきっとそのアルヤ人の若者たちを助けてくださるよ。お前もだ。お前が犠牲になればいいわけじゃない。きっと、みんな、みんな――』
『お袋……』
『私も信じるよ。いつか分かり合える日が来るよ。お前が大事にしているアルヤ人たちを私も大事にするよ』
日に焼けた頬に涙がこぼれた。
『神様は、きっとみんな、愛してくださるよ。まことに
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